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第3話 龍眼を喰らう者 — 悪魔の契約

──霧深き山脈の奥。

死の谷へと通じる、無数の屍を呑み込んできた巨大な洞窟。


その最奥で、二つの蒼光が、暗闇を突き破るように浮かんでいた。


古龍――【ヴェル=ザルゴス】。

幾千年を生き、蒼炎(そうえん)を纏い、世界の理を守護する者。

大地の誕生から幾度の文明の滅びを見届け、それでもなお沈黙のうちに在り続ける“知の番人”。


今、その蒼き眼は、数百年ぶりの侵入者を無言で見据えていた。

瞳の奥に揺らめく光は、すべての魂を縛り喰らう力――

魂蝕(こんしょく)(ちぎり)に不可欠な「真なる龍眼」であった。



沈黙を破ったのは、大地を踏みしめる一音。

巨躯の怪物、グレイデス。肩に担いだ巨鎚<バラ=サグ>は、空気そのものを軋ませていた。


「…………」


言葉はない。だが次の瞬間、古龍の蒼炎が奔った。

大気が灼熱に焼けただれ、洞窟そのものを溶かし尽くす烈火。

理を超えた炎――それは、龍が数千年で練り上げた究極の吐息だった。


だが。


「……通じぬ」


冷ややかな一言とともに、炎は黒鉄の肌に吸い込まれ、熱すら残さず霧散した。

巨鎚を振り抜く。轟音とともに、炎の奔流が砕け散り、光の破片となって四散した。

「理」を象徴する龍の炎を、“力”で否定したのだ。


ヴェル=ザルゴスが咆哮する。

稲妻が奔り、天井が崩落する。氷嵐が巻き起こり、大地そのものが凍りつく。

世界の摂理を操る龍の一撃。


グレイデスは退かない。

巨鎚を地に叩きつける。大地が裂け、崩落は逆に槍の雨となって龍を穿つ。

衝撃波が氷嵐を砕き、粉雪となって視界を白く染める。

戦場が揺れ、洞窟は崩れ落ちる。


しかし。


「我が悲願のため――悪いが、その眼は貰う」


巨躯は止まらない。

一歩、また一歩。迷いも恐れもなく、ただ蒼眼へ向けて歩を進める。


ヴェル=ザルゴスは唸る。

その眼に宿るのは侮蔑ではなく理解。


――この者は神でも悪魔でもない。

死をも厭わぬ、絶対の意志を抱いた者。

狂気にも似た「愛」と「悲願」が、その肉体を異質へと変貌させていることを、知の古龍は見抜いていた。


「──我が瞳に触れること、誰にも許さぬ!」


蒼炎を刃と化し、山をも砕くと謳われた爪撃が襲い掛かる。

だが――砕け散ったのは龍の爪の方だった。


巨鎚が唸りを上げ、空間ごと斬り裂くように振り下ろされた。

その衝撃は、知の古龍の硬質な皮膚を貫通し、大地が大きく砕け、竜の巨体が激しく揺れる。


「グオオオオオオ!!」


それでも、ヴェル=ザルゴスは食い下がった。

逆の爪を交差させ、生命の最後の輝きを宿した魔法陣を紡ぎ、雷鳴と氷結を混ぜた、全てを凍てつかせるような最後のブレスを吐き出す。

しかし、その必死の抵抗も、グレイデスの圧倒的な速度と堅牢さには、間に合わなかった。


「終わりだ」


グレイデスは瞬間、竜の懐へと間合いを詰めていた。

その巨躯からは、一切の躊躇が感じられない。

一閃。竜頭を打ち砕く鎚の一撃。


──潰れた。


「ギィアアアアアアアア!!」


断末魔が洞窟を揺るがせ、ヴェル=ザルゴスの巨体が大地に崩れ落ちる。

その蒼き知の輝きは、急速に失われていった。


そしてその上で、グレイデスは静かに両目をえぐり取った。

蒼く輝く宝玉。世界の理の一端を宿す、龍の双眼。


彼はそれを一瞥し、腰の封呪の箱に収める。


「……まずは、世界律の鍵を奪う」


静かに、そして確固たる決意を込めて呟いた。



その瞬間──

空間が微かに軋んだ。空気が、見えない糸で引き裂かれるように。


「……フフフ……見事だよ、我が契約者」


音ではない。言葉でもない。

それは、グレイデスの意識の奥深くに直接響く、背筋を凍らせるような囁き。


悪魔【ナグ=ソリダ】の声だった。


その姿はない。現界との結界が、いまだ奴の完全な出現を許していないのだ。


グレイデスは平然と答えた。


「……目玉は手に入れた」


「ならば……早急に寄越して貰いたいものだ。私の儀式の準備も整っている」


悪魔の声が、期待に満ちたように響く。


「……まだ渡さぬ」


グレイデスの声は静かだが、鋼のように冷たい。


「【世界律の鍵】を奪い、妻を現界へ戻してからだ。その時まで、目玉は私が保管する」


悪魔の声が、わずかに熱を帯びる。苛立ちか、それとも愉悦か。


「……ほう。そなた、我を疑うか」


「貴様が何を目論もうと、私の道は揺るがぬ。優先すべきはただ一つ――妻の蘇生だ」


その意志は岩のように揺るぎなかった。狂おしいほどの愛が、グレイデスを突き動かす唯一の理由だった。


「……フフフ……実に、面白い。ならば、我は“静かに”成り行きを見守ろう……」


悪魔の声は、再び心地よい囁きへと変わった。しかし、その奥底には、冷酷な嘲笑が隠されていた。


(……その目玉を持つ腕すら、おまえのものではなくなる……)


グレイデスは背を向け、洞窟を後にする。足元には、朽ち始めた古龍の亡骸が転がっていた。



その背が闇に消えた頃。


遠く離れた悪魔【ナグ=ソリダ】が潜む場所──

死都の地下に埋もれた、忘却の聖堂。


崩れ落ちた柱と砕けた祭器が散乱し、かつて祈りを捧げるために築かれたはずの空間は、いまや異界と地上をつなぐ裂け目と化していた。


天井の高さは果てしなく、黒き石壁は血のような赤で滲みを浮かべている。

そこに満ちるのは、色彩の概念を狂わせる光。

上下も東西も判別できぬ、常識を拒む異常空間。


聖堂の中央、宙に浮かぶ漆黒の岩盤を、無数の封呪鎖が螺旋を描いて締め上げていた。

その鎖は重力を裏切るように逆さへ滴り、黒い液体を天井に吸い上げていく。


並び立つ残骸の柱には、古の祈りの文句が刻まれていた。

だがそれらは静かに震え、呻き声のような残響を発していた。


床にあたる岩盤は鏡のように滑らかで、影を映すたび、姿が骸骨や血濡れの獣へと歪んで変わる。

空気は湿り、腐臭と鉄錆(てつさび)が混じり合い、肺を満たすたびに体温が削がれていく。


その岩盤こそが、悪魔の儀式を執り行う**《虚の祭壇》**。

祭壇全体に刻まれた魔術陣の中心には、人型の黒い封呪線が引かれ、その胸元の位置で──蒼き魔光が、心臓のように、脈打っていた。


それは、グレイデスの胸に刻まれた契約の『楔』と、呼応して震動している。


魂蝕(こんしょく)の契の儀式』──それは、異界の悪魔を現界へと堕とすための禁忌の秘儀。

発動に必要とされる供物は二つ。

ひとつは、知の古龍が宿していた叡智(えいち)の結晶、「龍の蒼き両眼」。

そしてもうひとつは、契約の楔を宿す器──「グレイデス自身」。


この二つを、この《虚の祭壇》に完全に揃えねばならない。


人型の封呪線の中へ、悪魔の術によってグレイデスの巨躯が引きずり込み、漆黒の鎖で、彼の四肢を縫い止める。


そして──蒼炎を宿す龍の双眼を胸に押し込むと、龍眼の魔力が彼の体内に吸収されていく。


その瞬間、悪魔ナグ=ソリダの魂が、契約の楔を通じてグレイデスの肉体に流れ込み、完全にその体を乗っ取ることが可能となる。


「龍眼に刻んだ“楔”。それがそなたの胸の契約紋へ吸収された瞬間──すべては発動する。魂ごと、我が手中に堕ちるのだよ……愚かなる哀しき戦士よ」


悪魔の嗤いが聖堂に残響し、深淵の闇へと溶けていった。



そしていまもなお、グレイデスは知らない。

自らが“主導権を握っている”と信じているその確信こそが、悪魔ナグ=ソリダにとって最も都合の良い「器」であることを。

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