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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十五章:水時計の部屋 - 最後の六十分
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第51話 【残り10分】最後の誘惑

すべての音が消えた。 水位の上昇が止まり、渦巻いていた水面が凪ぐ。 香織と翔太は、互いを抱きしめ合ったまま、水中に静止していた。 その静寂の中、松姫の意識が、最後の罠を仕掛けた。二人の精神を引き剥がし、それぞれの心の最も甘く、最も脆い部分へと侵入する。


(香織の幻覚)


気がつくと、私は水底に立っていた。体は光り輝き、完璧な美しさを湛えている。満ち足りた全能感が、私を満たしていた。目の前には、ガラスケースの中に眠るように横たわる翔太君の姿があった。彼は、私だけを見つめていた。その瞳は、永遠に私だけを映す美しい鏡。彼は私のもの。永遠に。


『これこそがお前の本来の姿』


松姫の声が、思考に直接響く。


『愛を支配する者となるのです。それが巫女の究極の喜びなのです』


喜び…?そうなのだろうか。でも、私は翔太君の瞳を覗き込んで、気づいてしまった。 そこに、光がない。魂がない。ただ、私という存在を反射しているだけ。 違う…!これは愛じゃない。あなたがいない世界で、私が美しいことに何の意味があるの?これは、ただの永遠の孤独…! 私は、翔太君と笑い合いたい!


(翔太の幻覚)


僕は、高校の教室にいた。隣の席で、香織ちゃんが笑っている。呪いなんて最初からなかった世界。僕たちは普通の高校生で、普通の恋をして、平凡で幸せな未来を歩んでいく。卒業、大学、就職、結婚……。太陽の光に満ちた、温かいビジョン。


『お前が自ら水底に来れば、娘は救われます』


松姫の声が、優しく囁く。


『自己犠牲こそ、最も美しい愛の証明です。この幸せを、彼女に与えなさい』


そうだ、これが一番いい。俺が犠牲になれば、香織ちゃんは… いや、違う。隣で笑う香織ちゃんの瞳が、どこか空虚だ。魂の半分を失って、ただ笑っているだけの人形だ!魂のない幸せなんて、ただの地獄だ! 俺は、苦しみながらでも、本当の君と一緒にいたいんだ!


■覚醒


『私たちは、偽りの幸福はいらない!』


二人の拒絶の意志が、一つの叫びとなって精神世界に響き渡った。 その瞬間、幻覚はガラスのように砕け散り、二人の意識は水時計の部屋へと戻された。 彼らが放った純粋な愛の意志は、松姫の孤独な支配のシステムに、決定的な亀裂を入れた。


【残り5分】わらべ歌の残響


完全な静寂の中で、香織と翔太は浮遊していた。水の中でありながら、水の外。時間の中でありながら、時間の外。 二人の意識は、もはや個別のものではなかった。しかし、一つに溶け合ったわけでもない。二つの旋律が調和し、新しい音楽を奏でるように、それぞれの個性を保ちながら共鳴している。


その時、どこからともなく、子供の歌声が聞こえてきた。それは、この町の子供たちが無邪気に歌っていた、あのわらべ歌だった。しかし、ここでは悲しく、寂しい響きを伴っている。


「水はどこへ行く? 水はどこへ行く? 愛しいあの人 迎えに 水は水底へ カランコロン 水の時計が カチコチと 花嫁水に浮かびます 涙を流して お別れよ またね、またね、水底で」


歌声は、彼らの耳にまとわりつき、逃げられない運命を暗示する。それでも、香織と翔太は強く手を握りしめた。この歌が、自分たちを水底に引きずり込もうとする、最後の呪文であるかのように感じたからだ。


完全な静寂の中で、香織と翔太は浮遊していた。水の中でありながら、水の外。時間の中でありながら、時間の外。 二人の意識は、もはや個別のものではなかった。しかし、一つに溶け合ったわけでもない。二つの旋律が調和し、新しい音楽を奏でるように、それぞれの個性を保ちながら共鳴している。


『選びなさい』


声が響いた。それは松姫でも、亮介でも、誰でもない声。水時計そのものの声。


『三つの道がある』


空間に、三つの光の道が現れた。


第一の道は、赤い光。


『儀式を完遂し、巫女と犠牲者となる』


第二の道は、黒い光。


『儀式を拒否し、二人とも死ぬ』


第三の道は、虹色の光。


『新しい形を受け入れる。人でも水でもない、境界の存在となる』


香織と翔太の意識が、一つの決断を下す。


『第三の道を』


その瞬間、水時計が砕け散った。

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