第2話 混乱の湖 ―三大将軍の来訪―
深い森が途切れ、眼前に広がったのは切り立つ崖と、蒼く沈む巨大な湖。
――<蒼鏡湖>。
湖面は群青の深みを湛え、覗き込めば、底なしの闇へと吸い込まれるようだった。
吐息に触れる冷気は、ただそこに立つだけで肺を凍りつかせる。
「……あれが蒼鏡湖。ここが最後の防衛線です」
ニルは迷いなく魔道具と石板を取り出し、その瞳を戦場に切り替える。
三人は周囲を歩きながら、地形を下見していった。
「この崖……崩せば、街道に土砂が流れる。少しでも足止めになるかもしれません」
岩肌に触れるニルの声は冷静だった。
「へぇ、それいいじゃん」
ビズギットは足で大地を踏み鳴らし、ひび割れを示す。
「こっちも怪しい。揺らせば足場ごと崩れる。踏み込んだ瞬間に狙えば――態勢を崩せるかもな」
その瞳には既に戦いの光が宿っている。
「オレも見つけたぞ!」
バッドレイは湖の縁に立ち、林の大木を指差した。
「太ぇ幹だ。あれを奴の上に倒せば……デカい武器になるな」
ニルは頷き、声を低くした。
「ええ。馬車の荷が届く前に準備を進めましょう。丸石と鎖、それに獣皮の帯……ゼギンアスに頼んだ品です」
「はやっ……もう準備すんのか?」
バッドレイは肩をすくめた。
「時間がありません。グレイデスは必ず来ます」
「……まあ、やるけどな」
言葉とは裏腹に、大剣を肩へ担ぐ姿は戦を待つ者のそれだった。
ビズギットは崖際にしゃがみ、地面を叩く。
「崩せる場所は何箇所もある。導線を刻んでおけば、威力が増すな」
雷の刻印を描きながら、好戦的に口角を上げた。
一方のニルは林の中の二本の大木を選び出し、バッドレイを呼んだ。
「あなたは、この二本以外をすべて伐り倒して」
「どういうつもりだ?」
「ここに投射機を作ります。幹を支柱に、獣皮を張り――石玉を撃ち込む」
「……パチンコ、か?」
「仕組みは単純です。ただし獣皮がどこまで耐えるかは未知数ですが」
「面白ぇじゃねえか!」
バッドレイは大剣を振り上げ、木々を豪快になぎ倒し始めた。
「……派手になりそうだな」
ビズギットは雷の刻印を描きながら、不敵に笑った。
――その時だった。
湖面がざわめき、風向きが変わった。
静まり返っていた蒼鏡湖が、低く呻くような音を放つ。
「……なにか来る」
ニルの声は乾ききっていた。
湖を覆う霧が揺れ、渦を巻いた。
湖面の霧そのものが脈打ち、生き物のようにうねりながら、三人の方へと押し寄せてくる。
「チッ……嫌な感じだ」
ビズギットは舌打ちし、雷の刻印を強く押し込んだ。
次の瞬間、北の林、霧を裂いて現れたのは――三つの影。
それはただの人影ではない。
胸が圧迫され、膝が自然に沈み込む。
息を吸うだけで喉の奥が裂かれるような痛みが走り、視界がかすむ。
「……なんだ、あれ」
バッドレイの笑みが――初めて、消えていた。
彼の身体が、本能的な危機感を訴えている。
やがて霧を裂き、ゆっくりと姿を現す――伝説の三大将軍。
――《深黒の呪巫婆》シザーラ=クロウ。
――《血翼の吸剣将》ドキュラ=グリモワール。
――《鉄喰の魔剛鬼》グルザード=ゼウス。
そのプレッシャーは、ただの質量の恐怖ではない。
心の奥に直接“死”を注ぎ込まれる感覚だった。
「ヒヒヒヒ、死んだ子供の声は、……聞こえるか~い?」
骨の長杖を手に、肩に黒い大カラスを乗せる老女。
《深黒の呪巫婆》シザーラ=クロウが、粘着質な笑いを滲ませる。
「いたいた、血袋が三つも歩いているとはな……。どの袋から裂いてやろうか」
紅蓮のマントを翻し、手には長剣。ドラキュラのような牙をのぞかせる剣士。
《血翼の吸剣将》ドキュラ=グリモワール。背後で無数のコウモリがざわめいた。
その隣――大地を軋ませる異音が響いた。
鎧か鉄塊か、それすら判別できない漆黒の巨躯。
《鉄喰の魔剛鬼》グルザード=ゼウスが、巨大な戦斧を片手で引きずり、土砂を抉りながら迫ってくる。
「グルザ、お前ら壊す……!!」
唸り声と共に放たれた一撃は、もはや戦闘の合図など不要とばかりに振り下ろされる。
――ドゴンッ!!
轟音とともに大地が裂け、爆ぜる破片と衝撃が周囲を吹き飛ばした。
三人は咄嗟に跳び退き、辛うじて直撃を避ける。
「なっ……!?」
バッドレイが反射的に距離を取った。
その表情は、先ほどの呑気さとはかけ離れた、初めて見るほどの真剣なものだった。
「どうする、逃げるか?」
そう言いつつも、既に大剣を構えている。
「バカ言ってんじゃねーよ! 殺すぞッ!!」
ビズギットの瞳が、獲物を睨む猛獣のように燃え上がる。その声に、冗談の欠片はなかった。
ニルもまた冷静さを崩さぬまま、ただ一言。
「――体勢を整えて、混乱したら負けます」
三人は互いに距離を取り、武器を構えた。
敵の正体も、目的も、まだ掴みきってはいない。だが――
ただ一つ、確信できることがあった。
目の前の三つの影は、今この場で、間違いなく――彼らを殺しに来ていた。
◇
そして――この戦いが、誰にとっても生き残れる保証のない、本物の“戦場”であることを、三人はようやく理解し始めていた。




