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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
エピローグ:永遠の境界
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第53話 新しい存在

地上に戻った者は、誰もいなかった。 香織も、翔太も。


六月二十日の朝、田辺家と田中家に警察から連絡が入った。廃寺の本堂で、二人の学生鞄と靴が発見されたという。しかし、二人の姿はどこにもなかった。本堂の床には巨大な穴が開いていたが、その穴は崩落した瓦礫で完全に塞がれており、内部の調査は不可能だった。


捜索は三ヶ月続いた。しかし、手がかりは何一つ見つからなかった。 家族が廃寺に駆けつけた時、本堂は静まり返り、地下への穴は塞がっていた。まるで、最初から何もなかったかのように。


「失敗したのね……」


真紀が呟いた。その声には、失望と安堵が入り混じっていた。


「いいえ」


和子が首を振る。その顔には、五十年間見せなかった穏やかな表情が浮かんでいた。


「成功とも、失敗とも違う。あの子たちは、新しい形を見つけたのじゃ」


真紀は、その言葉の意味を理解しようとしなかった。


襖の向こうで、美代子がその言葉を聞いていた。涙を流せない乾いた目で、彼女はただじっと、雨が降り始めた窓の外を見つめていた。その乾ききった唇が、微かに動いた。


「香織……健一と同じ場所に、行ったのね……」


真紀は、再び東京へと戻り、完璧な日常に戻った。 しかし、その日常は、以前にも増して空虚だった。


鏡に映る自分の顔は、完璧な美しさを保っている。だが、笑顔を作ろうとしても、口元は歪むだけで、笑い方を忘れてしまっていた。 高級レストランで豪華な料理を食べても、その味は水に溶けて消えていくように感じられた。 会議室で部下から称賛の言葉を浴びせられても、その声はすべて「水音」に聞こえた。


「真紀さん、今回のプロジェクト、大成功です!」


「...ぽちゃ、ぽちゃ、ごぼり...」


彼女の耳に届くのは、そんな音ばかりだった。


■季節の巡りと境界の生


二人の新しい生は、季節と共にあった。


雨が降る日、彼らは姿を現すことができる。田辺家の庭、廃寺の境内、二人が出会った図書館、最後のデートをした海辺。水のある場所に、半透明の揺らめく姿で。 しかし、その姿を認識できる者は限られていた。水の呪いに触れた者、あるいは深い喪失を抱えた者だけが、彼らの存在を感じ取ることができた。


晴れが続く乾季は苦痛だった。地下水脈の中、意識は保たれるものの、個としての輪郭を失い、ただの水の一部として流れ続ける。自分が自分でなくなっていく恐怖。その中で、二人は互いの意識だけを頼りに、次の雨を待ち続けた。


『寒い?』


水脈の中で、翔太の意識が香織に問いかける。


『ううん……あなたがいるから、大丈夫』


香織の意識が応える。それは音声ではなく、水の振動として伝わる思念だった。


満月の夜、廃寺の地下水脈では、歴代の犠牲者たちの意識が集う。 亮介、聡、健一、佐助……。彼らはもはや水そのものであり、人間の形を保つことはできない。しかし、その意識は水の中に溶けている。記憶も、感情も、愛も、すべてが水の一部となって流れ続けている。


そこに、香織と翔太も加わる。彼らだけが、かろうじて人の形を保っていた。それは完全な人間でも、完全な水でもない、境界に留まる存在だった。


『新しい道か』


亮介の意識が、水脈全体から語りかけてくる。


『和子に伝えてくれ……もう苦しくないと……』


香織と翔太の存在は、この水底の世界にも、微かな変化をもたらしていた。怨嗟と嫉妬の渦だった場所に、諦観と、そして静かな受容が生まれ始めていた。死者たちは、永遠の孤独から、永遠の共同体へと変わりつつあった。

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