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第1話 蒼鏡湖への道程 — 秘められし傷痕

王都の北――。


山脈と深い森に抱かれた秘境に、蒼鏡湖(そうきょうこ)と呼ばれる湖がある。

湖面は青き鏡のごとく静まり返り、風も音も、まるで飲み込まれたかのように消えていた。

古来よりこう囁かれる――「ここは、死者の影を映す湖」だと。


その場所を、ニルは決戦の場に選んだ。

地形は読みやすく、罠を仕掛けるにも最適。

そして何より、湖の南端には王都へと続く唯一の街道がある。

グレイデスの進軍を止めるなら、ここしかない――

それが彼女の冷徹な結論だった。



「……つーか、結構歩くな、これ」


バッドレイが伸びをしながら言った。

疲労の色を見せないのは、昨日グレイデスに一切手出しせず、たっぷり腹を満たしたからだろう。

森の獣道を、三人は微妙な距離を保って歩く。――けっして横に並んではいない。


王都からの依頼をあっさり引き受けたものの、それぞれが心のどこかで、未だに事態の切迫感をどこか他人事のように捉えていた。


「はあ? 昨日ほとんど何もしてないくせに、よくダルそうに言えんな」


ビズギットが肩をすくめた。

腹の裂傷がまだ疼くが、彼女はそれを言い訳にしなかった。

苛立ちを隠せない口調だが、その瞳はどこか遠くを見つめている。


ニルはコンパスの針を確かめ、指先で軽く弾いた。

磁気の揺れが収まると、ようやく口を開いた。


「あなた……少しは体力をつけたらどうですか」


ニルが冷ややかに告げる。そしてまた、蒼い瞳はコンパスへ。


昨夜の喧嘩の熱は引いたものの、互いへの不満は根深い。

しかし、それでも互いの存在が、以前よりもわずかに、だが確かに、自然に馴染み始めていた。



しばしの沈黙ののち、バッドレイがふと思い出したように口を開いた。


「……そういや、俺たち、まだ名乗ってなかったよな」


二人の視線が彼に向く。

その言葉は不思議と自然に、張りつめた空気を和らげていった。


「……そうですね」ニルが小さく頷く。


「私は、ニル。ニル=エインハルト」


「俺は、バッドレイ。苗字とかは……ま、いっか」


「ビズギット。……ビズギット=ロア」

ほんのわずか間を置いて、彼女も名を告げた。


短い自己紹介のあと、再び沈黙が落ちる。

だがその沈黙は、さっきまでの刺々しさとは違っていた。

――ほんの少しだけ、柔らかいものを含んでいた。


バッドレイが軽く笑って、空気を変える。


「せっかくだし、ちょっとくらい話そうぜ。

 今さらだけど、お前らのこと、マジでよく知らねーし」


ビズギットが肩をすくめた。

「勝手に話したきゃ話せば?  付き合ってやるよ」


先頭を歩いていたニルも、わずかに歩調を緩めて振り返る。

湖が近いのか、ひんやりとした風が木々の間を抜け、草木を小さく震わせた。


「……去年、村の人に頼まれて、古い寺院を根城にしていた盗賊団を退治しました」

淡々と告げる声は、波立たぬ湖面のように静かだった。

「そこの静けさが気に入って、それ以来、そこで暮らしています」


幼いころ、彼女はただ――一緒に笑い合える“友達”が欲しかった。

孤独は嫌いで、誰かの輪に混ざりたかった。

だが鬼ごっこの最中に隠れ場所を当ててしまうように――何もかも“見えてしまう”。

その力は、無邪気な遊びをいつも残酷な試練に変えてしまった。


『ニルといると、全部見透かされてるみたいで怖い』


その囁きはやがて広がり、笑い声は冷たい視線へと変わっていった。

孤独を嫌っていたはずなのに、望んでいない孤独こそが、彼女に残された唯一の居場所になってしまった。


「……へぇー」

裏の意味を知らぬまま、バッドレイが軽い相槌を打ち、小枝で地面に線を引く。


「昼はパイを焼いて、ハーブティーを淹れて、午後は読書……それが私の日課です」


ニルの瞳は、孤独を映す湖面のように澄み切っていた。だが、その視線はどこか遠い場所を見つめている。


「パイ好きか!?」

バッドレイが目を輝かせて身を乗り出す。その声に、ビズギットが鼻で笑った。


「……話の要点はそこではありません」

呆れ声をもらすニル。だが、バッドレイは子供のように笑い返した。


「まあ、悪くない暮らしじゃん」

ビズギットがふと口を開いた。


「アタシは孤児院育ち。十五で出て、それからはずっと一人。……周りと違って、ちょっとだけ“力”があったから」


彼女は幼いころから、人より強すぎる力を理由に、“化け物”と呼ばれた。

恐怖の目にさらされ続け、孤独を“慣れ”で飲み込むしかなかった。


「……結局、誰もアタシの横には残らねぇーし。だったら最初から信じない方が楽だろ?」


吐き捨てるような言葉――だが、その冷え切った調子は、まるで自分が傷つかないための壁を積み上げるようだった。

彼女は草を蹴散らし、視線を逸らさず前だけを見て歩いた。


「……おれは」

バッドレイが軽口めかして切り出す。だが、言葉はすぐに重さを帯びた。


「ガキの頃、家族と馬車に乗っててさ。悪い奴らに襲われた。……気づいたら、悪い奴らも、山も、親も、全部なくなってた」


小枝がぱきりと折れる音が、森の静けさに溶けた。


「何が起きたか、よく覚えてねー。けど……俺が吹き飛ばしたらしい」


記憶の底から、光と轟音、絶叫だけが繰り返し這い上がる。

じいちゃんは言った――「お前は絶対に怒るな」と。

怒りが再び、あの日の『すべてを無にしてしまう』悲劇を呼び戻すのではないかと。


「……で、じっちゃんに育てられて。去年、そのじっちゃんも死んじまった。だから王都に来たんだ。――なんか面白いこと、あるかなって」


彼は肩をすくめて笑った。その笑みの下に隠れた影を、二人は感じ取る。


「……なんだ、結構重いじゃん」

ビズギットが悲しげに呟く。バッドレイは頭をかき、軽くごまかした。


「まあ、今は気にしてねーけどな」

その言葉は、無理に飲み込んだ苦さを隠すようだった。


けれど――ニルの青い瞳は、ほんの少しだけ、人間らしい温度を帯びていた。



――ニル。見透かす力ゆえに、友を失った少女。

――ビズギット。力が強すぎて、孤独に慣れるしかなかった少女。

――バッドレイ。怒り一つで、すべてを吹き飛ばした少年。


互いに孤独を背負った三人は、なお深い霧の中を歩いていた。

その向こうに射す光が、希望か、それとも新たな影を伴うのか――答えを知る者は、まだいない。


……蒼鏡湖は、青き鏡のまま沈黙していた。


やがてそこに映るのは――


彼らの決戦か。


それとも、死者の影か。


――そして蒼鏡湖は、彼ら三人に“最初の絶望”を映し出すことになる。

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