第45話 地下第二層:幻影の間 - 欲望と葛藤
さらに下。長い回廊に出た。床は一面、鏡のように澄んだ水で覆われている。くるぶしほどの深さ。天井は高く、アーチ状になっている。ゴシック建築の教会を思わせる荘厳な造り。しかし、その美しさは歪んでいた。
香織と翔太が回廊に足を踏み入れた瞬間、足元の水面が揺らめき、映像を映し出した。それは、過去の犠牲者たちの、最も幸福だった頃の幻影だった。しかし、それらは単なる映像ではない。彼らの心の渇望を具現化した、精神的な罠だった。
【真紀の場合】
六年前。真紀が聡と共にこの回廊に足を踏み入れた時、彼女の足元に映ったのは、聡と幸せに笑い合う自分の幻影だった。それは、彼女が心の奥底で最も望んでいた、しかし手に入れることのできない未来。
『ここにおいで、真紀』
聡の声が、水面から響く。
『僕たちはずっと一緒だ。誰にも邪魔されない、二人だけの世界で』
その幻影はあまりにも甘美で、真紀は一瞬、その中に身を投じそうになった。しかし、彼女の理性が最後の抵抗を見せた。これは、偽りの幸福だ。この先には、聡を失うという悲劇が待っている。
それでも、彼女の心は葛藤した。このまま儀式を完遂すれば、聡は永遠に自分のものになる。しかしそれは、魂のない人形を愛することになる。
真紀は、冷たく突き放すことで、この誘惑から逃れようとした。
『あなたの愛は、もう私には必要ないわ』
その言葉は、聡の幻影を打ち消したが、真紀自身の心に深い傷を残した。愛を否定することでしか、彼女は前に進むことができなかった。
【香織と翔太の場合】
香織の足元に、聡の幻影が浮かび上がる。彼は生徒会室で、照れながら真紀にココアを渡している。その横で、真紀は完璧な笑顔で、感情のない目で聡を見つめている。
『こちらへおいで』
聡が、水の中から優しく微笑む。
『ここなら、もう苦しまなくていい。楽になれるよ。永遠に、僕だけの世界で生きていけるんだ』
その声は、真紀が最も渇望していた言葉だった。聡の死を無駄にしないため、二度目の儀式を遂行するまでになった真紀の狂気。それは、永遠の幸福を求めた、歪んだ愛の形だった。
しかし、その幻影は香織には全く響かなかった。
「これは、お姉ちゃんの幻……私には関係ない」
香織は幻影を無視し、前へと進んだ。彼女の心には、翔太と「第三の道」を歩む決意しかなかったからだ。
一方で、翔太の足元には、健一の幻影が現れる。彼はバイクに跨り、美代子の手を引いている。
『諦めちまえよ。どうせ逃げられないんだ。こっちの水は、温かいぜ。お前が犠牲になれば、香織ちゃんは幸せになれる』
その声は、健一が美代子を救うために自ら水に沈んだ時の言葉だ。自己犠牲こそが、最も美しい愛の証明であると。
「違う!」
翔太は叫んだ。
「健一さんは、お母さんを愛していた。だからこそ、自分の命を投げ出した。でも、その結果、お母さんは涙を流すこともできず、ずっと苦しみ続けた!愛する人を失った悲しみは、永遠に癒えないんだ!」
翔太は、健一の幻影を真っ直ぐ見つめ、力強く言い放った。
「僕は、愛する人を犠牲にしてまで得たい幸せなんていらない!苦しみながらでも、一緒に生きていく道を選ぶ!」
その強い意志に、幻影は一瞬怯んだ。水面が激しく波立ち、彼らの姿は掻き消えた。しかし、甘い囁き声だけは、回廊の奥までずっと、二人の耳にまとわりついていた。
回廊の奥に、石の扉があった。表面には、複雑な紋様が彫られている。水の流れを表す曲線と、時計の歯車を模した円形。そして、中央には漢字が一文字。
『惑』




