第27話 郷土史家の訪問
五月二十八日(月)天気:曇り時々雨 【儀式まで、あと23日】
香織が学校から帰ると、玄関に見慣れない革靴があった。丁寧に磨かれているが、かなり年季が入っている。踵の減り方が、長い道のりを歩いてきた人のそれだった。
「お客様?」
リビングから、話し声が聞こえる。低い、老人の声。そして、母の美代子の緊張した、乾いた声。いや、それだけではない。壁の向こうから、微かに水の滴る音が混じっている。
ぽたん、ぽたん、ぽたん。
香織がそっとリビングを覗くと、一人の老人が座っていた。 小柄で、痩せた体。白髪は綺麗に整えられ、背筋は真っ直ぐ。手には杖を持ち、膝の上には使い込まれた革製のカバンを置いている。その眼光は、年齢を感じさせない鋭さを保っていた。研究者の目。真実を追い求める者の目。
そして、その顔立ちには、どこか翔太の面影があった。
「あ、香織」 美代子が、香織に気づいた。その顔は、羊皮紙のように乾燥し、青ざめている。唇は切れ、声はかすれていた。母の「渇き」が、また進行している。
「こちら、田中源三郎さん。翔太君のお祖父様よ」
香織の心臓が、どくんと跳ねた。翔太の祖父。そして、亮介の兄。
「初めまして」
源三郎が、丁寧に頭を下げた。その動作は老人とは思えないほど機敏で、武道の心得がある人のような佇まいだった。
「孫がお世話になっています」
「い、いえ」 香織も慌てて頭を下げた。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」 源三郎が続ける。その声には、長年の疲労と、それでも諦めきれない何かが滲んでいた。 「実は、お聞きしたいことがありまして」 その視線が、奥の部屋に向けられる。和子がいる部屋。仏壇のある、線香の煙が絶えない部屋。
「五十年前のことです。私の弟、亮介のことを」
その瞬間、奥から足音が響いた。ゆっくりとした、しかし威圧的な足音。畳を踏む音が、まるで太鼓のように部屋に響く。
襖が開き、和子が姿を現した。六十八歳とは思えない美貌。しかし、その瞳には、五十年分の悲しみと、それを封印してきた鉄の意志が宿っていた。
源三郎が、息を呑んだ。 「和子さん……」 その声には、半世紀の時を超えた感慨が込められていた。
「お帰りください」 和子の声は、氷のように冷たかった。感情のない、拒絶の言葉。しかし、その手が微かに震えているのを、香織は見逃さなかった。 「亮介のことは、もう忘れました」
「嘘だ!」 源三郎の声が、初めて感情的になる。杖を握る手に力が入り、関節が白くなった。 「亮介は、あなたを愛していた。そして、あなたも!」
「お帰りください」 和子が、同じ言葉を繰り返す。でも、その目に一瞬、激しい動揺が宿った。悲しみ、後悔、そして五十年間抑え込んできた愛情が、一瞬だけ溢れ出た。
水の音が、また聞こえた。 ぽたん、ぽたん、ぽたん。
「五十年間、探し続けました」 源三郎が、震える声で言う。彼は立ち上がり、カバンから古い写真を取り出した。セピア色の、野球部の集合写真。 「これが、亮介です」 写真の中の亮介は、笑っていた。明るく、真っ直ぐな笑顔。太陽のような笑顔。
和子の目が、写真に吸い寄せられる。その瞳が、大きく見開かれる。 その瞬間、和子の目から一筋の水が流れた。涙ではない。ただの、透明な水。しかし、その水には、五十年分の想いが込められていた。
「もう、お帰りください。これ以上、過去を掘り返さないで」 和子が、背を向ける。その背中は、重い十字架を背負っているように見えた。
源三郎は、ゆっくりと立ち上がった。杖をついて、玄関へ向かう。でも、振り返って言った。 「真実は、必ず明らかになります」 その言葉には、研究者としての信念と、兄としての執念が込められていた。
そして、香織を見た。 「君に、これを」 源三郎が、厚い封筒を差し出した。表には、震える字で「真実への道標」と書かれていた。 「私の調査記録です。真実を知りたければ、読んでください」
香織は、震える手で封筒を受け取った。それは、想像以上に重かった。五十年分の執念の重さだった。




