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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十三章:背負う者
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第43話 生きている本堂

扉が開いた瞬間、香織と翔太は、息を呑んだ。


本堂の内部は、想像を絶する光景だった。床、壁、天井、すべてが有機的な曲線で構成されている。まるで、巨大な生物の内臓の中にいるような。壁は濡れていて、触れると温かい。三十七度。人間の体温と同じだ。血管のように張り巡らされた青い筋が、ゆっくりと脈打つのが見て取れる。その中に流れるのは、水。脈動するたびに、かすかな水音が響く。


ぽくん…ぽくん…


その音は、彼らの心臓の鼓動と共鳴し、奇妙な高揚感を掻き立てた。


本堂の中央には、あの穴があった。直径三メートルの、完全な円。底は見えない。ただ、下から冷たい風が吹き上げている。その風には、鉄錆と苔と、そして微かに腐敗臭が混じっていた。


穴の周りには、無数の古びた石像が立ち並んでいた。それらは、かつてこの場所で儀式を執り行った巫女たちの像だった。しかし、その顔は、すべて香織に似ていた。そして、その足元には、水に捧げられた男たちの像が跪いている。その顔は、亮介や聡、健一、そして見知らぬ無数の男たちに似ていた。その目からは、永遠に流れる水の涙が彫り込まれている。


新しいロープが、すでに設置されていた。


「誰が?」


「きっと、僕たちを待っていた誰かが」


穴の縁には、石の梯子が埋め込まれていた。しかし、長い年月を経て苔が生し、濡れて滑りやすくなっている。 「これだと、滑ってしまう」 翔太が呟くと、香織がロープを手に取った。 「命綱にしましょう」 ロープは、触れると脈打っていた。生きているロープ。いや、これはロープではない。何か生き物の、へその緒のような。


香織の体が、また勝手に動き始めた。それは、恐怖とは違う、抗いがたい引力に引かれるような感覚。穴の縁に立ち、下を覗き込む。 「ダメだ、香織ちゃん!」 翔太が、彼女の腕を掴んだ。しかし、香織の瞳は、もう翔太を見ていなかった。その目は、暗闇の奥にいる何かを見つめている。


暗闇の奥から、何かが呼んでいる。


『おいで』 『一緒になろう』 『永遠に』


無数の声が、重なり合って響いてくる。それは、松姫、和子、真紀…歴代の巫女たちの声だった。それは甘美な誘惑であり、破滅への囁きでもあった。


香織の表情が、恍惚としたものに変わる。まるで、夢遊病者のように、一歩、また一歩と穴に近づいていく。 「香織ちゃん!」 翔太の声で、我に返った。 「大丈夫?」 「うん。でも、もう抵抗できない。体が、勝手に」 「僕もだ」 翔太の目を見ると、瞳の色が変わっていた。茶色だったはずの瞳が、深い青色に。水の色に。


二人は、穴の縁に立ったまま、しばしの間、互いの顔を見つめ合った。 これが、最後の時間。 人間としての、最後の時間。 「怖いか?」 翔太が尋ねる。 「ううん。でも…」 香織は、翔太の繋いだ手を見つめた。 「あなたがいれば、どこへでも行ける」 その言葉に、翔太は静かに微笑んだ。 「僕もだ。君がいれば、どんな場所でも」


二人はロープを命綱に、石の梯子を降り始めた。 一段降りるごとに、人間から遠ざかっていく感覚。でも、恐怖はなかった。むしろ、帰るべき場所へ向かっているような、奇妙な安心感があった。 本堂の天井が閉じる音がした。もう、戻れない。 でも、それでよかった。 これが、自分たちの選んだ道なのだから。 地下への降下が始まった。深く、深く、水の記憶の底へ向かって。

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