第2話 冬の予感と水の気配(回想)
昭和四十七年一月七日、土曜日。県立高校の三学期始業式。
校庭にはまだ雪が残り、生徒たちの吐く息が白く凍った朝の空気に溶けていく。体育館の冷たい床板が、上履きを通して足の裏に突き刺すような寒さを伝えてくる。芯から冷える、という言葉がぴったりと当てはまる朝だった。
この町は、古来より水に縁が深い。年間降水量は全国平均の二倍近く、梅雨と秋雨の季節には町全体が薄い霧に包まれる。住民たちは諦観と共にそれを受け入れていた。「また雨か」という呟きが、この町の挨拶代わりだった。
田辺和子は、いつものように最後列の端に立っていた。前髪を少し長めに切りそろえ、目立たないように俯き加減で。彼女の家のことを知る者は少なくない。代々続く旧家、広大な屋敷、そして囁かれる不吉な噂。
田辺家の娘は十八歳になると、愛する男を水に捧げることで、人ならざる美しさを手に入れるのだ、と。
馬鹿げた迷信。そう思いながらも、和子の心には常に、よどんだ水のような不安が澱のように溜まっていた。家の中を満たす、あの独特の湿気。廊下を歩くたびに軋む床板から滲み出る、かび臭い水の匂い。そして祖母の部屋から漂う、線香と古い井戸の底のような、混ざり合った異臭。
「おい、田辺」
不意にかけられた声に、和子はびくりと肩を震わせた。振り返ると、野球部の田中亮介が立っていた。頬は寒さで赤く染まり、短く刈り込んだ髪に雪の欠片がきらきらと光っている。野球部のウィンドブレーカーの下から、鍛えられた体つきが見て取れる。土のついたスパイクを肩にかけ、朝練帰りらしい。彼の周りだけ、寒さが和らいでいるように錯覚するほどの熱気があった。
それは、太陽の匂いだった。夏のグラウンドの土の匂い、汗の匂い、そして熱い生命の匂い。
「新年、おめでとう」
亮介の笑顔は、凍えた体育館の空気を一瞬で温めるような明るさだった。歯が白く、日焼けした肌によく映える。野球部のエースで四番、女子の間では憧れの的だった。彼が自分に話しかけることなど、これまで一度もなかった。
「あけまして、おめでとうございます」
和子は小さく頭を下げた。なぜ亮介が自分に声をかけてきたのか分からない。クラスは同じ三組だが、住む世界が違う。光と影。太陽と、深い井戸の底。それが二人を隔てる壁だった。
「実はさ」
亮介が頭を掻きながら言った。照れくさそうに視線を逸らし、また和子を見る。その瞳は驚くほど真っ直ぐだった。茶色い、優しい瞳。そこには打算も、からかいの色も見えなかった。
「去年の文化祭で、君の書道を見たんだ。『水』って字。すごく綺麗だった。なんていうか、生きてるみたいで」
和子の心臓が、どくんと大きく跳ねた。あの作品。祖母に言われて書いた一枚。墨が和紙に染み込んでいく様を、ただじっと見つめながら書いた『水』の一文字。紙が水を吸い込み、水が紙に命を与える。その瞬間の、ぞっとするような感覚。誰にも理解されないと思っていた、自分だけの秘密の世界。
それを、彼は「生きてるみたい」と言った。
「それで、その……書道を教えてもらえないかな」
「え?」
「実は、野球部の必勝祈願の旗に、格好いい文字を書きたくて。『必勝』とか、『一球入魂』とか。でも、俺の字は壊滅的に汚くてさ」
亮介は苦笑いを浮かべながら、ポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出した。確かに、小学生のような字で『がんばる』と書かれている。その拙さが、彼の飾り気のなさを物語っていた。
和子は、思わず小さく笑ってしまった。自分でも驚くほど、自然に。
「笑うなよ」
亮介が頬を膨らませる。子供っぽい仕草が、妙に愛らしい。
「ごめんなさい。でも、私なんかでよければ」
「本当?ありがとう!」
亮介の顔が、パッと明るくなった。まるで試合に勝った時のような、純粋な喜びの表情。その笑顔を見た瞬間、和子の心の奥底で、何かが静かに動き出した。
カチリ、と。
古びた時計の歯車が、錆びついた音を立てて回り始めるような、そんな予感がした。それが、すべての始まりだった。




