第2話 パイを巡る死闘 — 軋轢と閃光
――ことの発端は、一切れのアップルパイだった。
焼け焦げた古寺院。
炎と雷が空気を裂き、瓦礫に血が滲んでいた。
地には深いクレーターがいくつも刻まれ、岩盤はヒビ割れ、赤黒い液体がにじみ出していた。
山脈の一部は、ごっそりと抉られたように崩壊している。
古寺院の広場――血と灰に染まる瓦礫の上で、二人の少女が対峙していた。
ニル(16)の唇を伝い、一筋の血がこぼれる。
逆手に構えた短剣が、指先でかすかに震えていた。
金髪のツインテール、あどけなさの残る顔立ち。
だがその蒼い瞳の奥には、冷徹な知性と戦略眼が光っていた。
これまで彼女は、誰に対しても"勝つ未来"しか見えなかった。
――だが、今回ばかりは違う。未来が、読めない。
対するは、漆黒の髪と鋭い眼光を持つビズギット(18)。
腹に斜めに走る裂傷、赤く染まる黒衣。
切れ長の瞳と複数のピアスが、彼女の強気と獰猛さを際立たせる。
そして彼女もまた、初めて通じない相手に、苛立ちを募らせていた。
その原因は、わずか一口の“過ち”だった。
王都郊外、古びた寺院跡。
ニルが朝から焼いた――自家製アップルパイ。
幻のレシピ。百回以上の試作。満月の夜にしか採れない“魔果林のリンゴ”。
それは、彼女にとって祈りにも似た"世界で一番大切な味"だった。
そこへ、偶然通りかかったビズギット。
ニルがハーブティーを取りに立った隙に、一口かじってしまう。
「ンまいじゃねーか、これ!」
……その一言が、すべての始まりだった。
それからわずか数分で、地形は崩壊した。
“二人のチート”による、常識外れの魔力衝突。
互いに初対面。互いに「簡単に勝てる」と思っていた。
だが今、二人は生まれて初めて、自分の力が"通じない"相手に出会ってしまったのだ。
一切れのパイ――いまはもはやどうでもよいことだった。
二人の瞳に映るのは、ただ一つ。「殺らなきゃ、殺られる」
「なんだコイツ……魔力で押しても……通じねぇッ!」
ビズギットは舌打ちを噛み殺す。
炎を放つが、紙一重で避けられ、壁が焦げるだけ。
『腐食の業火』――伝説級の魔物ですら骨ごと溶かす魔炎が。
続けざまの雷撃も、寸前で回避されて地を焼くだけ。
『天雷』――空を裂き、山を砕く雷光が。
(なんで……効かない……!?)
生まれて初めての"疑問"が、胸にこだまする。
焦りを誤魔化すように、怒気を全身にまとった。
ニルの内心もまた、波立っていた。
「はじめてですよ。あなたのような相手……」
声は冷たい。
だがその奥には、理不尽に踏み躙られた大切なものへの怒りがあった。
「では、これでどうです!」
直後、地鳴り。
寺院の一角に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、ビズギットに向けて崩落する。
『地形崩壊術式』。
解析視で構造を瞬時に見抜き、最適な崩壊地点を突いた精密魔術。
「チィッ!!」
間一髪、ビズギットは雷撃をまとい浮遊する。
空気を震わせ、周囲を灼く雷がその身を包む。
その一瞬。
ニルが踏み込む。
『神速斬撃』――空間すら歪む、閃光の踏み込み。
……二メートル。一メートル。
詠唱の隙は、与えない――はずだった。
だが――
「甘ぇよッ!!」
咆哮と同時に、ビズギットが雷を纏って滑り込む。
電撃が地を這い、彼女の身体が弾丸のように前へ突き出る。
ニルは止まれない。
空間の歪みが残る中、膝が突き刺さるように目前に迫る。
バリアの展開――が、僅かに遅れた。
……
ゴッ!!
雷光を纏った膝が、ニルの顔面を捉える。
鼻から鮮血が噴き出した。
衝撃と共に、ニルの小さな身体が地を滑っていく。
「終わったな!」
ビズギットが勝ち誇るように微笑む。
その目に宿るのは、確信――“これで決めた”という光。
だが。
ニルは、崩れた石の上で膝をつき、ゆっくりと顔を上げた。
片手で鼻の血を拭いながら、もう片方の手が、静かに短剣を握り直していた。
「……見事な一撃……ですが……」
ニルの声は落ち着いていた。
だがその蒼い瞳の奥には、怒りの波紋がゆっくりと広がっていた。
「もう……私も……アップルパイも……ぐちゃぐちゃですよ」
ニルの脳内では、すでに反撃パターンが再構築されていた。
呼吸、距離、次の動作。最短ルートを、正確に。
「今度は……私の番です」
ニルは手を開き、軽く指を弾く。
**パチン――**と乾いた音。
ビズギットの背後で、空気がほんのわずかに波打った。
蹴りを喰らう瞬間、ニルは一本の極細の魔糸を、彼女の背中に仕込んでいたのだ。
それがいま、**背を押す“見えない一手”**として作動する。
「うわッ――!?」
一瞬、体勢が崩れた。
その隙に、目の前から短剣が閃く。
ズリッ――!
脇腹を穿つ刃。
そしてそのまま、刀身から魔術が解き放たれる。
『内臓振動』――体内から破壊する、非人道的な震動魔法。
「ぐ、ッ……はッ!!」
ビズギットが呻く。
口から血の泡が漏れ、膝が一瞬ガクッと落ちる。
だが。
「――ッらぁ!!」
叫びとともに、拳を固めて反撃する。
崩れる体勢のまま、右拳に魔力を収束させた。
……
ズゴンッ!!
『超重力打撃』。
拳がニルの頬骨にめり込む。
骨が軋み、口の端から赤い雫が飛ぶ。
ニルの身体が横に弾かれ、地を滑る。
だが、倒れず。すぐに足を踏みしめ、膝をついて構え直す。
――二人の血が、瓦礫に滴った。
「負けねぇぞッ!!」
ビズギットの声が、古寺院の壁に反響する。
その拳に、再び雷が集い始めた。
「……私も……ここでは負けられません……」
ニルもまた、構えを低くする。
顔には血、腕には痣。だが蒼い瞳は濁らない。
ビズギットが詠唱に入る――『終焉の雷』。
一詠みで山を吹き飛ばす、最終破壊術式。
「これで終わらせる!」
空気が軋み始める。
地に走る雷光。放てば、すべてが終わる。
だが――
「させません」
ニルが喉元へ突進。
肩からの鋭い体当たりが、詠唱の言葉を吹き飛ばした。
……
ドゴォン!
瓦礫が弾け、壁が砕ける。
二人の身体がもつれ合い、地に倒れる。
魔術師ではない。今、彼女たちはただの獣だった。
肘、拳、膝、頭突き。
骨と骨がぶつかる音。拳が腹に、頭が顎に、容赦なく打ち込まれる。
「ハアッ! ハアッ!!……やっと身体があったまって来たな!」
ビズギットの唇に、血まみれの笑みが浮かぶ。
その瞳には、怒りと愉悦が入り混じっていた。
「……はあ、はあ……まだ……まだ……これからです」
ニルの瞳は、冷静に、次の攻撃パターンを読み切ろうとしていた。
しかし、そこにもわずかに“熱”が灯り始めていた。
意地と意志の応酬。
怒りに似て、だがそれ以上に鮮烈なもの。
──興奮。
──“対等”という奇跡。
この戦いに、彼女たちは、奇妙な高揚すら覚えていた。
──だが、そのとき。
空気が変わった。
異様な重圧が、ゆっくりと、しかし確実に迫って来る。
──それは、明確な“死”の感触。
「……来ているぞ……っ!!」
寺院の脇に逃げ込んできた王都の英雄や近衛たちが、絶叫する。
ニルは短剣を止め、ビズギットも振り返る。
崖の霧がざわめき、その向こうに巨大な“何か”の影。
「グ、グレイデス……!!」
どこかで、兵士の悲鳴が響く。
空気が、凍る。
ただ近づいてくるだけで、命が削れていくような圧。
ニルは短剣を納め、ビズギットは赤い唾を吐き捨てた。
「チッ……じゃまが入ったなッ!! 次、絶対潰す!!」
「……ええ……その時まで……覚えておきます……」
ボロボロの二人は、魔力を再構築し、視線を交差させた。
その瞬間。
寺院の崩れかけた壁が、二人の背後で大音響とともに崩れ落ちた。
だが彼女たちは、振り返らない。
舞い上がる土埃の中――迫る巨影を見据えていた。
──闇を踏みしめ、進む巨神。
世界を揺るがす死闘が、今、まさに幕を開ける。




