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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十三章:背負う者
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第40話 霧の朝と司書の告白

六月十八日(月)天気:梅雨の濃霧【儀式まで、あと2日】


香織が目を覚ましたのは、午前四時二十三分だった。 時計のアラームが鳴るよりも早く、体の内側から響く水音に起こされた。


窓の外は濃い霧に包まれていた。いや、霧というより、世界そのものが水に沈んでいるような光景だった。庭の楓も、塀も、その向こうの家々も、すべてが白い水の中に溶けて見えない。それは、この町特有の湿った霧ではなかった。もっと古く、意志を持った、生きている霧だった。


枕元の携帯が震えた。翔太からのメッセージ。 『起きてる?外を見て』


カーテンを開けると、霧の中に人影が立っていた。いや、人影ではない。それは水でできた人の形をした何かだった。亮介さんだ、と直感的に理解した。彼は何かを伝えようとするように口を動かしているが、声は届かない。ただ、その瞳は深い悲しみを湛え、廃寺のある山の方をじっと指差していた。


『見える』


そう返信すると、すぐに返事が来た。


『図書館で会おう。今すぐ』


県立図書館は、朝の五時にもかかわらず、薄明かりが灯っていた。 裏口から入ると、司書の藤田先生が待っていた。いつもの居眠りとは違う、覚醒した目で二人を見つめている。その目の下には深い隈が刻まれ、数日間眠っていないことは明らかだった。


「来ると思っていました」


藤田先生の声は、嗄れていた。


「君たちも、見えるようになったんですね。水の中の人たちが」


香織と翔太は顔を見合わせた。


「先生も?」


「ええ。私の祖父は、この町の呪いを調査していた郷土史家でした。そして、真実を知って狂気に陥った」


藤田先生は、カウンターの下から古い手帳を取り出した。表紙には『水時計調査記録 昭和二年〜』と記されている。


「祖父は書いています。『この町は生きている。巨大な水の生き物だ。そして水時計は、その心臓だ』と」


手帳を開くと、びっしりと文字が書き込まれていた。だが、後半になるにつれ、文字は乱れ、最後のページには同じ言葉が繰り返されているだけだった。


『水になる水になる水になる水になる』


「祖父は最後、自ら井戸に身を投げました。遺書には『水と一つになれた。幸せだ』と」


藤田先生の目から、一筋の水が流れた。涙ではない。透明な、ただの水だった。


「私も、もう限界です。毎日図書館で眠るふりをしているのは、真実から目を逸らすため。でも、もう逃げられない。この霧は、始まりの合図だ」


彼は鍵束を取り出し、奥の書庫の扉を開けた。


「ここに、この町の本当の歴史がある。君たちに、託します」

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