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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第一章:昭和四十七年、水無月 - 最後の水音
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第3話 書道室という名の逢瀬

一月の毎週水曜日、放課後。和子は書道室で亮介を待つようになった。


西日が障子を通して柔らかく差し込む静かな部屋。墨の香りが充満し、筆を洗った水が入った瓶が整然と並んでいる。壁には歴代の優秀作品が飾られ、その中には和子の『水』もあった。あの文字を見るたび、和子は自分の内に潜む何かと向き合うような気持ちになる。


それは、水への異常な親和性。幼い頃から感じていた、水に呼ばれているような感覚。雨の日には体が軽くなり、風呂に入ると時間を忘れてしまう。プールでは、息をしなくても平気なような錯覚に陥る。


「今日も遅れてごめん!」


亮介はいつも、土まみれのユニフォーム姿で駆け込んできた。額には汗が光り、泥が頬についていることもある。彼の持ち込む土と汗の匂いが、静謐な書道室の空気をかき乱す。その乱れが、和子には心地よかった。


死んだような静寂に、生命の熱が注ぎ込まれる瞬間。


「まず、手を洗ってきてください。墨が汚れます」


「はいはい、分かってますよ、先生」


素直に手を洗いに行く亮介の後ろ姿を、和子は密かに見つめていた。広い背中、日に焼けた首筋、短い髪から覗く小さな傷跡。きっと野球でついたものだろう。彼の全てが、生命力に満ち溢れていた。自分とは正反対の存在。だからこそ、惹かれたのかもしれない。


「よし、今日こそ『必』の字をマスターする」


亮介は真剣な顔で筆を握る。でも、持ち方がおかしい。まるで箸を持つように、力を入れすぎている。


「もっと優しく、卵を持つように」


和子は亮介の手に自分の手を添えた。触れた瞬間、彼の体温が伝わってくる。温かい。土と汗の匂いがする。男の子の手だ。和子の手は、いつも氷のように冷たいのに。


その温度差が、二人の間に奇妙な電流を生んだ。


「こう?」


「そう。力を抜いて、筆の重みを感じて」


二人の手が重なったまま、筆が紙の上を滑る。墨が和紙に吸い込まれていく。一画、二画、三画。ゆっくりと『必』の字が現れる。それはまだ不格好だったが、力強さがあった。


「できた!」


亮介が子供のように喜ぶ。


「まだまだです。心が乱れています」


和子は厳しく言うが、口元は微笑んでいた。


実際、亮介の字は日に日に上達していった。もともと運動神経がいいからか、コツを掴むのが早い。手首の使い方、力の入れ方、呼吸のタイミング。すべてを素直に吸収していく。


練習の合間、亮介が聞いてきた。


「和子は、いつから書道を?」


「五歳からです。祖母に教わりました」


「すごいな。俺なんて五歳の時は、泥団子作って遊んでた」


「今でも泥まみれじゃないですか」


「それは野球だから!」


二人で笑い合う。書道室に、温かい空気が流れる。


「なあ、今度の日曜、空いてるか?」


練習の終わり際、亮介が唐突に言った。


「え?」


「駅前の喫茶店、新しいパフェが出たんだ。奢るから、付き合ってくれよ。書道のお礼」


その誘いはあまりに自然で、和子は断る言葉を見つけられなかった。

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