第26話 乾きの独白
(抜粋:田辺美代子の、誰にも見せることのない日記より)
平成九年八月一日
今日も、健一が死んだ。 午前四時二十分。時計がなくても、体が覚えている。冷たい水が足元から這い上がり、私を囚える。天井が水面に変わり、彼の顔が映る。何度叫んでも、声は泡になって消えるだけ。彼は、私のために、また死ぬ。そして私は、また彼を見殺しにする。この一時間が終わると、私はいつも自分の部屋の床で汗びっしょりになって倒れている。でも、流れるのは汗だけ。涙は、あの日から一滴も出てこない。
平成十年四月二十日
真紀が小学校に入学した。 小さな背中に、不釣り合いなほど大きなランドセル。抱きしめてあげたかった。「おめでとう」って、頭を撫でてあげたかった。でも、できなかった。私の肌は、もう温もりを伝えられない。紙やすりのように乾いて、ザラザラしている。この手で触れたら、あの子の柔らかい肌を傷つけてしまうんじゃないか。そう思うと、怖くて指一本触れられなかった。ごめんね、真紀。私は、乾いた母親でごめん。
平成十六年六月十五日
香織が生まれた。 小さくて、温かくて、水の匂いがした。あの子を腕に抱いた時、一瞬だけ、私の体の中の砂漠に雨が降ったような気がした。でも、それは錯覚だった。あの子の潤んだ瞳を見ていると、自分の乾ききった目が、余計に惨めになる。この子も、いつか私と同じ運命を辿るのだろうか。それだけは、絶対に嫌だ。
平成二十一年七月二十日
健一の命日。 彼の顔を、思い出そうとした。でも、靄がかかったように、はっきりと思い出せない。声も、笑い方も、好きだった煙草の銘柄も。記憶が、少しずつ砂のように指の間からこぼれ落ちていく。水を飲んでも飲んでも、喉の渇きは癒えない。それと同じように、どんなに思い出そうとしても、記憶の渇きは満たされない。忘れていくことが、罰なのだろうか。それとも、救いなのだろうか。
令和四年四月十六日
香織が、あの子――田中君の孫と、親しくしているらしい。 運命が、また始まろうとしている。 あの子の目は、私に似ている。諦めを知らない、馬鹿正直な目。だから、きっと抗うだろう。私と同じように。 でも、あの子は私とは違う。あの子には、隣に立ってくれる人がいる。 見ていることしかできない。この乾いた体で、祈ることも、涙を流すこともできないけれど。 どうか、あの子だけは。 健一、あなたは私に「自由に生きろ」と言ってくれたけど、私は結局、この水の牢獄から一歩も出られなかった。 でも、あの子なら。あの子たちなら。
どうか。




