第34話 水の家
田辺家に戻ると、家全体が異様な湿気に包まれていた。 玄関のドアを開けた瞬間、濃密な水の匂いが鼻を突く。苔と鉄錆と、そして微かに混じる血の匂い。
「おかえり」
和子が玄関に立っていた。 その姿が、一瞬、若い頃の姿に見える。十八歳の、亮介と出会った頃の姿に。
「翔太君も一緒ね」
和子の視線が翔太を捉える。その瞳に、複雑な感情が宿る。懐かしさ、悲しみ、そして諦観。
「亮介に、よく似ている」
「僕は...」
「分かっているわ。あなたは亮介じゃない。でも...」
和子が翔太に近づく。その歩みは、水の上を滑るように音もなく。
「あなたも、選ばれたのね」
和子の手が、翔太の頬に触れる。 その瞬間、翔太の意識に、五十年前の記憶が流れ込んできた。薄暗い廃寺の地下。首まで水に浸かった亮介と和子。
『ごめんね、亮介君』
『謝るなよ』
『愛してるから』
その言葉と共に、亮介の体が水に沈んでいった。
翔太が膝をついた。激しい頭痛と共に、他人の記憶が自分の中で渦巻く。
「翔太君!」
香織が支える。その冷たい手が、今は心地よかった。
「見えた...五十年前が...」
■最後の晩餐
夕食の席は、最後の晩餐と呼ぶにふさわしい、異様な静けさに包まれていた。 食卓の中央に、古い水時計が置かれている。いつもは仏間に安置されているそれが、なぜか今夜はここにあった。
ぽたん...ぽたん...ぽたん...
三十秒に一度、水が滴る。その音が、食事の間中、響き続ける。
「今夜から」 真紀が口を開いた。
「毎晩、禊をします」
「禊?」
「水で身を清めるの。儀式の準備として。……抵抗しても、無駄よ」
真紀の声は機械的だが、その奥に微かな憐憫が滲んでいた。
美代子は黙々と食事を口に運ぶ。しかし、その手は震え、箸の先から料理がこぼれ落ちる。 「健一...」 美代子の目は、香織ではなく、その隣に座る翔太を見ていた。 「健一...苦しいの...助けて...」
「お母様」
真紀が冷たく遮る。
「翔太さんは、健一さんではありません」
美代子の目に、一瞬、正気が戻る。そして、より深い絶望に沈んでいく。
「そうね...健一は死んだ...私のせいで...」
食卓に重い沈黙が降りる。 水時計の音だけが、規則正しく時を刻み続ける。それは、香織に残された人間としての時間の、残酷なカウントダウンだった。
■儀式前夜の姉妹の対話
その夜、香織は真紀の部屋を訪れた。真紀は窓際に座り、遠くの街の灯りを眺めていた。
「眠れないの」
真紀の声は、空虚だった。
「...お姉ちゃんは、怖くなかった?」
香織が尋ねる。
「怖かったわ。でも、愛を捨てれば、怖くなくなる」
真紀は振り返らずに答えた。
「呪いを打ち破ることは、できなかったの?」
「無理よ。誰も、運命には抗えない。諦めるしかないの」
真紀の言葉は冷たいが、その声の奥に、香織は彼女の「諦観」の正体を感じ取った。それは、諦めなければ生きていけなかった、真紀の悲しい自己防衛だった。
「でも、私…諦めたくない」
香織が言うと、真紀は初めて香織の方を向いた。その人形のような瞳の奥に、一瞬だけ、羨望のような光が揺らめいた。
「...勝手にすればいい。どうせ、同じ結末よ」
真紀がそう呟いた時、香織は幼い頃の記憶が蘇る。二人で裏庭に秘密基地を作ったこと、雨の日に母を手伝って濡れた洗濯物を乾かしたこと。互いに助け合い、笑い合った、遠い日の思い出。
「あの頃の私たちは、何も知らなかった。ただ、二人でいれば、何も怖くなかったのに...」
香織の言葉に、真紀は何も答えなかった。ただ、窓の外の雨音だけが、静かに二人の間に流れていた。




