第17話 亮介の日記 - 最後の言葉
自室に戻り、翔太は亮介の日記を開いた。野球部の練習日誌を兼ねた、ごく普通の大学ノート。しかし、最後の日付、昭和四十七年六月十九日のページだけは、インクが滲み、文字が震えていた。
『和子を愛している。何があっても、俺が守る。たとえ、俺が人間でなくなっても。
この町に伝わる呪いは、本物だ。田辺家の女は、十八歳になると愛する男を水に捧げなければならない。馬鹿げた迷信だと思っていた。でも、違う。あれは、抗うことのできない、水の摂理のようなものだ。
和子は、その運命に苦しんでいる。彼女を一人にはできない。
明日、俺は和子と一緒に行く。儀式の場所へ。
これは、誰かに強制されたわけじゃない。俺自身の選択だ。愛する女を守る。男として、当たり前のことだ。
もし、この日記を誰かが読んでいるなら、頼む。和子を責めないでくれ。彼女もまた、この呪いの被害者なんだ。
源ちゃん、父さん、母さん、ごめん。
でも、俺は幸せだった。和子と出会えて、本当に幸せだった』
日記を閉じ、翔太は目を閉じた。亮介の覚悟が、五十年の時を超えて胸に迫る。愛のために死を選ぶ。自分に、そんなことができるだろうか。
いや、違う。祖父は言った。「生きる道を探せ」と。
翔太は、香織の顔を思い浮かべた。図書室で見た、儚げな横顔。深い孤独の影。彼女もまた、この呪いに苦しんでいる。亮介が和子を守ろうとしたように、自分も香織を守りたい。
しかし、どうやって?
答えは、歴史の中にしかない。この呪いの起源、水時計の正体、そして町の秘密。すべてを解き明かさなければ、道は開けない。
その時、家の外で奇妙な音がした。
ぽたん…ぽたん…ぽたん…
規則正しく、三十秒に一滴。雨音ではない。もっと重く、粘り気のある音。まるで、巨大な何かが脈打つ音のようだった。
■図書館の再会 - 運命の確信
翌日の放課後、翔太は再び図書室の民俗学コーナーに向かった。香織が、そこにいるような気がしたからだ。予感は的中した。彼女は、昨日と同じ本を、祈るように見つめていた。
彼女の周りだけ、空気が歪んでいるように見えた。西日が彼女の輪郭を曖昧に溶かし、まるで水の中に立っているかのように揺らめいている。
「その本、面白い?」
声をかけたのは、ほとんど無意識だった。彼女がこの呪いの中心にいるのなら、自分もまた、その渦の中に飛び込むしかない。
会話を交わし、本を一緒に読む。肩が触れ合うほどの距離。彼女の体温が感じられない。氷のように冷たい。しかし、その冷たさの奥に、微かな震えを感じた。恐怖と、孤独の震え。
守りたい。心の底からそう思った。
新聞の切り抜きを見つけた時、翔太は確信した。大叔父の失踪と、彼女の家系は繋がっている。これは偶然ではない。五十年周期で繰り返される、運命なのだ。
藤田先生の奇妙な寝言。そして、香織が語った「体が変わり始めている」という言葉。すべてが、一つの真実を指し示していた。
「一緒に、真実を見つけよう」
彼女の手を握った時、翔太の体にも異変が起きた。彼女の冷たさが、自分の体内に流れ込んでくるような感覚。それは不快なものではなかった。むしろ、乾いた体に水が染み渡るような、奇妙な充足感があった。
これが、呪いの始まりなのか。それとも、新しい何かの始まりなのか。
その夜、翔太の家でも水音が始まった。三十秒に一滴。逃れることのできない、水時計のカウントダウン。
香織にメッセージを送ると、彼女も同じ音を聞いていた。
『きっと、始まったんだ』
翔太は、そう返信しながら決意を固めていた。
亮介大叔父さん、見ていてください。俺は、あなたとは違う道を行く。犠牲になるのではなく、二人で運命を乗り越える道を。たとえ、その先に何が待っていようとも。
翔太は机に向かい、自分のノートを開いた。祖父の記録とは別の、新しいノート。その最初のページに、彼は力強い字でこう書き記した。
『第三の道を探すための記録』
窓の外では、雨が激しさを増していた。水音が、家全体を包み込んでいく。それは、翔太にとって、破滅への秒針の音であると同時に、新しい物語の始まりを告げる、序曲のようにも聞こえた。




