御伽噺の住人へ
【とある公爵夫人の話】
ーーええ?
ホラ吹き伯爵ですか?
ああ、あの方。もちろん存じ上げておりますよ。
だって旧友ですもの。
随分と歳の差がある、って?
まあ、嫌だ!
わたくし、こんなしわくちゃなお婆ちゃんですけれど、まだ心はレディですのよ。
歳のことは言わないでくださいな。意地悪なお方。
それでなんだったかしら。
ああ、そうそう。伯爵のお話ね。
わたくしが伯爵と出会ったのは、まだデビュタントを迎えたばかりの頃で、彼はいつもパーティーの中心にいたわ。
キラキラ輝いていらして、いつも夢のようなお話をなさるのよ。
わたくしは少女ながら彼のするお話が大好きで、皆さま彼が嘘つきだと仰るけれど、わたくしにはどうしても嘘には思えなかったのです。
ある日、婚約者を決められたわたくしは、貴族子女として生まれた責務と、自立した女性として暮らしたい己の欲望の間で揺れておりました。
公爵様との結婚は誰もが羨むもので、過ぎた考えだとは分かってはおりましたが、どうしようもなくやるせなくなって、パーティーの途中抜け出して庭園の茂みに隠れて泣いていました。
「何か悲しいことでもあったのかい。レディ」
すると、あの方がわたくしに声をかけてきたんです。
ハンカチを差し出して、片膝をついて……。
ええ、まだ覚えておりますわ。
とても綺麗な満月が伯爵の後ろに浮かんでいて。
ーーああ、わたくしったら悲しさのあまり、幻影を見てしまったのねって。
そうしたら余計に涙が出てきて、はしたなく声を出して泣いてしまいました。
でも、そのとき思ったわ。
伯爵のするお話が夢物語のようなのは仕方ないって。
だって、伯爵自身が夢のようなお方なんですもの。
「わた、わたくしっ、好きでもない殿方と結婚などしたくありませんわ。どうして、いつだって女は蹂躙される立場でいなければいけないの。わたくしにだって意思があるわ。いっそ貴族として生まれなければよかった。伯爵様っ、わたくしは、わたくしは貴方の以前仰っていた、まほろばの国を訪れてみたい。あなたはもう海底に沈んでしまったと言うけれど、それならば海底に潜って探しに行きたいわ」
わたくしを何処かへ連れて行って、なんて“白馬の王子様を待つ少女“でも今時言わない台詞ね。
そんなわたくしを慰めるように、伯爵は隣に腰掛けてくださったわ。
「僕はね、政略結婚が悪いとは言わない。でも、絶対にそれをしなければいけないとも思わない。だって実際に僕は独身を貫いているわけだしね。ある子は、貴族として生まれたときは貴族としての義務を果たすと言っていたけど、僕は貴族や平民に関係なく人の心は自由であるべきだと思うよ。こういうことを言っているから、嫌われるんだけどね」
「……伯爵様は、どうしてそんなに自由でいられるのですか? 殿方だから?」
そう尋ねると伯爵は肩をすくめて笑い、そして内緒話をするようにあることを教えてくれたの。
「それはきっと僕が不老不死だからだね」
その言葉にわたくしは思わずムッとしました。
「わたくしをからかっていらっしゃるの? そこまで子供ではありませんわ」
「どうかな。君はどうだと思う?」
どこかの絵本で読んだような、人をからかって遊ぶ魔物のようにも見えたし、神様が寿命というものを作り忘れた天使様のようにも見えて、言葉を紡げませんでした。
おどけたように笑った彼が、とても寂しそうな瞳をしてらしたのだもの。
「人間は儚い。瞬きしてる間に、会いたい人とは会えなくなる。人々は僕をホラ吹きだと言うけれど、僕は出会った人たちとの思い出を、見てきた景色を、語り継いでいるだけに過ぎないよ」
彼はわたくしから視線を外し、月を見上げる。
その光景に一瞬息が止まり、なんだか時が動くのを忘れてしまったような心地がしました。
「嘘だと思えばいいさ。御伽噺のような夢幻を、僕達は過ごしていることを知ればいい。今の君たちだって数百年後には御伽噺の住人になるんだよ」
そう言って笑う彼を見て、ぽつりと言葉が溢れてしまったの。
「ーー嘘だと侮られて、悔しくはないのですか?」
当時のわたくしはあの方よりもずっと身分が低くて、本当は不敬にあたるのでしょうけど、あの方はそんな些末なことを気にするような人ではなかった。
「その愚かしさが人間だ。愛しく思うよ」
ーー悪戯に産まれてしまった、人ならざる者。
わたくしの少女時代を慰めた、憧れの殿方。
この方は、わたくしの愚かさを許してくれるのね。
自分でも気付かぬ間に、涙が溢れた。
わたくしはきっと、今日という日を忘れないんだわ。
ーーそれから間も無くして、わたくしは公爵家へ嫁ぎ、男の子二人と女の子一人を産みました。
公爵様は冷たいけれど寂しい人で、奥底には優しさもあって、不器用な殿方だったわ。
そんな不器用なところが可哀想で可愛くて、そう思い始めたら女はもうダメね。
だんだん愛しくなってしまって、ああ、人間って奥深いなと思ったの。
月日が経つのは早いものね。
娘が嫁ぎ、孫も産まれ、しばらくして、わたくしは王室主催の舞踏会に参加をしておりました。
多くの人々と挨拶を交わし、その波を避けるようにして歩いていたとき、ふとある男性が目に止まったの。
その時、本当に本当に心臓が止まってしまうかと思ったわ。
声をかけずにはいられなくなって、でももし違う人だったらどうしようと考えたり、しばらく横目で盗み見をし彷徨い歩きながら、ついに声をかける決心をしたの。
「もし、そこのかた」
動揺を悟られないように、扇で口元を隠し、その背中に声をかける。
「もしかして伯爵ではありませんか?」
「やあ、これは麗しのレディ。久しぶりだね。見違えるほど綺麗になった」
「まあ、やっぱり伯爵でしたの。……本当に夢みたいなお方だわ」
振り返った彼は、思い出の通りの彼のままで。
噛み締めるように呟く。
だって、心底驚いたわ。30年ぶりに会ったのに、彼はちっとも衰えていないんだもの。
昔のまま。白髪の一本も、皺の一つもできないで、相変わらずそよ風のように微笑みながら、旧友と再会したように片手を上げたのよ。
「覚えてくれていたなんて光栄だ。そういえば内緒なんだけど、僕は不老不死なのさ」
秘密を共有するようにウインクをしたから、思わず声を立てて笑ったわ。
ええ。ええ。今度こそ信じますとも。
だってこの目で見てしまったんだから。
「お懐かしゅうございますわ、伯爵」
「君こそ、すっかり立派な公爵夫人だね」
伯爵にとっては、きっとたったの30年。
わたくしにとっては、長い船路の、まだ道半ば。
伯爵。わたくし、ずっとあなたにお会いしたかったの。
わたくしの少女時代を慰め、そしてこれからも続く人生の慰めをくれるあなたにーーわたくしはずっと、お礼を言いたかった。
「ずっとお礼を伝えたかったの。ありがとう、伯爵。お会いできて嬉しい。あの日以来、どこにもいらっしゃらないのだもの」
「少しこの国を離れていてね。久しぶりに戻ってきたのさ。それにしても良い夜だ、こうして旧友に会えたのだから」
「まあ!」
わたくしを旧友だなんて、おかしな方。
でも、それがホラ吹き伯爵だものね。
懐かしさに目を細め、微笑む。
そうすると伯爵も微笑み返してくれて、その瞳に見つめられたわたくしは、ぽつりと言葉を溢してしまいました。
「伯爵、……わたくしは立派にやってこれたのでしょうか?」
まるで少女時代のように、情けない声をしたわたくしに、彼は悠然と歩み寄る。
「もちろんだとも。君にとってのまほろばの国は、もう、見つけられたんだろう?」
はるか昔にした何でもない会話。
「ふふっ……、ええ!」
わたくしは今度こそ微笑んだ。
海底に潜らずとも、わたくしはわたくしの幸せを手に入れた。
人間は愚かでもいいと。それを愛していると、彼は言ったのだもの。
だからわたくしも、自分の愚かさを愛するわ。
ーーこれで、わたくしと伯爵のお話はおしまい。
この時が彼を見た最後で、気付けばわたくしはすっかり年老いていたわ。
でもわたくし、不思議と悲しさや寂しさはないの。
だってあれは夢幻。
人生という長い道の中で、束の間に見た夢なのよ。
揺蕩う夢から醒めたくなくても、夢は覚めるものだもの。
今世でお会いできなくても、もうわたくしは、あの日に「わたくし」を置いてきた。
あとは、ーーそうね。
伯爵の御伽噺の住人になれれば、それでいいわ。
【とある老婦人の話】




