第1話 水の棺
水が、首まで満ちていた。
それは単なる冷たさではなかった。骨の髄まで凍らせ、血管を氷の針に変え、意識そのものを結晶化させるような、絶対的な冷たさ。田中亮介の体を支配していたのは、もはや水ではなく、液体の姿をした死そのものだった。皮膚感覚はとうに麻痺し、自らの肉体の輪郭さえ曖昧になっていく。まるで、冷たい水が境界線を溶かし、体内へと侵食してくるようだ。
水位は刻一刻と上がり、顎を越え、唇に触れた。その冷たい口づけは、千の針で刺されるような鋭い痛みを伴っていた。耳の中で水が渦を巻き、鼓膜を執拗に圧迫する。世界のすべての音が、水の中に溶けて歪んでいく。ごぼり、ごぼり、とどこかで泡の弾ける音が、頭蓋の内側で不気味に響いた。
「和子…」
かろうじて動く唇で、愛する少女の名を呼んだ。目の前にいるのは、確かに田辺和子の姿をしていた。見慣れた制服の紺色、肩まで伸びた艶やかな黒髪、切れ長の瞳。だが、それはもう亮介の知る和子ではなかった。
肌は月光を透過させる薄氷のように青白く輝き、人間らしい血の気はどこにもない。瞳は深い湖底のように暗く、そこには何の感情も映っていなかった。ただ、亮介の姿を映しているだけ。まるで、美しい鏡のようだった。濡れた制服が体に張り付き、その輪郭は水と溶け合うように揺らめいている。まるで、水そのものが人の形を借りて立っているかのような、そんな非現実的な美しさ。
彼女は、美しかった。人間とは思えないほど、恐ろしいほどに。それは生命を超越した、死の領域にある美だった。この世のどんな宝石も、どんな芸術も、この瞬間の彼女の前では色褪せてしまうだろう。だが、その美しさは亮介の心臓を氷の矢で貫いた。
「ごめんね、亮介君」
その声は、和子の声ではなかった。何人もの女の声が重なり合ったような、水の中から響いてくるような異質な音。幾重にも反響し、時に老婆のように、時に幼子のように聞こえる、時間を超越した声。その声で、彼女は亮介が最も聞きたくなかった言葉を告げた。
「これが、私の運命なの」
違う。そんなはずはない。俺が君を守ると誓ったじゃないか。どんな呪いだろうと、俺が打ち破ると。この町に伝わる馬鹿げた言い伝え、十八歳の巫女が愛する者を水に捧げるなんて迷信を、俺たちの愛で乗り越えると約束したじゃないか。桜の下で、固く、固く。
亮介は最後の力を振り絞って、彼女に手を伸ばそうとした。しかし、水圧と極度の冷たさで体は鉛のように重い。指先さえ、もう自分の意志では動かせない。筋肉が硬直し、神経伝達が水によって遮断されていくのが分かった。
その瞬間、和子の手が亮介の胸を強く押した。
抵抗できない。彼女の華奢な腕には、人間のものではない、水の奔流のような力が宿っていた。それは愛撫でもあり、処刑でもあった。優しく、しかし有無を言わせぬ絶対的な力で、亮介の体を水底へと導いていく。
ごぼり、と空気を吐き出す。最後の呼吸が、銀色の泡となって水面へ向かって昇っていく。その一粒一粒に、言い残した「愛してる」という言葉が溶けているような気がした。視界が反転し、水が耳と鼻孔に奔流となって流れ込んでくる。肺が焼けるように熱い。いや、それは熱さではない、極度の冷たさが生み出す錯覚だ。苦しい。死ぬ。
いや、違う。これは死ではない。もっと恐ろしい何かへの、変化の始まりだ。
水中で、ゆっくりと目を開けた。逆さまになった和子の顔が見える。その表情のない美しい顔が、水面の揺らめきの中で歪む。まるで、泣いているかのように。いや、それは水の屈折が作り出す幻影か。それとも、これが彼女の心の本当の姿なのか。
なぜ。どうして。裏切られた怒りと、絶望的な悲しみが渦を巻く。俺は、君に殺されるのか。この世で最も愛した女に。
だが、その感情の渦の中心で、不思議と心は凪いでいた。彼女の瞳の奥底に、見えた気がしたのだ。泣いている、本当の和子の姿を。この呪われた運命に囚われ、愛する者をその手にかけなければならない少女の、引き裂かれた魂の慟哭を。
ああ、そうか。君も、苦しいんだな。俺以上に、ずっと。
薄れゆく意識の中、記憶が奔流となって溢れ出した。最初の出会い、書道室での穏やかな時間、喫茶店の湯気、バレンタインのぎこちないチョコレート、冬の海の冷たさと君の温もり、桜の下での告白、そして交わした永遠の約束。走馬灯のように、しかしあまりにも鮮やかに、二人の時間が蘇る。
すべては、あの凍えるように寒い、冬の朝から始まったのだ――。