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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第七章:姉の儀式 - 二度の水葬
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第21話 仮面の奥の弱さ

聡は、真紀のことが好きだった。それは、彼女の完璧さや美しさだけが理由ではない。 初めて彼女と話した時、聡は彼女の瞳の奥に、深い悲しみの影を見つけた。まるで、暗い水底に閉じ込められた光のような。 真紀は、いつも完璧だった。生徒会長として、誰よりも冷静で的確な判断を下す。クラスメートの悩みにも、感情を挟まずに論理的な解決策を提示する。まるで、人間ではないみたいに。


「真紀はすごいな。まるで、ロボットみたいだ」


聡が冗談めかして言うと、真紀は一瞬、眉をひそめた。その一瞬の隙に、聡は彼女の心の奥に潜む、微かな怒りと、そして深い傷を感じ取った。


「私は、ただの道具だと言いたいの?」


その言葉に、聡は慌てて首を振った。


「違う!違うんだ。君は、誰よりも人間らしいよ。感情を隠すのが上手いだけで、本当は誰よりも優しい。僕は、そんな君が好きだ」


真紀は何も答えず、ただ静かに聡を見つめた。その瞳の奥の光が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。聡は知っていた。彼女が家でどんな扱いを受けているか、どんな運命を背負っているか、噂で聞いていたから。だからこそ、彼は彼女を救いたいと思った。この町の呪いから、彼女を解放してやりたいと。


■抵抗と誘惑


真紀は最後まで抵抗した。 「私たちは、ただの会長と副会長よ」 そう言って聡を遠ざけ、冷たい言葉を投げかけた。彼を愛してはいけない。愛せば、彼を殺すことになる。その恐怖が、真紀を支配していた。


「聡君、あなた優しすぎるのよ。私みたいな人間に関わらない方がいい」


「どうしてそんなことを言うんだ?君は、僕が知っている誰よりも優しい人間だよ」


聡は、真紀の突き放すような言葉の裏にある恐怖を、正確に感じ取っていた。


しかし、運命は、彼女の微かな希望を打ち砕いた。 大学への推薦を祖母に申し出た夜。和子は真紀の合格通知を燃やし、冷たく言い放った。


「あなたの道は、最初から決まっている。無駄な夢など見ないことだ」


その言葉と共に、真紀の心の中にあった、都会への憧れという小さな光が、音を立てて消えた。絶望が彼女の心を支配した。


そして、誕生日の日、体は勝手に動いた。 朝、目覚めると、体の中から水が呼ぶ声が聞こえた。『捧げよ』と。抗いがたい衝動が、彼女の理性を麻痺させていく。


「聡君、少し、話があるの」


放課後、真紀は聡を呼び止めた。その声は自分のものではないように、平坦で冷たく響いた。 聡は何も聞かず、ただ黙って頷いた。彼の瞳には、悲しいほどの優しさと、すべてを受け入れる覚悟が宿っていた。彼は、すべてを悟っていたのかもしれない。


■恐怖の地下降下


廃寺へと向かう道すがら、真紀の中では二人の自分が激しく戦っていた。


「逃げて!」と叫びたい人間の真紀と、「こちらへ」と誘う巫女の真紀。 灯油と黴の混じった匂いが鼻を突く。地下へ続く暗い階段を下りながら、口からは「大丈夫よ、こっちよ」という穏やかな言葉が出る。


階段の石は濡れて滑りやすく、一歩踏み外せば奈落へと落ちていきそうな錯覚に陥る。


聡を助けたいのに、手は彼の手を優しく握り、水時計のある部屋へと導いていく。聡の手は温かかった。その温もりが、真紀の凍てついた心に最後の痛みを与えた。


「真紀、何なんだ、これは」


水が満ち始め、聡が事態を察した時も、彼は驚くほど冷静だった。腰まで水位が達した時、聡が初めて彼女の名を呼んだ。


「真紀」


その声には、責めるような響きはなかった。ただ、深い悲しみと、それでもなお彼女を愛し続ける決意が込められていた。


「君のせいじゃない。分かってる」


その言葉に、真紀の中の人間性が悲鳴を上げた。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 声にならない叫びが、体内でこだまする。涙を流したかった。しかし、目から溢れたのは、涙ではなく、体内の水が変化しただけの冷たい液体だった。


■水底の口づけ


水が首まで満ちた、最後の瞬間。 真紀は、抗いがたい力に導かれるように聡の前に立ち、その唇に、自らの唇を重ねた。


それは、冷たい水の底で交わされた、熱い、人間としての最後のキスだった。 愛している、という言葉の代わりに。 永遠のさよならの代わりに。


水の中でも、聡の体温は温かかった。彼の手が、最後の力を振り絞って真紀の頬に触れた。その瞬間、真紀は見た。聡の瞳の奥に、恐怖ではなく、深い愛情と、そして彼女への赦しが宿っているのを。


「愛してる」


聡が水の中で口を動かした。音は聞こえなかったが、その形は確かに読み取れた。 その言葉と共に、彼は水に飲まれた。


水が引いた後、真紀は生まれ変わっていた。人間を超えた美しさを手に入れ、心は凍りついた。 これが、一度目の悲劇。

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