第25話 七月十九日の夜 - 失われた一時間
「健一、私たち、今すぐ東京に行こう」
七月十九日の夕方、美代子は健一に電話をかけた。声が震えていた。
「急にどうした?」
「明日じゃ遅い。今夜、逃げよう」
健一は、美代子の声に含まれる恐怖を感じ取った。
「分かった。準備する。十一時に、いつもの場所で」
最後の夜。美代子は、荷物をまとめていた。最小限の服と、へそくりの十万円。健一からもらった指輪。そして、二人で撮ったプリクラの写真。
「これで、さようなら」
美代子は、十八年間過ごした部屋を見回した。愛着はない。ただの牢獄だった。 明日からは、自由になれる。
時計を見る。午後十時五十九分。あと一分で、家を出る。 しかし、その瞬間、異変が起きた。
部屋の空気が、突然水のように重くなった。 美代子の体が、床に押し付けられる。まるで、深海の底にいるような圧力。動けない。声も出ない。
そして、時計の針が逆回転を始めた。 カチ、カチ、カチカチカチカチ……! やがて、猛スピードで逆回転を始める。
美代子の意識も、過去へと引きずり込まれていく。七歳の夏、祖母に初めて呪いの話を聞かされた日。十三歳の春、初潮が来た日に母から告げられた運命。そして、生まれる前、母の胎内にいた時の記憶まで。
水の中で、声が聞こえた。
『お前も、我らの一部となるのだ』
それは、歴代の犠牲者たちの声だった。
『逃げることはできない』
『運命からは』
『愛する者を捧げよ』
美代子は抵抗した。全身全霊で、その声に逆らった。
「嫌だ!健一は渡さない!」
その時、部屋の天井が水に変わった。 透明な水の天井の向こうに、健一の顔が見えた。彼も同じように、水の中に囚われていた。
「健一!」
美代子が叫ぶと、健一の口が動いた。
『大丈夫』
声は聞こえないが、唇の動きで分かった。
『愛してる』
そして、健一は自ら、水の中へと身を沈めていった。
「やめて!」
美代子が叫んだ瞬間、時計の針が午前零時を指した。 七月二十日。彼女の十八歳の誕生日。
部屋は元に戻っていた。 しかし、美代子は知っていた。 失われた一時間の間に、すべてが終わったことを。
■悲劇の朝と涙の喪失
美代子が目を覚ましたのは、翌朝だった。 七月二十日、午前九時。 窓の外は、激しい雨。この町特有の、まるで天が泣いているような豪雨。
玄関のチャイムが鳴った。 嫌な予感がした。
ドアを開けると、警察官が二人立っていた。その表情は沈痛だった。
「田辺美代子さんですね」「はい」「岡本健一さんをご存知ですか?」
美代子の血の気が引いた。
「今朝、ご自宅で亡くなっているのが発見されました」
膝が崩れた。
「嘘...」
「風呂場で、溺死です」
「溺死?」
警察官の説明が続く。
「浴槽には、三十センチほどの水しかなかったんですがね。不可解なことに、肺からは大量の海水が検出されまして。それも、通常の海水とは成分が大きく異なる、深海の水のような...」
さらに奇妙なことに、健一の部屋からは大量の水が溢れ出していた。まるで、部屋全体が水槽になったかのように。壁には、びっしりと水滴が付着し、天井からは今も水が滴り続けていた。
「あと、これを」
警察官が、ビニール袋に入った健一の遺品を差し出した。美代子があげた指輪と、最後のメッセージ。
『美代子へ 俺は自分から水に入った 君を守るために 君の誕生日に、君の代わりに 愛してる これは俺の選択だ どうか、自由に生きてくれ 健一』
美代子は、そのメッセージを読んで崩れ落ちた。 健一は知っていたのだ。呪いのことを。そして、美代子を救うために、自ら犠牲になることを選んだ。
健一の葬儀。 美代子は、最前列に座っていた。泣きたかった。号泣したかった。でも、涙が出ない。目が、砂漠のように乾いている。どんなに悲しくても、苦しくても、一滴の涙も流れない。
それは、まるで体内の水分がすべて奪われたかのようだった。
これが、罰なのか。 儀式から逃げようとした報い。愛する人を失い、涙も失った。
その日から、美代子の時間は壊れた。 毎日、午前四時二十分になると、失われた一時間が始まる。その中で、美代子は健一の死を追体験する。冷たい水が肺を満たす苦しみ、助けを求める声、そして遠ざかる意識。それを、毎日、毎日、永遠に。
そして、最も残酷なのは、美代子の記憶だった。 健一との幸せな日々の記憶が、少しずつ水に溶けるように薄れていく。彼の笑顔、声、温もり。すべてが、霧のように曖昧になっていく。
唯一鮮明に残るのは、あの最後の夜の記憶だけ。 水の天井の向こうで、自ら沈んでいく健一の姿。 その映像が、壊れたフィルムのように、何度も何度も脳裏に再生される。
水に愛されることも、水に触れることも許されない。 それが、美代子に与えられた永遠の罰だった。




