妖精とピチカート
ピチカートとは、弦を指ではじいて音をだす、バイオリンやチェロなど弦楽器の奏法です。
むかしむかし、都に、とても腕の良いバイオリン職人がおりました。彼の作るバイオリンはとても素晴らしい音色を奏でるので、遠くの街からも音楽家や、子どもにバイオリンを習わせたいお金持ちが買いに来るのです。
バイオリン職人は、弟子達や楽器を買いに来たお客様によくこう言っていました。
「私は、何も特別なやり方でバイオリンを作っているわけではない。ただ、私の心の中にいる音楽好きな妖精が、早くバイオリンを作ってくれ、バイオリンを弾いてくれといつも急かすのだ。そして、出来栄えがよくないと、悲しそうな顔になる。それを見ると私も悲しい気分になるので、どんな楽器でも心をこめて、丁寧に作るのだ」
ある時、彼は今までで一番素晴らしいバイオリンを完成させました。馬の毛を張った弓で、羊のはらわたからできた上等の弦を弾くと、川のようになめらかで、光のように輝かしい音がします。その夜、職人と弟子は一晩中そのバイオリンでソナタやらシャコンヌやらを弾いて楽しみました。
あまりにも見事な音がするので、バイオリン職人の心の中にいる妖精が飛び出してきて、バイオリンの中にもぐりこみました。それに職人は気づかず、思いつくままにいろんな曲を弾き続け、楽器との別れを惜しみました。
妖精は、職人の弾く音楽をうっとりと聴きながら、バイオリンの中で眠ってしまいました。朝になると、注文したお客に届けるために、バイオリンはケースに収められ、鍵をかけられました。
その時もちろん、妖精もその中に閉じ込められてしまったのです。妖精はあわてて飛び出そうとしたが、バイオリンのケースを中から開けることはできませんでした。妖精を入れたまま、バイオリンのケースは無事にお客に届けられてしまいました。
この素晴らしいバイオリンを買った幸運な客は、音楽が好きな貴族でした。彼は、自分が応援している音楽家に、このバイオリンを弾いてもらおうと思っていました。それで、自邸でバイオリンをケースからせっかく取り出したのに、自分自身で弾くこともなく、音楽家を呼びに出かけていったのです。
新しいバイオリンの持ち主が出かけている間に、彼の小さな娘がこっそり父親の書斎に忍び込み、机の上に置いてあったバイオリンを見ました。娘は、おもむろにバイオリンの指板をつかみ、小さな指で弦をぼんぼんとはじき始めました。
その音に驚いて、妖精はバイオリンの中から飛び出しました。そしてバイオリンを見下ろすと、娘の奏でる乱暴なピチカートが次々と飛び出してきて、妖精の周りに集まります。ピチカート達は不格好な形をしており、じろりと妖精を見て、いい加減な音で鳴きました。
妖精は、沢山のピチカートから逃げるために、部屋中を飛び回ります。ピチカートも妖精を追いかけました。部屋をぐるぐると回って、とうとう妖精達は窓から外へ飛び出しました。
その時妖精の目の前に広がっていたのは、今まで全く知らなかった世界でした。ずっとバイオリン職人の心の中で、バイオリンの音色を聞きながら遊んで暮らしていた妖精は、こんなに沢山の人間がこの世にいることを知りませんでした。聞いたこともない音が、そこら中にあふれていました。妖精は尖った屋根の形に怯え、馬車が駆ける音に怯え、妖精を見てうなり声をあげながら追いかけてくる犬に怯えました。嫌な匂いと食べ物の匂いが混ざり合って、妖精の可愛い鼻はすぐにきかなくなりました。そして、いろんな音から逃げるうちに、妖精は自分がどこから来たのだか、さっぱり分からなくなってしまったのです。
しばらくの間、妖精はバイオリン職人を探して、都を飛び回りました。やがて疲れてしまい、地面に降りて座り込んでしまいました。もう季節は冬です。E線のように鋭い寒さが、妖精を襲いました。都を吹き抜ける風の音が、G線のように妖精の羽に響きます。
妖精が震えていると、小さなピチカートが沢山集まってきて、妖精を温めてくれました。
「思ったより、優しい奴らなんだ」
妖精は、最初はピチカートから逃げ出したことを忘れて、不格好な音達を抱きしめました。
都には、他の妖精も大勢いるのです。
「おやおや、新顔だな」
帽子をかぶった、ちょっと怖い顔つきの妖精が、バイオリン職人の妖精に気がついて降りてきました。
「お前は、どこからやってきたんだ?」
「分からない」
「では、私の家においで。何かおいしいものを食べさせてあげよう」
親切な妖精に手を引かれ、妖精はふたたび飛び上がりました。ピチカートも、ついてきます。
出会った妖精は、裕福な商人の屋敷に住んでいました。そこで沢山のご馳走を食べさせてもらったバイオリン職人の妖精は、そのまま屋敷に住み着いて、掃除やら皿洗いやらをして一生懸命働きました。ピチカート達も、そのお手伝いをしてくれるのです。
けれど、その屋敷には、音楽がありませんでした。何年も経って、バイオリンを聴きたくてたまらなくなった妖精は、ある日屋敷の妖精に黙って、こっそり屋敷を抜け出しました。もちろんピチカートも一緒です。
頼りなげに妖精がふわふわと都を飛び、その後を一列になったピチカートが追いかけます。とても奇妙な光景でしたが、気がついた人間はいませんでした。飛びながら妖精は、あのバイオリンを探しました。けれども、妖精が知らない間に、あのバイオリンをもらった音楽家は遠い外国へ演奏に出かけてしまったのです。だから、妖精がいくら都でバイオリンを探しても、見つかるはずがありませんでした。
あてもなくさまよううちに、妖精は、暗くじめじめした路地裏に迷い込んでしまいました。そこではフィドルをがちゃがちゃかき鳴らす音や、下品な口笛の音が、大きな建物の中から聞こえてきます。そこにも、妖精が探すあの美しい音色はないようでした。
がっかりする妖精を、ピチカート達が慰めます。ぼんぼんと不揃いな彼らの音を聞きながら、妖精は果てしない地面を歩きました。不思議なことに、疲れて足が重くても、彼らの音を聞くと、足が自然に動き出すのです。
「お前達は、励ましてくれているんだね」
妖精がピチカート達を嫌っていたのは、とうに昔のことです。今は、ピチカート達だけが妖精の親友でした。
路地裏には、何人もの人間がうずくまっています。ぼんやりしている彼らの前を通ると、強い酒の臭いが妖精を襲いました。妖精は鼻をつまみながら、そそくさと通り抜けます。
けれどその時、いつも妖精にただついてくるばかりだったピチカートが、騒ぎながら飛びはねました。妖精がいぶかしく思って彼らを見守っていると、ピチカート達は座り込んでいる一人の人間に側に集まって、しきりとぴょんぴょん跳んで、妖精を呼ぶのです。
妖精は、その人間に近づきました。そして、うつむいている彼の顔をのぞきこんで、驚きます。
お酒を飲んでだらしなく道端に座っていたのは、妖精の愛するバイオリン職人だったのです。あの時よりもずっと老け込んで、みすぼらしい格好をしてはいましたが。
妖精は大喜びして、バイオリン職人の肩に乗りました。そして、あれこれと話しかけます。けれど、彼は妖精にちっとも気がつかず、ぶつぶつと何事か呟いたり、時折持っていた安いお酒の瓶の中身を飲んだりして、いつまでもぼうっとしていました。
彼がこんな風になってしまったのには、訳があります。あの素晴らしいバイオリンと共に妖精が職人の元を離れてから、彼はバイオリンを作る気力をすっかり失ってしまったのです。彼を突き動かしていた、素晴らしいバイオリンを作り上げることへの強い情熱が、妖精と共に逃げてしまったかのようでした。バイオリンを作らなくなった職人からは客も弟子も離れていき、やがて持っていたお金を使い果たしてしまった職人は、こうして路地裏で寝泊まりしながら、一日中お酒を飲んで過ごしていたのでした。
妖精は、そんな事情を全く知りません。けれど、職人の今の姿を見てとても悲しく思いました。なんとか職人に、バイオリンを作ってもらいたいと願いました。
妖精と職人の周りで、ピチカートが騒ぎ始めました。その音が耳に入ったのか、職人はふと顔を上げました。
職人の前で、妖精は一生懸命両手を振ったりダンスを踊りました。職人の目が大きくなります。彼がおそるおそる差し出した、バイオリンだこの残る左手の上に、妖精はゆっくりと降り立ちました。
「ああ……お前と、やっと会えたのか」
職人は今にも泣き出しそうに顔をゆがめました。
「すまない。もう、私はバイオリンを作る術を捨ててしまった。どこか、別の職人のところに行った方がいい」
妖精は彼の指にしがみつき、首を何度も横に振りました。
彼らを見守っていたピチカート達が、ぞろぞろと職人の右手に上がり、手のひらですうっと消えていきます。最後のピチカートがいなくなった後、職人は妖精に言いました。
「前のように、上等なバイオリンはもう作れないかもしれない。それでもいいのなら、一緒に出かけよう。まずは楽器を作るのにふさわしい木を探さなくては」
妖精はもう胸いっぱいに嬉しくなり、何度もうなずきながら、職人の手を引っ張りました。