表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第七章:姉の儀式 - 二度の水葬
22/56

第22話 劣化の兆候と歪んだ動機

■二度目の儀式 - 令和二年、冷徹な遂行


大学に進学し、東京で暮らし始めた真紀は、手に入れた永遠を謳歌しているように見えた。 しかし、二十三歳を過ぎた頃から、微かな変化が訪れた。


朝、鏡を見ると、目尻にごくごく僅かな皺が見える気がした。陶器のようだった肌に、人間らしい微かな色ムラが戻ってきた。何より恐ろしかったのは、体内の時計が狂い始めたことだ。正確に三秒間隔だった瞬きが、時折二・九秒になったり、三・一秒になったりする。心臓の鼓動も、完璧なリズムを失いかけていた。


それは、死へと向かう「人間」への逆戻りの合図だった。一度手にした神の領域から、死すべき定めの定まった人の領域へと引きずり下ろされる屈辱。


そして、その美貌と永遠を維持するためには、再び水時計を「満たす」必要があった。新たな愛する者を見つけ、その命を捧げることで。


真紀は、自室の窓からきらびやかな東京の夜景を見下ろしていた。高級ブランドの服も、豪華な食事も、彼女の凍てついた心を満たすことはない。


「聡、あなたを殺して手に入れた世界は、こんなにも空っぽだった」


しかし、聡の犠牲の上に成り立つこの「永遠」が失われることへの、凄まじい恐怖が彼女を支配する。


「聡の死を無駄にはしない。そのためなら、私は何度でも鬼になる」。


彼女の二度目の犯行が、純粋な悪ではなく、一度犯した罪を「正当化」するための、絶望的な自己保存の本能から来るものであることを描く。


■神秘への狂気


岡田浩介は、真紀に初めて会った日から、彼女の虜になった。 図書館の棚の向こうで、古書を静かに読む彼女の姿は、まるで絵画のようだった。


「田辺さん、って、この大学の学生なんですか?」


声をかけると、彼女は感情のない目で浩介を見た。その完璧なまでに整った顔立ちと、無表情の裏に隠された神秘性に、浩介は狂気じみた憧れを抱いた。


「僕は、君のことが知りたい。君のすべてを知りたいんだ」


浩介は、真紀にのめり込んでいった。彼女の知性、言葉の選び方、そして時折見せる、人間離れした静謐な佇まい。それは、彼が今まで出会ったどんな女性とも違っていた。彼は、真紀を愛するというよりも、崇拝していた。彼女を、この世に現れた女神か、あるいは、遠い世界の王女かのように感じていた。


「真紀さんは、完璧だ。神様みたいだ」


浩介がそう言うと、真紀の瞳が、一瞬だけ水のように揺らいだ。


「私は、ただの人間よ」


彼女は冷たく言ったが、浩介は信じなかった。


「違う!あなたは、僕がずっと探していた存在だ。この空っぽな世界に、僕を満たしてくれる唯一の存在だ!」


彼の愛は、真紀の美しさを消費し、彼女の神秘性を讃えることだった。


■標的の選定と機械的な遂行


真紀は、新たな犠牲者を探し始めた。それはもはや運命に流されるのではなく、自らの意志による「狩り」だった。


彼女は、岡田浩介を選んだ。 法学部の、聡明で、純粋で、そして深い愛情を捧げてくれそうな青年。聡によく似た、優しい目をした男。


真紀は、自らの美しさと知性を武器に、計画的に浩介の心を掴んだ。図書館での偶然を装った出会い、勉強会という名の接近、そして計算され尽くした告白の受諾。


「真紀さん、僕、君のことが……好きです」


「私も、浩介君のことを想ってたの」


その言葉に、一片の真実もなかった。すべては、儀式のための準備だった。 浩介が真紀を愛すれば愛するほど、真紀の心は冷え切っていった。 これは、愛ではない。儀式のための、準備だ。


ある夜、浩介との電話を終えた後、真紀は誰もいない部屋で、無意識にわらべ歌を口ずさんでいた。その声は機械的で、まるで録音されたかのように感情がなかった。


「水は冷たい でも怖い 凍える指で 手を繋ぐ ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、 愛しいあなたの 涙となる」


そして、二十四歳の誕生日。 真紀は、浩介を故郷の廃寺へと誘った。


「特別な場所を見せたいの」


高校の制服を着たのは、浩介を油断させるための計算だった。過去への郷愁を演出し、警戒心を解く。すべてが、綿密に計画された演技だった。


地下へと降りていく道程で、真紀の心は驚くほど静かだった。一度目の時のような、人格の分裂も、罪悪感もなかった。あるのはただ、目的を遂行するための、冷徹な意志だけ。


水時計の部屋。退路が断たれ、水が満ちてくる。 真紀は、完璧な演技を始めた。


「怖い!助けて!」


涙を流し(それは体から滲み出たただの水だったが)、震え、扉を叩く。 浩介は、必死に彼女を守ろうとした。その純粋な優しさが、真紀の凍てついた心のどこかを、チクリと刺した。だが、それだけだった。


水位が首まで来た時、真紀は演技をやめた。


「ごめんね、演技だったの」


その声は、氷のように冷たかった。


「真紀さん…なぜ…」


「美しさを、保つためよ」


それが、真紀の本心だった。


「君を愛してたんだろう?」


浩介の最後の問いに、真紀は冷たく微笑んだ。


「ええ、愛してたわ。あなたの純粋な魂が、儀式に最適だと」


真紀は、もはや人間ではなかった。美という名の呪いに憑りつかれた、哀れな化け物だった。 彼女は、抵抗しない浩介を、ゆっくりと水の中に沈めた。一度目のような激情はない。ただ、作業のように、冷静に。


水が天井に達し、浩介の体が水路に吸い込まれていく。 最後に、彼が言った言葉。


「それでも…愛してる…」


その言葉を聞いても、真紀の心はもう揺らがなかった。聡への最後のキスで、彼女の人間性はとうに死んでいた。


■完成された狂気


水が引いた後、真紀は生まれ変わっていた。 一度目の儀式で得た美しさが、さらに研ぎ澄まされ、完璧なものへと昇華されていた。肌は光を放つように白く、瞳は宝石のように澄み渡る。体内の時計も、再び完璧なリズムを取り戻した。


しかし、その代償として、彼女は最後の人間性のかけらを失った。


その夜、真紀は自室で一人、鏡を見つめていた。完璧な美貌。人形のような、生気のない美しさ。


「これが、私の選んだ道」


鏡の中の自分に語りかける。その声は、複数の女性の声が重なったような、異質な響きを帯びていた。


突然、鏡の表面が波打った。 そこに映ったのは、聡の顔だった。水の中で、苦しそうに、しかし愛おしそうに真紀を見つめている。


『なぜ、まだ見ている』


真紀が問いかけると、聡の唇が動いた。


『君が、本当は泣いているから』


真紀の頬に、一筋の水が流れた。 涙ではない。ただの、水。 しかし、その水は熱かった。まるで、失われた人間性が最後に残した、魂の残滓のように。


「違う。私はもう、泣かない」


鏡を手で払うと、聡の姿は水のように散って消えた。 真紀は振り返らずに部屋を出た。廊下には、母の美代子が立っていた。


「真紀」 「何?」 「香織に、気をつけなさい」


美代子の乾いた声が、暗い廊下に響く。


「あの子は、あなたとは違う。抵抗するわ」 「だから?」 「だから、もっと残酷な結末が待っているかもしれない」


真紀は冷たく笑った。


「残酷?これ以上の残酷があるというの?」


美代子は答えなかった。ただ、窓の外を見つめていた。そこには、梅雨の走りのような、重たい雲が垂れ込めていた。


真紀は思った。 この妹は、私とは違う結末を迎えるかもしれない。 より幸福な結末か、より悲惨な結末か。 どちらにせよ、もう私には関係のないこと。


夜、真紀の部屋に水音が響いた。 ぽたん…ぽたん…ぽたん… 三十秒に一度の、規則正しい音。 それは、聡が最後に流した涙の音のようでもあり、浩介の断末魔の泡の音のようでもあった。


真紀は目を閉じた。 水音は続く。 永遠に、永遠に。


これが、彼女の選んだ永遠。 美しく、冷たく、そして途方もなく孤独な、水の牢獄。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ