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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十四章:地下への降下
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第44話 地下第一層:前室 - 記憶の壁

石の梯子を伝って降りる。最初の数メートルは、ただの闇だった。懐中電灯の光が届かない、絶対的な暗黒。梯子の石と、命綱として繋いだロープの感触だけが、現実との唯一の接点だった。麻のロープは湿気を吸って重く、触れるたびに冷たい水が指の間から滲み出る。その水は、生臭い鉄錆の匂いがした。


「大丈夫?」


上から翔太の声が響く。その声は狭い縦穴の中で幾重にも反響し、まるで複数の翔太が同時に問いかけているように聞こえた。


「ええ」


香織の返事も、同じように分裂して響く。自分の声が自分のものでないような、奇妙な感覚。


五メートルを過ぎた辺りで、壁の質感が変わった。土から石へ。指先が壁に触れると、そこには何かが彫られている。文字だ。無数の文字が、壁一面を覆っている。


そして、床に足がついた。石造りの部屋。天井は低く、大人が立つと頭がつきそうなほど。しかし横幅は広い。十メートル四方はあるだろうか。壁はぬめりを帯びた湿り気で覆われ、所々から水が滲み出している。その水は透明ではない。薄く赤みを帯び、錆びた鉄の味がしそうな色をしている。


翔太が降りてきた。懐中電灯を二つ、同時に壁に向ける。


「これは……」


壁一面に、文字が刻まれていた。数えきれないほどの文字。名前と、日付と、そして言葉。それは百五十年分の、巫女たちとその犠牲者たちの最後の言葉だった。それらは単なる刻印ではない。愛と絶望の記憶が、魂の残滓となってこの壁にこびりついているのだ。


香織は、壁に近づいた。指先が、文字をなぞる。


『明治四年七月二十日 おたね 助けて まだ生きてる 水の中で生きてる』


その瞬間、おたねという少女の最期の感覚が、香織の脳裏に流れ込んできた。それは映像でも、音でもない。ただ、水中で必死にもがく肉体の苦しみと、孤独な絶望。香織の体から、震えが止まらなくなる。


翔太が別の文字に触れた。


『大正十五年六月十八日 雪子 痛い 骨が溶ける でも美しくなっていく』


「うっ……」


翔太が小さく呻く。彼の脳裏には、雪子という巫女が、自らの肉体が水と一体化していく激痛を、恍惚と受け入れている記憶が流れ込んでいた。美しくなるための、身を切るような痛み。


そして、香織と翔太の二人が同時に、一つの刻印に引き寄せられた。


『昭和四十七年六月二十日 和子 理由は分からない ただそうしなければならない』


その隣に、別の筆跡で。


『愛してた ごめん でも君といられて幸せだった 亮介』


翔太は亮介の文字を、香織は和子の文字を、それぞれ指でなぞった。


「見えた……」 翔太が呟く。


彼の脳裏には、亮介の最期の光景が鮮明に再生された。水が肺を満たす苦しみ、愛する和子に裏切られた絶望。だが、その奥にあったのは、和子の瞳の奥に見た悲しみを理解した時の、深い安堵だった。野球場の土と汗の匂いが鼻をかすめ、遠い日の歓声が聞こえる。


『和子、俺は幸せだった。君と出会えて、本当に幸せだった……』


「亮介大叔父さん……」


翔太の目から、一筋の涙が流れた。それは恐怖の涙ではない。五十年分の、癒えることのなかった悲しみを解放する、安堵の涙だった。


一方、香織の脳裏には、和子の記憶が奔流のように流れ込んでいた。


『ごめんね、亮介君』という言葉が、どれほどの苦痛の中で発せられたか。愛する人を自らの手で水に沈めることの、耐え難い悲しみ。和子が亮介に手を伸ばし、彼を抱きしめたかった衝動が、香織の心を激しく揺さぶった。


『私は、ただの道具だ』


和子の心の中の叫びが、香織の心を貫く。自分の意思に反して動く体。愛する人を殺さなければならない運命。それが、祖母の五十年を支配した絶望だった。


「おばあちゃん……」


香織の目から、水が流れた。涙ではない。祖母の苦しみを分かち合う、透明で冷たい水。祖母への恐怖が、深い憐憫に変わった瞬間だった。


その瞬間、壁から赤い水が滲み出てきた。血のような、でも血ではない、もっと澄んだ赤い水。文字が、生きているように蠢き始めた。


『お前たちも、もうすぐ仲間だ』


声が、壁の向こうから響いた。いや、壁そのものから発せられている。無数の声が重なり合い、一つの意味を紡ぎ出す。


過去の犠牲者たちの魂が、二人に語りかける。それは救いを求める声であり、呪いへと誘う甘い誘惑でもあった。


壁から無数の手が伸びてくる。透明な、水でできた手。香織の手を掴み、引き込もうとする。


「きゃっ!」


香織は壁に吸い寄せられるように、体勢を崩した。


「香織ちゃん!」


翔太が、香織を引き離した。手は、すぐに水になって流れ落ちた。でも、香織の手には跡が残った。青い、手形の跡。まるで、烙印のように。それは彼女の皮膚に染み込み、血管のように枝分かれして広がっていく。


「痛くない」


香織が呟く。


「むしろ、懐かしい感じがする」


彼女の体から、微かに水の匂いがし始めていた。古い井戸の底のような、苔と鉄錆の混じった匂い。


部屋の隅に、石の階段があった。螺旋を描いて、さらに深部へと続いている。闇が、階段を飲み込んでいる。


「行きましょう」


香織が先に立った。その足取りには、もう迷いはなかった。

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