第3話 書道室という名の逢瀬
一月の毎週水曜日、放課後。和子は書道室で亮介を待つようになった。
西日が障子を通して柔らかく差し込む静かな部屋。墨の香りが充満し、筆を洗った水が入った瓶が整然と並んでいる。壁には歴代の優秀作品が飾られ、その中には和子の『水』もあった。あの文字を見るたび、和子は自分の内に潜む何かと向き合うような気持ちになる。
それは、水への異常な親和性。幼い頃から感じていた、水に呼ばれているような感覚。雨の日には体が軽くなり、風呂に入ると時間を忘れてしまう。プールでは、息をしなくても平気なような錯覚に陥る。
「今日も遅れてごめん!」
亮介はいつも、土まみれのユニフォーム姿で駆け込んできた。額には汗が光り、泥が頬についていることもある。彼の持ち込む土と汗の匂いが、静謐な書道室の空気をかき乱す。その乱れが、和子には心地よかった。
死んだような静寂に、生命の熱が注ぎ込まれる瞬間。
「まず、手を洗ってきてください。墨が汚れます」
「はいはい、分かってますよ、先生」
素直に手を洗いに行く亮介の後ろ姿を、和子は密かに見つめていた。広い背中、日に焼けた首筋、短い髪から覗く小さな傷跡。きっと野球でついたものだろう。彼の全てが、生命力に満ち溢れていた。自分とは正反対の存在。だからこそ、惹かれたのかもしれない。
「よし、今日こそ『必』の字をマスターする」
亮介は真剣な顔で筆を握る。でも、持ち方がおかしい。まるで箸を持つように、力を入れすぎている。
「もっと優しく、卵を持つように」
和子は亮介の手に自分の手を添えた。触れた瞬間、彼の体温が伝わってくる。温かい。土と汗の匂いがする。男の子の手だ。和子の手は、いつも氷のように冷たいのに。
その温度差が、二人の間に奇妙な電流を生んだ。
「こう?」
「そう。力を抜いて、筆の重みを感じて」
二人の手が重なったまま、筆が紙の上を滑る。墨が和紙に吸い込まれていく。一画、二画、三画。ゆっくりと『必』の字が現れる。それはまだ不格好だったが、力強さがあった。
「できた!」
亮介が子供のように喜ぶ。
「まだまだです。心が乱れています」
和子は厳しく言うが、口元は微笑んでいた。
実際、亮介の字は日に日に上達していった。もともと運動神経がいいからか、コツを掴むのが早い。手首の使い方、力の入れ方、呼吸のタイミング。すべてを素直に吸収していく。
練習の合間、亮介が聞いてきた。
「和子は、いつから書道を?」
「五歳からです。祖母に教わりました」
「すごいな。俺なんて五歳の時は、泥団子作って遊んでた」
「今でも泥まみれじゃないですか」
「それは野球だから!」
二人で笑い合う。書道室に、温かい空気が流れる。
「なあ、今度の日曜、空いてるか?」
練習の終わり際、亮介が唐突に言った。
「え?」
「駅前の喫茶店、新しいパフェが出たんだ。奢るから、付き合ってくれよ。書道のお礼」
その誘いはあまりに自然で、和子は断る言葉を見つけられなかった。