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水に取られた ―零れる刻限―  作者: 大西さん
第六章:背負う者
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第16話 祖父の書斎

田中翔太の部屋の半分は、本で埋まっていた。歴史書、民俗学の専門書、郷土史の資料。しかし、その半分は自分の意志で集めたものではなかった。部屋の北側を占める巨大な本棚と、床に積み上げられた資料の山は、すべて祖父・源三郎から半ば強制的に譲り受けたものだ。


それは、五十年にわたる執念の記録だった。


「翔太、少し付き合え」


四月十六日の夜、図書館から帰宅した翔太を、源三郎が書斎に呼びつけた。八畳ほどの書斎は、インクと古い紙の匂い、そして消されることのない線香の香りが混じり合った、独特の空気に満ちていた。壁一面の本棚には、弟・亮介に関する調査資料がファイルにまとめられ、几帳面に並べられている。それはもはや書斎ではなく、一人の人間を弔い続けるための、私的な霊廟のようだった。


源三郎は、色褪せた一枚の写真を磨いていた。昭和四十七年の夏、甲子園予選でホームランを打った亮介が、はにかみながら笑っている写真だ。その指の動きは、儀式のように丁寧で、狂気じみていた。


「今日、田辺の娘に会ったそうだな」


源三郎は、翔太の顔を見ずに言った。その声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。


「……なぜそれを」


「この町でわしの知らんことはない。特に、あの家に関してはな」


源三郎はゆっくりと立ち上がると、本棚の一角から古びた地図を広げた。町の古い地図だ。その上には、赤いインクで無数の書き込みがされている。田辺家の屋敷を中心に、廃寺、古い井戸、そして過去に行方不明者が出た場所が、蜘蛛の巣のように線で結ばれていた。それは、一人の人間の執念が可視化された、呪いの設計図だった。


「亮介が消えてから、わしはこの町を調べ続けた。住民に話を聞き、古文書を読み解き、土地の記憶を掘り起こした。だがな、誰も本当のことは話さん。皆、口を揃えて同じことを言うだけだ」


源三郎の目に、深い疲労と怒りの色が浮かぶ。


「『また雨か』。それがこの町の連中の口癖だ。だがな、翔太、あれは諦観じゃない。恐怖から目を逸らすための、呪文だ。この町は、呪いの共犯者なのだ。見て見ぬふりをすることで、五十年間、秘密を守り続けてきた」


祖父の言葉は、翔太の胸に重くのしかかった。彼は、この調査を継ぐことを期待されている。亮介の生まれ変わりとして、五十年前の悲劇に決着をつけることを。


「わしの家はな、昔からこの町で煙たがられてきた」


源三郎が語る。


「亮介が消えてから、母親は心の病を患い、父親は酒に溺れた。田中家は、あの呪いの共犯者として、ずっと村八分にされてきたんだ」


翔太は、幼い頃に父親が蒸発し、母親が心を閉ざした過去を思い出していた。それは、亮介の失踪がもたらした悲劇の連鎖だった。


「そして、俺には友人がいた。村の外の世界を見せてくれた、唯一の友人。だが、彼はこの町の川で溺死した。事故だとされたが、僕は知っている。あれは、水に呼ばれたんだ」


源三郎が初めて村の外に出たのは、その友人の死がきっかけだった。都会に出た源三郎は、様々な価値観に触れ、この村の閉鎖性と異常性を客観的に認識するようになった。


「都会で暮らすうちに、俺は悟ったんだ。この町の人々は、呪いを『平穏』と引き換えに受け入れている。村八分にされ、嘲笑され、それでもここに留まらざるを得ない人々の悲哀を、俺は誰よりも知っている」


だからこそ、源三郎は香織を救いたいと思った。彼女の瞳の奥に、村のしきたりに抗おうとする、自分と同じ孤独と希望を見たからだ。


「じいちゃん、俺は……」


翔太が何かを言いかけた時、源三郎は彼の肩に手を置いた。節くれだった、硬い手。その手から、五十年の歳月が凝縮されたような重みが伝わってくる。


「お前は、亮介ではない。それは分かっている。だが、お前には亮介と同じ目がある。真実を見ようとする目だ」


源三郎は、鍵のかかった引き出しから、一冊のノートを取り出した。


「これは、亮介が最後に残した日記だ。わしがずっと隠していた。お前が『その時』を迎えるまで」


『その時』とは、いつのことか。翔太には分かっていた。田辺家の娘と出会い、この呪いに足を踏み入れる時だ。


「俺は、亮介の代わりじゃない」


翔太は、初めて祖父に反発した。それは、ずっと心の奥底に燻っていた言葉だった。


「分かっている」 源三郎の声は、意外なほど穏やかだった。


「だからこそ、お前に託すのだ。亮介はあまりに優しく、そして真っ直ぐすぎた。愛する者を守るために、自らを犠牲にすることしか考えられなかった。だが、お前は違うだろう。お前は疑い、考え、別の道を探そうとする。だから、お前はお前のやり方で、真実を探せ。亮介が愛のために死を選んだのなら、お前は愛のために生きる道を探せ」


源三郎の目は、潤んでいるように見えた。それは涙ではない。五十年間、枯れることのなかった執念の炎が、揺らめいているだけだった。

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