第20話 狂気の序曲
田辺真紀は、二人の男を水に捧げた。
一度目は、十八歳の誕生日に。恐怖と罪悪感の中で、人間としての自分を殺すために。 そして二度目は、その六年後、二十四歳の時に。渇望と意志のもとに、怪物としての自分を完成させるために。
田辺家の巫女にとって、儀式は一度きりではなかった。 最初の儀式は、巫女としての「覚醒」である。愛する者を捧げることで、人間としての時間を止め、人ならざる美しさを手に入れる。しかし、その美しさは永遠ではない。水時計が時を刻むように、その効力もまた、時と共に薄れていく。肌の陶器のような滑らかさは失われ、髪の絹のような艶はくすみ、体の奥で正確に時を刻んでいた時計の歯車が、微かに軋み始める。
それは、人間へと「劣化」していく恐怖。一度手にした神の領域から、死すべき定めの定まった人の領域へと引きずり下ろされる屈辱。
そして、その美貌と永遠を維持するためには、再び水時計を「満たす」必要があった。新たな愛する者を見つけ、その命を捧げることで。
真紀は、その連鎖に囚われた最初の巫女だったのかもしれない。あるいは、過去の巫女たちもまた、語られざる二度目、三度目の儀式を行っていたのかもしれない。
真紀にとって、二度目の儀式は、一度目とはまったく質の違う狂気を孕んでいた。一度目が運命に殺された悲劇なら、二度目は自ら運命を殺した狂劇だった。
■一度目の儀式 - 平成二十八年 完璧な仮面と日常の亀裂
平成二十七年、夏。田辺真紀は十七歳、高校三年生。 彼女の生活は、完璧に計画され、隙のないもので満ちていた。朝五時に起き、一時間かけて受験勉強。学校では生徒会長として全校生徒をまとめ上げ、学年トップの成績を維持。放課後は生徒会室で書類を処理し、帰宅後は母と祖母の監視のもと、夜遅くまで『家』の教えを学ぶ。
真紀は、幼い頃から「選ばれた子」として、妹の香織とは異なる扱いを受けてきた。 「真紀は、田辺家の誇り」 祖母の和子は、香織が描いた絵を「子供の戯れ」と嘲笑し、真紀が書いた書を「魂が宿っている」と褒めた。 祭りの日、香織は鮮やかな浴衣を着せられ、友達と賑やかに祭りを楽しんでいた。しかし、真紀に与えられたのは、地味な黒い着物だった。 「あなたに祭りは必要ない。あなたは、この家の水を守る者なのだから」 その言葉は、真紀の心に深く刺さった。香織が家族の温かい手で抱きしめられ、普通の愛情を注がれるたびに、真紀は自分の心が、母の美代子のように「乾いていく」のを感じていた。 都会の大学への進学を夢見ていたが、祖母に燃やされた合格通知を見て、彼女の心は完全に凍りついた。
「愛なんて、くだらない。夢なんて、無意味だ」
そう言い聞かせることで、真紀は自分を納得させていた。
「真紀、あなたは特別な子」 祖母の和子は、蝋人形のように完璧な表情で言った。 「その美しさも、知性も、すべては『家』のためにある。使命を果たす時が来れば、あなたは『選ばれた者』となるのじゃ」 和子の瞳は、水の底を覗き込むように冷たく、そこに愛情の色はなかった。ただ、真紀という存在を「使命を継ぐ道具」として見ているだけだった。
「お母さんみたいには、ならないでね」
母の美代子が、水も飲まずに食事を摂る姿を見ながら、真紀は何度もそう聞かされた。美代子の乾ききった唇と、いつも潤んでいる娘たちの唇。その鮮やかな対比が、美代子の失敗を常に真紀に突きつけていた。
「お母さんは、弱かったから。愛を選ぼうとして、大切なものを全部失ってしまった。だから、あなたは、愛なんていうくだらないものに心を惑わされないで」
その言葉は、真紀の心に鉄の鎖を巻きつけるようだった。感情を殺し、心を鉄の鎧で固めれば、運命の刃も届かないはずだ。そう信じていた。
真紀には、都会の大学に進学するという密かな夢があった。都会に出て、この古く陰気な家から逃れ、自由な世界で生きてみたい。建築家になって、水の呪いとは無縁の、太陽の光が降り注ぐ家を建ててみたい。そんな願望を、彼女は誰にも打ち明けず、心の奥底に隠していた。
そんな真紀に、唯一、亀裂を入れる存在がいた。 生徒会副会長の、聡。 彼は、真紀とは正反対の人間だった。穏やかで、誰にでも優しく、人の心の機微に敏感だった。彼は、真紀が纏う『鉄の鎧』の奥に、誰よりも脆く、救いを求める魂が震えていることを見抜いていた。
ある晴れた放課後、二人は町外れの川辺で、ささやかな未来の夢を語り合った。 「大学に行ったら、僕は東京でゲームを作りたい」 「私は、建築家になって、水の呪いとは無縁の、太陽の光が降り注ぐ家を建ててみたい」 真紀がそう言った時、聡は優しく笑って、彼女の肩に触れた。 「大丈夫だよ、真紀。君ならきっとできる。僕が、いつか君の建てる家に住んでやる」 その瞬間、真紀の心に、温かい希望が灯った。しかし、それは束の間の幻だった。
「会長、少しは休んだらどうだ?顔色が悪いぞ」
文化祭の準備で連日深夜まで残っていた時、聡は温かいココアを差し出して言った。
「平気よ。計画通りに進めるのが私の仕事だから」
「計画も大事だけど、会長が倒れたら元も子もないだろ」
聡の笑顔は、真紀が築き上げた鉄壁の論理を、いとも簡単に溶かしてしまう温かさを持っていた。
生徒会室で二人きりになる時間が増えるにつれ、真紀は聡に惹かれていった。彼の隣にいる時だけ、彼女は鎧を脱ぎ、ただの少女に戻れた。聡もまた、そんな真紀を深く、静かに愛していた。




