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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第十章:日常の侵食
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第31話 最後の一ヶ月

六月一日(金)天気:快晴 【儀式まで、あと19日】


朝五時。まだ薄暗い自室で、香織は目を覚ました。 時計のアラームが鳴るよりも早く、体の内側から響く水音に起こされた。


枕が濡れている。シーツに手を這わせると、そこもまた水浸しだった。最初は寝汗かと思った。しかし、それは体温とは違う、ぞっとするような冷たさを帯びていた。透明で、冷たく、ぬめりのある液体。まるで、体の中から水が滲み出しているような感覚。


鏡を見る。 自分の顔が、ガラス越しに見ているような距離感で映っている。肌は病的なまでに白く、血管が青い川のように透けて見えた。瞳の色素が薄くなり、深い水底を覗き込むような青緑色を帯びている。もう、昨日までの自分ではない。何かに成り代わられつつある、見知らぬ誰か。


「これが、私…?」


声に出してみる。その声さえ、水の中で話しているような反響を伴っていた。 カレンダーの「20」の数字を見つめる。赤いマジックで囲まれたその日付が、血のように滲んで見える。


あと、十九日。


階下から、母の声が聞こえてきた。 「香織、朝ご飯よ」 その声は、いつもより遠く、まるで水面の上から呼ばれているように聞こえた。


制服のブラウスを着ると、背中がひんやりと濡れた。振り返ると、壁に自分の水の跡が残っている。人型の、濡れた痕跡。まるで、もう一人の自分がそこに立っていたかのように。


朝食の席は、異様な緊張感に包まれていた。


母・美代子の乾いた目が、香織の濡れた髪を一瞥し、すぐに逸らされる。その瞳は砂漠のように水分を欠き、恐怖と憐憫が混じり合っていた。


姉・真紀の完璧な美貌は、蝋人形のような生気のなさを伴っている。彼女は香織の変化を、まるで昆虫観察でもするかのように冷静に、しかし一切の感情を見せずに見つめていた。


そして祖母・和子。


「おはよう、香織」


和子の声は、五十年前の少女のように若々しかった。


「今日から、本格的に準備を始めましょうね」


「準備?」


「あなたの、晴れ舞台のための」


和子が微笑む。その笑顔は慈愛に満ちているようで、どこか狂気を孕んでいた。

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