第42話 山道の老婆と失われた記憶
放課後、二人は必要なものを揃え、廃寺へと向かった。 山道の入り口に、老婆が座っていた。霧に濡れた黒い着物、曲がった背中、白濁した目。まるで、この場所の番人のように。
「また来たか」
老婆の声は、水の底から響くようだった。
「また?」
「五十年前も、同じような二人が通った。男の子は帰ってこなかった」
老婆の体から、水が滲み出していた。着物が濡れ、地面に水溜まりができていく。
「百年前も、百五十年前も、同じだった。巫女と、巫女を愛する者。皆、水の底へ」
老婆が立ち上がった。その瞬間、彼女の姿が変わった。 若い女性の姿が、老婆の姿に重なって見える。着物姿の、美しい女性。そして、また別の女性。何人もの女性の姿が、次々と現れては消えていく。
「私たちは、道標」
無数の声が重なって響いた。
「水への道を示す者。引き返すなら、今」
香織と翔太は、互いの手を強く握った。
「進みます」 二人の声が、同時に響いた。
老婆たちは、悲しそうに微笑んだ。そして、水となって地面に吸い込まれていった。後には、濡れた足跡だけが、山道へと続いていた。
■生きている山
山道を登り始めると、世界が変わった。 木々が呼吸をしている。幹が脈打ち、枝が血管のように震えている。葉の一枚一枚から、水滴が規則正しく落ちていた。
ぽたん…ぽたん…ぽたん… 三十秒に一度、正確に。
「この山全体が、水時計の一部なんだ」 翔太が囁いた。
「そして、この山から湧き出る水が、町の水道水の水源だ」
香織が付け加える。彼女の口からは、真紀や和子の声が重なって聞こえる。
「みんなが毎日、当たり前のように飲んでいる水。その水が、生贄の血と涙で満たされていることを、誰も知らない」
地面は柔らかく、歩くたびに水が滲み出る。まるで、巨大な生き物の皮膚の上を歩いているような感触。 濃密な苔の匂い、土と腐葉土が混じった匂い、そして微かに、鉄錆のような血の匂い。 それは、町の人々が「山の水」として慣れ親しんでいる、あの水の匂いそのものだった。
香織の体が、勝手に反応し始めた。 正しい道を、本能的に選んでいく。まるで、見えない糸に引かれるように。いや、糸ではない。水の流れだ。地下水脈の流れが、彼女を導いている。
一時間ほど登ると、廃寺の山門が見えてきた。
『東林山 慈恩寺』
朽ちかけた門をくぐると、想像以上に広い境内が広がっていた。
本堂だけが、異様な存在感を放っている。他の建物は完全に朽ち果てているのに、本堂だけは、まるで今も使われているかのように、不気味なほど保存状態が良い。 いや、保存されているのではない。
生きているのだ。
本堂の壁が、ゆっくりと脈打っている。呼吸をするように、膨らんでは縮む。表面には、無数の血管のような筋が走り、その中を水が流れているのが見える。
扉に手をかけた瞬間、電撃のような感覚が走った。 『ようこそ』 声ではない。直接、脳に響く思念。
『百五十年、待っていた』
香織がカギを開ける前に…扉が、ひとりでに開いた。




