第19話 幕間:町の声(2)
■町役場の資料室にて
若い職員が、古い戸籍簿を整理していた古株の職員に尋ねた。
「先輩、この町の死亡記録、妙な空白期間がありますね。天保とか、明治の初めとか。それに、昭和四十七年にも……」
若い職員、名は小林。今年赴任してきたばかりで、この町の閉鎖的な空気にまだ慣れていない。彼の目には、この町が抱える歴史の闇が、奇妙なノブとして映っていた。 古株の職員、名は佐藤。この道三十年のベテランだ。彼は小林の言葉に、手を止めることなく、低い声で答えた。
「……水害だよ。昔はよくあったんだ、記録が流されちまうような、ひどい水害がな」 「でも、災害の記録にはそんな大規模なものは……」
小林は、災害記録を隅々まで調べていた。しかし、和子が十八歳になった昭和四十七年を始め、天保や明治の初めに、町の記録が流されるほどの災害は起きていなかった。
「いいか、坊主。この町には、掘り返しちゃならねえもんがあるんだ。記録に残ってねえもんは、つまり、最初から『なかったこと』なんだよ。俺たち役人の仕事はな、町の平穏を守ることだ。真実を明らかにすることじゃねえ」
佐藤の瞳は、まるで深い井戸の底のように、暗く、冷たかった。彼の口元には、微かな水の匂いがした。
その言葉に、小林は納得がいかなかった。彼は、上司の目を盗み、資料室の奥へと足を踏み入れた。埃を被った棚の、一番奥。古びた木箱の中に入っていたのは、紙魚に食われかけた古い記録だった。それは、「音無神社」と書かれた、町の歴史書だった。
彼は、その記録をそっと持ち帰り、夜な夜な読み解いた。そこに書かれていたのは、衝撃的な事実だった。
『東林山の水神、人の血を欲し、町に長雨をもたらす。十八の齢に達せし乙女、水神の贄となる。これ、延々と続く、水の呪いなり。』
その記述は、町に伝わる噂と完全に一致していた。しかし、その先に、別の記録が続いている。
『音無の宮司、笛を吹き、神楽を舞う。水の呪い、音に鎮まり、長雨止む。水神、悲しき音に心奪われ、人を食らうこと止む。』
それは、かつてこの町には、水の呪いを鎮めるための、別の方法があったことを示していた。音無神社の祭祀。音の力で、水の悲しみを癒す。
小林は、さらに読み進めた。
『天保十三年、稀なる長雨、稲作絶える。水神の渇き、極まる。音無の宮司、命を賭し、水神に挑む。宮司の笛の音、水の底まで響き、水神の悲しみを鎮める。しかし、その音、水神の渇きを満たすには至らず。水神、怒りに狂い、宮司の魂を水の底へと引きずり込む。宮司の妻、笛を抱き、夫を追う。妻の最期の音、水の底へと消え、音無の祭祀、ここに途絶える。』
小林は、背筋が凍るのを感じた。水の呪いと、音無神社の祭祀。それは、この町で長く繰り広げられてきた、水と音の、静かな戦いの歴史だった。そして、その戦いは、水の勝利で終わってしまったのだ。
彼は、翌日、古株の職員にそのことを話した。
「先輩!この記録は本物です!この古文書には、この町に伝わる呪いと、それに対抗しようとした人々の記録が残されていました。」
古株の職員は、彼の手から記録を奪い取ると、それをビリビリと破り捨てた。
「いいか、坊主。もう一度言う。俺たちの仕事は、町の平穏を守ることだ。真実を明らかにすることじゃねえ」
「でも…!」
「真実を知ったところで、何になる。お前も、あの男みたいに、水に取られたいのか?」
古株の職員の瞳は、まるで深い井戸の底のように、暗く、冷たかった。彼の口元には、微かな水の匂いがした。 若い職員は、恐怖に震え、それ以上何も言えなくなった。彼は、真実を追い求めることが、この町では命取りになることを、その時、初めて悟ったのだ。
雨は降り続く。 人々はそれを嘆き、忌み嫌いながらも、どこかで受け入れていた。長雨が続けば作物の心配をし、日照りが続けば雨を乞う。そのサイクルの中心に、田辺家の呪いが、まるで町の平穏を保つための「必要悪」であるかのように、鎮座している。 この町全体が、巨大な沈黙の共犯者だった。 そして、その沈黙を破ろうとする者が現れる時、町は静かに牙を剥く。




