第35話 渇きの姫
天保十三年(一八四二年)、夏。 この国がまだ泰平の眠りの中にあった頃、東国のある小藩は、長引く日照りに喘いでいた。乾ききった田畑はひび割れ、人々は空を仰いでは、ただ無力に雨を乞うていた。
藩主・松平忠愛の城もまた、渇きに支配されていた。しかし、彼を苛んでいたのは領地の渇きだけではない。一人娘である松姫の奇病こそが、忠愛の心を焦がす本当の日照りであった。
松姫は、その名に違わぬ、見目麗しい娘だった。絹のような黒髪、雪のように白い肌、そして物憂げな瞳。しかし、十八の齢を迎えた春を境に、姫は水に呪われた。
それは、矛盾に満ちた病だった。 姫は水を恐れた。風呂に入れず、雨の音を聞けば怯え、茶碗に注がれた水面に映る自分の顔を見ては悲鳴を上げた。水の一切を拒絶した。
しかし同時に、姫は水を求めた。
「水……水が欲しい……」 深夜、誰にも聞こえぬよう、か細い声で呟く。その体は常に熱を帯び、唇は乾き、喉は灼けつくような渇きに苛まれていた。水を恐れながら、狂おしいほどに水を求める。その相克が、姫の心を少しずつ蝕んでいった。
部屋に閉じこもる姫の唯一の慰めは、窓から見える庭の池だった。憎いはずの、恐ろしいはずの水面を、姫は何時間も見つめ続けた。その瞳には、恐怖と、憧れと、そして自らを飲み込んでほしいと願うような、深い絶望が宿っていた。
身分違いの恋
その姫に、密かに心を寄せる若者がいた。 佐助。城下の農民の三男坊で、庭師として城に出入りしていた。日に焼けたたくましい体に、朴訥だが実直な瞳を持つ青年だった。
二人の出会いは、偶然だった。 ある春の日、松姫が庭を散策していると、桜の枝を剪定していた佐助が、誤って足を滑らせた。彼の体は、姫の目の前の池へと落ちる。
「きゃっ!」 姫は悲鳴を上げた。しかし、その目に浮かんだのは恐怖ではなく、水飛沫を上げて池に沈む佐助の姿への、抗いがたいほどの好奇心だった。
ずぶ濡れになって池から上がった佐助は、姫の前でただひたすらに平伏した。
「申し訳ございませぬ!この通り、どうかご容赦を!」
しかし、姫から発せられたのは、意外な言葉だった。
「……水の、中は、どうであった?」
「へ?」
「冷たいか。苦しいか。それとも……心地よいか?」
その問いに、佐助は姫の心の闇を垣間見た気がした。 それから、二人は密かに逢瀬を重ねるようになった。深夜、城を抜け出した姫と、手引きをする佐助。二人は森の奥の小さな祠で、誰にも邪魔されずに語り合った。
佐助は、外の世界の話をした。祭りの賑わい、田植えの喜び、収穫の感謝。姫は、佐助の話す世界のすべてに目を輝かせた。それは、彼女の知らない、生命力に満ちた世界だった。 姫は、自分の病のことを話した。水への恐怖と渇望。いつか自分が狂ってしまうのではないかという不安。
「俺が、姫様をお守りします」
佐助は、姫の震える手を握りしめた。農民の、土と汗に汚れた無骨な手。しかし、姫にとっては、どんな高価な絹よりも温かく、心強いものだった。
「いつか必ず、この呪いから救い出してみせます」
身分違いの恋。許されぬと知りながら、二人の心は固く結ばれていった。佐助の存在だけが、松姫を狂気の淵から繋ぎとめる、唯一の光だった。




