第1話 蒼鏡湖への道程 — 秘められし傷痕
王都の北――。
山脈と深い森に抱かれた秘境に、蒼鏡湖と呼ばれる湖がある。
湖面は青き鏡のごとく静まり返り、風も音も、まるで飲み込まれたかのように消えていた。
古来よりこう囁かれる――「ここは、死者の影を映す湖」だと。
その場所を、ニルは決戦の場に選んだ。
地形は読みやすく、罠を仕掛けるにも最適。
そして何より、湖の南端には王都へと続く唯一の街道がある。
グレイデスの進軍を止めるなら、ここしかない――
それが彼女の冷徹な結論だった。
◇
「……つーか、結構歩くな、これ」
バッドレイが伸びをしながら言った。
疲労の色を見せないのは、昨日グレイデスに一切手出しせず、たっぷり腹を満たしたからだろう。
森の獣道を、三人は微妙な距離を保って歩く。――けっして横に並んではいない。
王都からの依頼をあっさり引き受けたものの、それぞれが心のどこかで、未だに事態の切迫感をどこか他人事のように捉えていた。
「はあ? 昨日ほとんど何もしてないくせに、よくダルそうに言えんな」
ビズギットが肩をすくめた。
腹の裂傷がまだ疼くが、彼女はそれを言い訳にしなかった。
苛立ちを隠せない口調だが、その瞳はどこか遠くを見つめている。
ニルはコンパスの針を確かめ、指先で軽く弾いた。
磁気の揺れが収まると、ようやく口を開いた。
「あなた……少しは体力をつけたらどうですか」
ニルが冷ややかに告げる。そしてまた、蒼い瞳はコンパスへ。
昨夜の喧嘩の熱は引いたものの、互いへの不満は根深い。
しかし、それでも互いの存在が、以前よりもわずかに、だが確かに、自然に馴染み始めていた。
◇
しばしの沈黙ののち、バッドレイがふと思い出したように口を開いた。
「……そういや、俺たち、まだ名乗ってなかったよな」
二人の視線が彼に向く。
その言葉は不思議と自然に、張りつめた空気を和らげていった。
「……そうですね」ニルが小さく頷く。
「私は、ニル。ニル=エインハルト」
「俺は、バッドレイ。苗字とかは……ま、いっか」
「ビズギット。……ビズギット=ロア」
ほんのわずか間を置いて、彼女も名を告げた。
短い自己紹介のあと、再び沈黙が落ちる。
だがその沈黙は、さっきまでの刺々しさとは違っていた。
――ほんの少しだけ、柔らかいものを含んでいた。
バッドレイが軽く笑って、空気を変える。
「せっかくだし、ちょっとくらい話そうぜ。
今さらだけど、お前らのこと、マジでよく知らねーし」
ビズギットが肩をすくめた。
「勝手に話したきゃ話せば? 付き合ってやるよ」
先頭を歩いていたニルも、わずかに歩調を緩めて振り返る。
湖が近いのか、ひんやりとした風が木々の間を抜け、草木を小さく震わせた。
「……去年、村の人に頼まれて、古い寺院を根城にしていた盗賊団を退治しました」
淡々と告げる声は、波立たぬ湖面のように静かだった。
「そこの静けさが気に入って、それ以来、そこで暮らしています」
幼いころ、彼女はただ――一緒に笑い合える“友達”が欲しかった。
孤独は嫌いで、誰かの輪に混ざりたかった。
だが鬼ごっこの最中に隠れ場所を当ててしまうように――何もかも“見えてしまう”。
その力は、無邪気な遊びをいつも残酷な試練に変えてしまった。
『ニルといると、全部見透かされてるみたいで怖い』
その囁きはやがて広がり、笑い声は冷たい視線へと変わっていった。
孤独を嫌っていたはずなのに、望んでいない孤独こそが、彼女に残された唯一の居場所になってしまった。
「……へぇー」
裏の意味を知らぬまま、バッドレイが軽い相槌を打ち、小枝で地面に線を引く。
「昼はパイを焼いて、ハーブティーを淹れて、午後は読書……それが私の日課です」
ニルの瞳は、孤独を映す湖面のように澄み切っていた。だが、その視線はどこか遠い場所を見つめている。
「パイ好きか!?」
バッドレイが目を輝かせて身を乗り出す。その声に、ビズギットが鼻で笑った。
「……話の要点はそこではありません」
呆れ声をもらすニル。だが、バッドレイは子供のように笑い返した。
「まあ、悪くない暮らしじゃん」
ビズギットがふと口を開いた。
「アタシは孤児院育ち。十五で出て、それからはずっと一人。……周りと違って、ちょっとだけ“力”があったから」
彼女は幼いころから、人より強すぎる力を理由に、“化け物”と呼ばれた。
恐怖の目にさらされ続け、孤独を“慣れ”で飲み込むしかなかった。
「……結局、誰もアタシの横には残らねぇーし。だったら最初から信じない方が楽だろ?」
吐き捨てるような言葉――だが、その冷え切った調子は、まるで自分が傷つかないための壁を積み上げるようだった。
彼女は草を蹴散らし、視線を逸らさず前だけを見て歩いた。
「……おれは」
バッドレイが軽口めかして切り出す。だが、言葉はすぐに重さを帯びた。
「ガキの頃、家族と馬車に乗っててさ。悪い奴らに襲われた。……気づいたら、悪い奴らも、山も、親も、全部なくなってた」
小枝がぱきりと折れる音が、森の静けさに溶けた。
「何が起きたか、よく覚えてねー。けど……俺が吹き飛ばしたらしい」
記憶の底から、光と轟音、絶叫だけが繰り返し這い上がる。
じいちゃんは言った――「お前は絶対に怒るな」と。
怒りが再び、あの日の『すべてを無にしてしまう』悲劇を呼び戻すのではないかと。
「……で、じっちゃんに育てられて。去年、そのじっちゃんも死んじまった。だから王都に来たんだ。――なんか面白いこと、あるかなって」
彼は肩をすくめて笑った。その笑みの下に隠れた影を、二人は感じ取る。
「……なんだ、結構重いじゃん」
ビズギットが悲しげに呟く。バッドレイは頭をかき、軽くごまかした。
「まあ、今は気にしてねーけどな」
その言葉は、無理に飲み込んだ苦さを隠すようだった。
けれど――ニルの青い瞳は、ほんの少しだけ、人間らしい温度を帯びていた。
◇
――ニル。見透かす力ゆえに、友を失った少女。
――ビズギット。力が強すぎて、孤独に慣れるしかなかった少女。
――バッドレイ。怒り一つで、すべてを吹き飛ばした少年。
互いに孤独を背負った三人は、なお深い霧の中を歩いていた。
その向こうに射す光が、希望か、それとも新たな影を伴うのか――答えを知る者は、まだいない。
……蒼鏡湖は、青き鏡のまま沈黙していた。
やがてそこに映るのは――
彼らの決戦か。
それとも、死者の影か。
――そして蒼鏡湖は、彼ら三人に“最初の絶望”を映し出すことになる。




