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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第八章:母の失敗 - 二十四年前の悲劇
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第23話 平成九年、春 - 反抗の少女

二十四年前、平成九年四月。 雨の多い春だった。この町特有の、空に穴が空いたかのように執拗に降り続く雨。住民たちは「また雨か」と諦観の溜息をつきながら、湿った日々を過ごしていた。


田辺美代子は、家族の中で異質な存在だった。 十七歳。高校三年生。 祖母の和子や、未来の娘である真紀とは正反対の、自由奔放な性格。髪を明るい茶色に染め、スカートは膝上十五センチまで短くし、白いルーズソックスを履いていた。当時の女子高生の典型的なスタイルは、この古風な家の中ではあまりにも浮いていた。


朝食の席で、母の和子が口を開いた。食卓の上で、味噌汁から立ち上る湯気が、じっとりとした朝の空気に溶けていく。


「美代子、その髪を黒く戻しなさい。田辺家の娘としてみっともない」


和子の声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。その目は、まるで深い井戸の底を覗き込むような、底知れぬ暗さを宿していた。


「嫌よ。みんな染めてるもん。お母さんの時代とは違うの」


美代子は反発した。しかし、その強がりの裏で、母の視線に含まれる何かが、彼女の背筋を凍らせた。


「みんなとは誰ですか。うちは違います」


和子の声が、氷のように冷たくなる。その瞬間、部屋の温度が実際に下がったような錯覚を覚えた。窓ガラスに、季節外れの結露が浮かぶ。


「うちには、うちの決まりがあります」


「古臭い決まりなんて、知らないわ。水に男を捧げる?馬鹿馬鹿しい」


美代子は、味噌汁を飲み干すと乱暴に椀を置いて席を立った。椀の底に残った味噌が、まるで血溜まりのように見えた。


「美代子」 和子が立ち上がろうとした時、彼女の足元から微かに水が滲み出た。畳に、じわりと広がる水の染み。それは朝露でも、こぼれた茶でもない。もっと冷たく、もっと深いところから湧き出る水だった。 「待ちなさい」


「遅刻するから!」


美代子は振り返らずに玄関へ向かった。しかし、廊下を歩く間、背中に母の視線を感じ続けた。それは物理的な重さを持っているかのように、彼女の肩にのしかかった。


玄関で靴を履きながら、美代子は思った。 二十世紀も終わろうとしているのに、まだそんな迷信を信じているなんて。科学の時代に、呪いなんてあるわけがない。すべては、この古くて陰気な家が生み出した妄想なのだ、と。


しかし、靴紐を結ぶ手が微かに震えていることに、彼女は気づかないふりをした。


健一との出会い


四月の終わり、ゴールデンウィーク前。 その日は珍しく晴れていた。しかし、空気は湿っていて、まるで雨雲が皮一枚隔てたところで待機しているような、不安定な天気だった。


美代子は、友達とカラオケに行った帰りだった。 駅前の、薄暗い路地。三人の男に絡まれた。


「ねえ、カワイイじゃん。俺たちと朝まで遊ぼうよ」


酒臭い息が、美代子の顔にかかる。逃げようとした瞬間、男の一人が彼女の腕を掴んだ。その手は湿っていて、不快な感触が肌に残った。


「やめてください!」


美代子が声を上げた時、一台のバイクの轟音が響いた。エンジンの熱気が、湿った空気を切り裂くように伝わってくる。


「おい、何してんだ、てめえら」


革ジャンを着た青年が、バイクから降りてきた。 岡本健一。二十一歳。地元の大学四年生。 身長180センチの長身。日焼けした肌に、鋭い目つき。一見、不良のような風貌。しかし、その瞳の奥には、優しさが宿っていた。


「関係ねえだろ、引っ込んでろ」


男たちが威嚇する。空気が張り詰める。


「関係あるね。俺の女に何か用か」


健一が、美代子の手を掴んだ。その手は大きく、少しタバコの匂いがした。でも、不思議と温かかった。先ほどの男の湿った手とは違う、乾いた熱を持った手。


「行くぞ」 有無を言わせず、美代子をバイクの後ろに乗せる。 「しっかり掴まってろ」 美代子は、健一の腰に腕を回した。革ジャンの冷たい感触と、その下から伝わる体温。ガソリンと、微かに香るミントの匂い。不思議と不快ではなかった。むしろ、安心感さえ覚えた。


バイクが走り出す。風が、美代子の髪を激しくなびかせる。湿った春の空気を切り裂いて進む感覚。 自由だ、と思った。この感覚。家の息苦しさから解放される、疾走感。水の重さから逃れる、軽やかさ。


「ありがとうございました」


安全な場所で降ろされた後、美代子が礼を言った。


「気にすんな」 健一が、ヘルメットを脱ぐ。短く刈り上げた髪。整った顔立ち。不良っぽい外見とは裏腹に、優しい目をしていた。そして、その目には生命力が溢れていた。田辺家の女たちが持つ、水のような冷たさとは正反対の、太陽のような熱さ。


「名前は?」 「美代子」 「俺は健一。よろしくな」


それが、二人の始まりだった。 運命の歯車が、軋む音を立てて回り始めた瞬間だった。

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