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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十一章:天保十三年 - 始まりの水音
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第37話 幕間:町の声 II

六月も半ばを過ぎると、雨はほとんど止むことがなくなった。 空は鉛色の蓋をしたように低く垂れ込め、世界から色彩を奪っていく。川は濁った水を満々と湛え、田んぼと道の境界線は曖昧になった。人々は傘を片時も手放せず、その顔には諦めと、古くからこの土地に住む者だけが知る、ある種の予感が滲んでいた。


【町の公民館、老人会の集まりにて】


「今年の雨は、しつこいのう」


湯呑みをすすりながら、古老の一人が呟いた。畳の匂いと湿気が混じり合う部屋で、その言葉は重く響いた。


「五十年前を思い出すわい。亮介さんがいなくなった、あの年の夏じゃ」


「……また、始まるのかのう」


別の老婆が、編み物の手を止めて窓の外を見る。その目には、単なる天候への憂いではない、もっと深い恐怖が宿っていた。


「田辺さんとこの、下の娘御が、今年で十八じゃろ」


「ああ……」


その言葉を最後に、部屋は沈黙に包まれた。誰もが知っている。誰もが、口にしたくない。この長雨が、誰かの悲しみの予兆であることを。この町の平穏が、一人の少女の犠牲の上に成り立っていることを。それは、この町に生まれた者たちが、血と共に受け継いできた、暗黙の契約だった。


【山道へ続く林道、役場の土木課職員の会話】


「課長、また山道で土砂崩れの兆候が。東林山のあたりです」


「分かっている。立ち入り禁止の看板を増やしておけ。それ以上は、何もしなくていい」


ベテランの課長は、地図を見ながらこともなげに言った。


「しかし、このままでは麓の民家が……」


「いいか、新人。あの山はな、俺たちの管轄外だ。昔からな。触らぬ神に祟りなし、という言葉の意味を、この町で働くならまず覚えろ。俺たちは、見て見ぬふりをするのが仕事なんだ。雨が止むまで、ただ待つ。それだけだ」


課長は、地図の「東林山慈恩寺跡」と記された部分を、指でそっとなぞった。その指先は、微かに震えていた。


【田中源三郎の家の前、近所の主婦の噂話】


「ねえ、見なさいよ。田中さんとこのご隠居、またあんなに線香を……」


「まあ。お庭のあちこちに立てて。まるで結界でも張ってるみたい」


「亮介さんの命日が近いからかしらねえ」


「それだけじゃないわよ。田辺さんとこの娘さんを守ろうとしてるんだって、うちの旦那が言ってたわ。五十年前の二の舞はごめんだ、って」


「まあ……!なんて無謀な。あの一族のことに、よそ者が首を突っ込んで、無事で済むわけがないのに」


「だから言ったじゃない。障らぬ神に祟りなし、だって」


雨音は、町のすべての音を飲み込んでいく。人々の声も、車の音も、子供たちの笑い声も。 ただ、雨音だけが響き続ける。 それは、近づいてくる運命の足音のようでもあり、町全体が息を殺して見守っている、巨大な沈黙のようでもあった。

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