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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十四章:地下への降下
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第46話 地下第三層:逆流の廊下 - 狂気と共闘

扉の先は、常識が崩壊する空間だった。天井、壁、床の区別がない、異次元的な回廊。水が重力を無視して、下から上へ、横から横へと溢れ出している。滝が逆さまに流れ、川が壁を這っている。


二人が足を踏み入れた瞬間、凄まじい浮遊感と眩暈に襲われた。


【真紀の場合】


六年前。真紀がこの回廊に足を踏み入れた時、彼女の心はすでに狂気に支配されていた。水の逆流は、彼女の心の奥底に渦巻く矛盾を映し出していた。聡の命を捧げることで、人間としての感情を殺し、美しさを手に入れる。それは、彼女の理性と本能が激しく衝突する場所だった。


「私は、鬼になるんだから」


真紀は、理性で自分の心を無理やりコントロールしようとした。逆流する水に抗い、完璧な歩みを続けた。彼女にとって、この回廊は、感情の乱れを許さない、自分自身との戦いの場だった。


そして二度目。浩介を連れてここを降りた時、真紀の心はすでに空っぽだった。水の逆流は、もはや彼女の心を惑わせることはなかった。ただ、作業のように、目的へと向かって進むだけ。彼女は、この回廊を、感情を失った怪物が歩く、ただの道として認識していた。


【香織と翔太の場合】


「うわっ……!」


翔太は平衡感覚を失い、その場に膝をついた。どちらが上で、どちらが下か分からなくなる。三半規管が狂い、吐き気がこみ上げてくる。


水は意志を持っているかのように、二人の方向感覚を狂わせようとする。右へ進もうとすれば、右の壁から激しい水流が押し戻す。まっすぐ進もうとすれば、床から水柱が噴き上がって行く手を阻む。


この空間は、水時計が過去の悲劇を繰り返そうとする、怨念の具現化だった。水流は、過去の犠牲者たちの感情(怒り、悲しみ、後悔)を帯び、二人に襲い掛かる。


「香織ちゃん、こっちだ!」


翔太は叫ぶが、自分の声がどこから響いているのかさえ分からない。


「違う、こっち!」


香織が、翔太の手を引いた。彼女の目は、この狂った空間の中でも、確かな何かを捉えているようだった。


「水の流れが見える……本当の流れが……」


香織は、目に見えない水脈を頼りに進んでいく。彼女にとっては、この混沌とした空間こそが、世界の真の姿なのかもしれなかった。


「この先、水が澱んでる。そこを通れば、水の流れに逆らわずに進める」


香織は、過去の巫女たちが感じていた、水の「声」や「意志」を、直感的に読み取っていた。


翔太は、その直感を信じた。彼は理性でこの狂気に立ち向かい、香織は本能でその本質を見抜く。二人の能力が、ここで初めて完璧に調和した。それは、過去の恋人たちにはなかった、新しい関係性だった。


■澱との遭遇


逆流の廊下を抜けた先は、淀んだ空気と腐臭が漂う、洞窟のような空間だった。中央には、黒く濁った水たまりがある。その水たまりの底から、何かがゆっくりと浮かび上がってきた。人の形を保てていない、怨嗟の言葉を呟き続ける、黒い水の塊。


「失敗した巫女たちの成れの果て」――おり


それは、健一を捧げることに失敗し、涙を失った母・美代子の魂が、もし儀式に失敗していればたどり着いたであろう、絶望の姿だった。


『……しい……』

『……美しく……』

『……美しく、なれなかった……』


澱たちは、香織を見つめていた。その声には、百数十年分の嫉妬と絶望が凝縮されている。


『あの子は、なれる……ずるい……』

『儀式を失敗した……愛が足りなかった……捧げものが、不浄だった……』

『だから、私たちは澱になった……水にもなれず、人にも戻れず……』


黒い水の中から、無数の手が伸びてきた。泥のような、ヘドロのような手。


『おいで、お前も』

『私たちの仲間に』

『失敗すれば、お前もこうなる』


澱たちが、香織を水たまりに引きずり込もうとする。その冷たく、重い感触は、希望の一切を奪う絶望そのものだった。


「やめろ!」


翔太が懐中電灯の光を澱に集中させる。澱たちは光を嫌うように、一瞬だけ動きを止めた。その隙に、二人は洞窟を駆け抜けた。背後から、いつまでも怨嗟の声が追いかけてきた。

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