第5話 バレンタインと芽生える想い
二月十四日、火曜日。和子は、朝から落ち着かなかった。
鞄の中に、小さな包みがある。昨夜、母屋から離れた台所で、一人こっそりと作ったチョコレート。不格好で、少し焦げていて、全然売り物のようには見えない。でも、心を込めて作った。亮介のために。
いや、違う。これは単なる友情の……義理の……。自分に言い聞かせても、高鳴る心臓は正直だった。書道教室での時間は、喫茶店で過ごした時間は、和子にとって唯一の救いになっていた。あの湿気と黴の匂いに満ちた家から、少しの間だけでも解放される時間。
「おはよう、和子」
教室に入ると、亮介がすでに席についていた。机の上には、色とりどりの包みが山積みになっている。当然だ。野球部のエース、成績も悪くない、明るくて優しい亮介は、女子に人気がある。
「すごい量ですね」
和子は、できるだけ平静を装って言った。声が震えていないだろうか。
「食べきれないよ。和子も手伝ってくれる?」
「遠慮します。甘いものはあまり…」
「冷たいなあ」
亮介が苦笑する。その顔を見て、和子は鞄の中のチョコレートがひどく恥ずかしくなった。あんな不格好なもの、渡せるわけがない。
昼休み。和子は一人、屋上への階段に座っていた。手には、渡せなかったチョコレート。包装紙も安っぽくて、リボンも曲がっている。
「和子?」
振り返ると、亮介が立っていた。
「どうしたの、こんなところで」
「別に…少し風に当たりに」
「あ、それ……チョコ?」
亮介の視線が、和子の手元に注がれる。慌てて隠そうとしたが、遅かった。
「誰かにあげるの?」
「いえ、これは……失敗作で、捨てようかと」
「失敗作?」
亮介が不思議そうに首を傾げ、和子の隣にどかりと座った。
「手作りしたんだ。すごいな」
「でも、形が変で、味も分からないし」
「食べてみてもいい?」
「え?」
亮介は、和子の返事を待たずに包みを開けた。いびつな形のチョコレートを一口齧る。
「うまい!」
「嘘です。焦げているでしょう?」
「本当だって。ちょっと焦げた味がするけど、それがまたいい。コーヒーみたいでさ」
亮介は、あっという間に全部食べてしまった。
「ごちそうさま。今日、山ほどもらったけど、これが一番美味しかった」
「そんな……お世辞はいいです」
「本当だよ」
亮介の顔が、少し赤い。照れているのか、それとも……。
「実は俺、和子からももらえるかなって、ちょっとだけ期待してたんだ」
和子の心臓が、激しく鼓動する。
「だから、すごく嬉しい」
夕方、部活の後。亮介は和子を呼び止めた。
「これ」
小さな紙袋を差し出す。
「バレンタインのお返しには早いけど」
中を見ると、小さな銀色の鈴が入っていた。古びてはいるが、磨き上げられている。
「お守り。神社のやつだけど、和子に持っててもらいたくて」
「でも、亮介君の大事なお守りでしょう?」
「和子が持ってくれる方が、ご利益がある気がするんだ。俺、夏の大会、本気で甲子園目指してるから」
亮介が照れくさそうに笑う。和子は鈴を握りしめた。ひやりと冷たい金属の感触。でも、亮介の温もりを感じる気がした。
その夜、和子は鈴を枕元に置いて眠った。ちりん、ちりん。小さな音が、夢の中まで響いていた。夢の中で、和子は水の中にいた。でも、その鈴の音だけが、地上と自分を繋ぐ唯一の糸のように思えた。
それは、希望の音だった。