第15話 錆びた梯子と水の囁き
昭和六十年、夏。
源三郎は、梅雨が明けたにもかかわらず、湿気が肌にまとわりつく東林山の廃寺に立っていた。彼の背中には、調査記録、地図、そしてあらゆる道具が詰め込まれた大きなリュックが背負われている。十三年の歳月が彼の体に深く刻まれていたが、その瞳には、未だに燃えるような執念が宿っていた。
「亮介…俺は、真実を突き止める」
彼は、風化した本堂の前に立った。戸籍簿や古文書の記述を頼りに、地下水路への入り口があることを突き止めていた。しかし、その入り口は分厚い石の扉で塞がれ、開く鍵が見つからない。
彼は、廃寺の裏手にある朽ちた祠の裏に、別の入り口を発見した。それは、古文書にも記されていない、秘密の抜け道だった。 穴に懐中電灯の光を当てると、光は途中で吸い込まれるように消え、代わりに奥から冷たい風が吹き上げてきた。その風には、鉄錆と苔、そして微かに腐敗臭が混じっていた。
「これだ…」
彼は、躊躇した。この穴に入れば、もう戻れないかもしれない。 だが、彼の耳に、遠い日の弟の声が聞こえてきた気がした。
『兄ちゃん、大丈夫。俺がついてる』
それは幻聴だった。しかし、彼の背中を押すには十分だった。 彼は、一人で穴の中へと入っていった。
■水の迷宮と罠
穴の中は、想像以上に狭く、湿気がひどかった。彼は、懐中電灯の光を頼りに、慎重に進んでいった。足元はぬかるんだ土。壁からは、水が滲み出している。
しばらく進むと、彼は古い石造りの階段に出た。 「これだ…!ここが、水時計へ続く道…!」 彼は、喜びと興奮に震えながら、階段を降り始めた。しかし、階段の途中、彼が踏み出した石が、ぐらりと揺れた。 「うわっ!」 彼は、体勢を崩し、階段から転げ落ちた。彼の体は、水路へと投げ出された。
水路は、地下水脈から溢れ出した水で満たされており、彼の体を、まるで意志を持ったかのように奥へと引きずり込んでいく。彼は必死に藻掻いた。しかし、水の力は強かった。 水路は、彼を水の底へと導き、彼の意識は次第に薄れていった。
その瞬間、水の中から、亮介の顔が浮かび上がってきた。
『兄ちゃん…どうして…』
亮介は、悲しそうに言った。
「お前を…迎えに…」
『兄ちゃんは…俺じゃない…』
亮介は、そう言い残すと、水に溶けていった。 源三郎は、水の中で、亮介の言葉の意味を悟った。俺は、亮介の代わりにはなれない。俺は、俺自身として、この呪いに抗わなければならない。
奇跡の生還と「最後の地図」
水の中で意識が朦朧とする中、源三郎はかすかに、別の声を聞いた。
『…父ちゃん…帰ってきてくれ…!』
それは、まだ幼い息子(翔太の父)の声だった。 その声が、彼の魂を水の中から引き上げた。 「ああ…あああ…!」 彼は、最後の力を振り絞り、水路を這い上がった。 体は冷え切り、手足の感覚はほとんどない。全身に水を吸い込んだ体は、鉛のように重かった。
彼は、水路の入り口まで何とか辿り着いた。 息も絶え絶え、彼は持っていた調査ノートを取り出し、震える手でペンを握った。 水に濡れた地図に、彼は地下水路の危険な箇所と、唯一の脱出経路を書き加えた。それは、彼が命と引き換えに得た、呪いの設計図の「裏側」だった。
■静かな最期と希望の継承
源三郎は、それから数週間、熱にうなされ続けた。廃寺の地下で何があったのか、彼は誰にも話さなかった。 ただ、彼の体からは、常に微かな水の匂いがした。時折、水音が聞こえると言っては、虚ろな目で天井を見つめるようになった。 彼は、呪いに打ち勝ったわけではなかった。呪いの一部に取り憑かれ、ゆっくりと命を削られていったのだ。
しかし、彼の執念は、そこで終わらなかった。 彼は、息子の成長を見届け、そして孫である翔太が生まれた時、彼の瞳に亮介の面影を見出した。 「この子なら…」 彼は、自分の果たせなかった夢を、孫に託すことを決意した。 俺が探し求めた、「愛のために生きる道」を見つけられるかもしれない。 源三郎は、静かに机に向かい、古びたノートに最後のページを書き加えた。
「この町は、呪いの共犯者である。そして、その呪いを打ち破るには、誰かが犠牲になるのではなく、二人で運命を乗り越えるしかない。亮介ができなかった、第三の道を、この子なら見つけられるかもしれない。託す。俺の、そして亮介の執念を」
彼は、そのノートを鍵のかかった引き出しにしまった。 そして、静かに、朝を待った。 窓の外は、雨が降り始めていた。




