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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第九章:水時計の起源
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第30話 和子の独白

(昭和四十七年六月二十日)


亮介君、聞こえますか。 今も、あの日のことを夢に見ます。 いいえ、夢ではありません。私の五十年間は、すべてがあの瞬間の繰り返しでした。


水が、あなたの首まで満ちていく。 私の体は、私の意志とは関係なく動いていました。体の中から響くのです。『捧げよ』と。それは命令であり、抗うことのできない衝動でした。田辺家の女の血に刻まれた、呪いの声。その声が私を「巫女」に変え、ただの道具にしていく。


でも、私の心は、悲鳴を上げていました。 『やめて、殺したくない』と。人間としての田辺和子が、心の牢獄で泣き叫んでいました。助けて、亮介君。私を止めて。お願いだから、ここから逃げて。


あなたは、私の葛藤を見抜いていましたね。 私の瞳の奥に、泣いている本当の私を見つけた。 そして、あなたは言った。声にはならなかったけれど、その唇は確かにそう動いた。


『君も、苦しいんだな』


ああ、亮介君。 あなたのその優しさが、私を救い、そして永遠に私を縛り付けたのです。 あなたの手が、私の胸を押しました。いいえ、私の手が、あなたの胸を押した。どちらだったのか、もう分かりません。ただ、あなたの体がゆっくりと水の中に沈んでいく光景だけが、私の網膜に焼き付いています。


最後の泡が水面に消えた後、私は生まれ変わりました。 鏡に映った自分の顔は、信じられないほど美しかった。肌は陶器のように滑らかになり、髪は濡れた絹のように艶やかでした。でも、その瞳は、深い井戸の底のように、光を失っていました。 世界から、色が消えました。空の青も、木々の緑も、すべてが色褪せた灰色に見えました。美しいものを美しいと感じる心が、亮介君、あなたと一緒に水の底へ沈んでしまったからです。


その時、決めました。 もう、人間として生きるのはやめよう、と。 感情を捨て、「巫女」という仮面を被って生きていこう、と。 そうしなければ、狂ってしまいそうだったから。あなたを失ったこの世界で、正気を保ったまま生きていくことなど、到底できそうになかったから。


あれから五十年。 私は、上手に「巫女」を演じてこられたでしょうか。 でも、香織と、あなたによく似たあの少年を見ていると、凍てついたはずの心が軋むのです。


亮介君。 もし、もう一度だけ会えるなら。 私は、あなたに伝えたい。 「ごめんなさい」と。 そして、もし許されるなら、もう一度だけ。 あなたの、本当の笑顔が見たい、と。

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