第32話 プールの誘惑と決壊する日常
学校でも、異変は続いた。 体育の授業はプールだった。プールサイドに立った瞬間、香織の体は勝手に震え始めた。恐怖ではない。むしろ、帰郷の喜びに近い感情。塩素の匂いが、故郷の匂いのように懐かしく感じられた。
プールの水面が、香織を呼んでいた。 おいで、おいで、と。 その声は、水の中から直接響いてくるようだった。無数の声が重なり合い、輪唱のように香織の名を呼ぶ。
『香織…』 『帰ってきて…』 『ここがあなたの本当の場所…』
それは甘美な誘惑だった。家の呪いも、迫りくる儀式の恐怖も、この水に身を委ねればすべてから解放される。楽になれる。水と一つになれる。
一歩、前に出る。 もう一歩。 プールの縁に立つ。つま先が、水面すれすれまで来ている。あと少し体を傾ければ、この心地よい世界に帰れる。
「田辺さん!」
体育教師の甲高い声が、甘い誘惑を切り裂いた。 香織は我に返った。気がつけば、プールに飛び込む寸前だった。クラスメートたちが、恐怖と好奇の入り混じった表情で、遠巻きに香織を見つめている。
「気分が...悪くて」
保健室に向かう途中、香織は自分の足跡を振り返った。濡れた足跡が、乾いた廊下に点々と続いている。しかし、香織はまだプールに入っていなかった。体から滲み出た水が、彼女の歩いた跡を記していた。
その日の放課後、香織の日常は完全に終わりを告げた。 授業中、香織の隣には誰も座ろうとしなかった。休み時間に話しかけても、友人たちは視線を逸らす。携帯に届くメッセージも、いつの間にか途絶えていた。まるで、クラスから存在が消えてしまったかのようだった。
放課後、数少ない友人に誘われ、駅前のファミレスでおしゃべりをしていた時のことだ。
「でね、その先輩がさー」
友人の話は、テストのことや恋愛のこと、香織がもう属することのできない、きらきらとした日常の話だった。香織は相槌を打ちながらも、話の内容は頭に入ってこなかった。テーブルの上の、自分のコップの水が気になって仕方なかったからだ。
水が、生きているように蠢いている。表面が微かに盛り上がり、まるで呼吸しているかのようだった。
「香織、聞いてる?」
「あ、うん、ごめん」
香織が慌ててコップに手を伸ばした、その瞬間だった。
ざああっ!
コップの水が、何の前触れもなく溢れ出した。噴水のように勢いよく噴き上がり、天井にまで達する。それは物理法則を完全に無視した光景だった。
「きゃああああ!」
友人たちが悲鳴を上げて立ち上がる。周囲の客も、何事かとこちらを見ている。溢れ出した水は、香織の足元にだけ集まり、まるで彼女を守るように渦を巻いていた。
「な、なんなのよ、あんた……」
友人だった少女の目に浮かんでいたのは、純粋な恐怖と拒絶だった。化け物を見る目だった。 彼女たちは財布から小銭を乱暴にテーブルに叩きつけると、逃げるように去っていった。
一人残された香織は、水浸しのテーブルと、自分を遠巻きに見る人々の視線の中で、ただ呆然と座っていた。 彼女の心に、深い孤独感が芽生える。
「私はもう、あちらの世界の人間ではない」。
それでも、この普通の日常にしがみつきたいという葛藤が、彼女を苦しめる。
もう、戻れない。 普通の日常には、二度と。




