第36話 藩主の狂気
一方、父である藩主・忠愛は、日に日に衰弱していく娘を前に、為す術もなく苦悩していた。名だたる医者を呼び寄せ、高名な僧侶に祈祷をさせた。しかし、姫の病は一向に良くならない。
忠愛の心は、焦りと絶望に支配されていった。そして、彼はついに人の道を踏み外す。
「呪いには、呪いを以て制すしかない」
忠愛は、領地の外れにある東林山慈恩寺の住職を呼びつけた。その寺は、古来より水神を祀り、人身御供の儀式を行っていたという、いわくつきの場所だった。
「姫を救う手立てはないか」
忠愛の問いに、老婆のような住職は、淀んだ目で答えた。
「方法は、一つだけ。姫君を、水神の花嫁として捧げるのです」
「馬鹿なことを!」
「されど、それしか道はございませぬ。水神は、渇いておられる。人の子の、純粋な愛の交わりを。それによってのみ、水神の渇きは癒え、姫君の呪いも解けましょう」
住職は続けた。
「寺の地下には、古き水脈がございます。そこに、巨大な『水時計』を造るのです。姫君の愛する者を生贄とし、その魂を歯車とすれば、水時計は永遠に時を刻み、姫君の渇きを癒し続けましょう」
それは、正気の沙汰ではなかった。しかし、娘を救いたい一心で狂気に陥った忠愛には、それが唯一の救済策に思えた。
「やれ。国中の職人を集め、最高の水時計を造るのだ。金はいくらかかっても構わん」
その日から、慈恩寺の地下では、昼夜を問わず槌の音が響き渡った。それは、悲劇の始まりを告げる、不吉な音だった。
■水時計の完成
夏が盛りを過ぎた頃、水時計は完成した。 それは、人間の狂気が生み出した、荘厳にして冒涜的な装置だった。
高さは三丈(約10メートル)。黒曜石と御影石で造られ、表面には水の流れを模した不気味な紋様が刻まれている。内部には、人間の髪と血を混ぜて作られたという特殊な機構が組み込まれ、まるで生き物のように、どくん、どくんと低い脈動を繰り返していた。
忠愛は、完成した水時計を前に、満足げに頷いた。
「これで、松が救われる」
そして、彼は娘に非情な宣告を下した。
「松よ。お前の病を治すための儀式を行う。お前の想い人、佐助と共に、寺へ参るのだ」
姫は、すべてを悟った。父が、自分と佐助を生贄にしようとしていることを。 その夜、姫は最後の逢瀬のために、佐助の待つ森の祠へと向かった。
■最後の夜
「佐助、逃げましょう。二人で、どこか遠い場所へ」
姫は泣きながら訴えた。しかし、佐助は静かに首を振った。
「姫様、もう逃げられませぬ。城の周りには、父上の兵が見張っております」 佐助もまた、すべてを知っていた。
「ならば、どうすれば……」「姫様。俺は、覚悟を決めました」
佐助の目は、驚くほど澄んでいた。
「俺の命で姫様が救われるのなら、喜んでこの身を捧げましょう。それが、俺にできる唯一の、愛の証ですから」
「嫌……嫌です!あなたを失って、私だけが生き永らえるなど!」
「いいえ、姫様。俺は死にませぬ。水時計の一部となり、永遠に姫様と共にあります。姫様の渇きを癒す、水の一滴となって」
佐助は、懐から小さな木彫りの人形を取り出した。彼が彫った、松姫の姿の人形だった。
「これを、俺だと思ってください」
二人は、夜が明けるまで寄り添っていた。言葉はなかった。ただ、互いの温もりだけが、そこにあった。
朝日が昇る頃、姫は言った。
「分かりました。参りましょう。あなたと一緒なら、どこへでも」
その顔には、もう涙はなかった。悲しみを超越した、静かな決意が浮かんでいた。
■儀式
儀式の日は、朝から異様な熱気に包まれていた。日照りが嘘のように、空には分厚い雲が垂れ込めている。
白無垢を纏った松姫と、同じく白い着物を着せられた佐助は、慈恩寺の地下へと導かれた。 水時計の部屋は、無数の蝋燭で照らされ、幻想的でありながら不気味な光景が広がっていた。
「始めよ」
忠愛の冷たい声が響く。
床から水が湧き出し、見る見るうちに水位が上がっていく。 水が腰まで来た時、佐助は姫を強く抱きしめた。
「姫様、愛しております」
「私もです、佐助」
水が首まで満ちた、最後の瞬間。 二人は、唇を重ねた。それは、死の淵で交わされた、永遠の愛の誓いだった。
そして、水は二人を飲み込んだ。
水が引いた後、水時計は以前よりも力強く脈動していた。 ぽたん、ぽたん、と滴る水は、鮮やかな赤色に染まっていた。
しかし、松姫の姿はどこにもなかった。 佐助と共に、彼女もまた水時計の一部と化したのだ。
忠愛は、娘の名を呼びながら泣き崩れた。しかし、もう遅い。 彼の狂気が、愛し合う二人を永遠に引き裂き、そして呪いの連鎖を生み出してしまった。
その日の夕方、藩には待望の雨が降った。 人々は恵みの雨だと喜んだが、それは水時計が流す、最初の血の涙だった。
呪いは、こうして始まった。 愛を渇望する、孤独な水神の物語として。 そして、その渇きは、新たな愛の生贄を求め、百五十年後の現代まで、途切れることなく続いていく。




