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6.犯人が吐いた嘘



 玄関のドアを開けて、住ヶ谷家の敷居を跨ぐやいなや、自分の靴より少しだけ小さい汚れた運動靴を見つけた俺は、スニーカーを脱ぎ散らかして、ダッシュでリビングへと向かった。


 その途中でシャワーの音が耳に入る。その瞬間俺は踵を返し、通り過ぎた洗面所兼脱衣所へ戻り、閉じられた戸をノックすることなく勢いよく開けた。


「大変だ!」

「きゃー! 何!」


 脱衣所に人の姿はなく、風呂場から甲高い悲鳴とバシャーンという湯船に誰かが飛び込んだような音がした。今は湯船に溜まったお湯がチャプチャプと暴れる音と、シャワーから水が流れ出ている音が脱衣所に響いている。


 俺は風呂場に続く扉の側の棚に、バスタオルと女性用の下着とパジャマが綺麗にたたまれて置かれているのを確認してから、扉の奥で声を潜めている人影に声をかけた。


「落ち着け。俺だ。お兄ちゃんだ。勿体ないからシャワーの水を止めろ」

「もう! いきなり入ってきて大声出さないでよ! びっくりするじゃん!」


 野球で鍛えられた腹からの怒声に圧倒される。おそらくリビングまで聞こえていただろう。幸い両親は仕事でいなかったので、面倒くさい状況説明はする必要がなかった。


「悪かったって。別に覗いたわけじゃないんだから、そんなに怒らないでくれよ」

「分かったから出て行って」


 声の圧からは全く分かってくれ感じはしなかった。


 普段ならおとなしく引き下がっているところだったが、今の俺はその場を離れることはない。俺はひとまず洗面所の蛇口を捻って両手を濡らし、ハンドソープを手につけて手洗いを始めた。外出した後の手洗いうがいは大切だからな。


「まあまあ。そんなツンツンするなって。っていうかお前、お湯に浸かってんのか? こんなクソ熱いのに」


 俺は話題を逸らして由希の怒りの炎の鎮火を図る。


「お湯に浸かった方が疲れとれるでしょ。こっちは部活で体のあちこちに溜まってるの」

「そういうもんか。そういえば今日練習試合だったんだっけ?」

「そう」

「どうだったんだ? 戦績の方は」

「試合は全部勝ったよ。私は全部負けたけど」

「……その心は?」

「全試合レフトで出された。ショート完全に盗られちゃった」


 紗月は表面上なんでもなさそうに、ポツリとそう零した。俺はうがいをして、少し会話に間を取る。


「俺的にはレフトで使ってもらえてるなら別に良いんじゃないかって思うけど、お前的には相当悔しいんだろうな」

「……うん。ずっと守ってきたポジションだから。ちゃんとやれることはやった上で盗られたから、多少仕方ないかなっていう気持ちはあるけど……。やっぱり悔しい」


 紗月は顔まで湯船に浸かったのか、ぶくぶく空気が漏れる音が風呂場から響いてきた。


 生涯補欠だった俺には、自分が守っていた場所を盗られる気持ちは分からない。それでも妹が妥協せずに毎日努力していたことと、叫びたい気持ちを抑えて悔しがっていることは理解できる。


 俺は風呂場を正面にして脱衣所に腰を落ち着けて、どっしり胡座をかいて腕を組んだ。

「まあお前にはあと一年くらい時間があるんだ。取り返せる機会なんてこれから何回もあるだろ。それにお前も諦めたわけじゃないんだろ?」

「もちろん! このままおとなしく後ろから背中眺めて過ごすつもりはないよ」


 リベンジに息巻く妹の声と湯船の湯が暴れる音が聞こえてくる。


 やはりこいつは俺の妹とは思えない。俺にはない、この向上心と負けず嫌いな部分はこれからも大切にしてほしい。


 俺は扉の向こうに伝わらないように、声を出さずに笑った。


「まあ、練習なら何回でも付き合ってやるから。気が済むまで頑張れよ」

「うん。ありがと。なんかお兄ちゃんのおかげで、元気出たっていうか、燃えてきた」


 心なしか由希の声に覇気が戻ってきたような気がする。俯いた声は彼女に似合わないので、心が良い方向に向いてくれて良かった。


 やがて風呂場から絞り出すような高いうなり声が聞こえてきた。ストレッチも兼ねて伸びをしているらしい。声に気持ち良さが滲み出ていた。


「お兄ちゃんがカッコ良くて頼りがいのあるお兄ちゃんで良かった」


 そんなわざとらしい声量の独り言が聞こえてくる。本来ならノリに乗って大袈裟に驕った返しをしていたと思うが、このときの俺はそうしなかった。


 切り替えるように、咳払いをする。


「じゃあ次は俺のターンな」

「ターンって何?」

「お前の話聞いてやったんだから、次は俺の話を聞け。拒否権はない」


 俺は傍若無人にそう言い放った。最初に俺が由希の話の聞き手に回ったのはこれが目的。確実に由希に相談に乗ってもらうためだった。


「いや別に話を聞くのは良いんだけどさ……」


 案外由希はすんなりと俺の要求を受け入れた。よく考えれば意外なことでもなかったかもしれない。由希は昔から俺からの頼みをよく聞いてくれる子だった。


 ただ由希は本題とは別の部分で難色を示した。


「私、そろそろ出たいんだけど」

「それは好きにしろよ。俺関係ないだろ」

「いやお風呂を出たいっていう意味だよ? お兄ちゃんいたら出られないじゃん」

「なんでだ? 別に俺はお前が全裸でも気にしないぞ」

「私が気にするって言ってるの!」


 風呂場で反響してエコーがかかった感じの大声が返ってくる。どうやら律希も年頃の女の子らしい。別に俺も彼女の裸を見るためにここにいるわけではないので、俺が退散するのが筋だろう。


 しかし俺は腰を浮かせることなく、相変わらずどっしりとその場に居座ったまま、動こうとしなかった。


「悪いがことは急を要するんだ。浸かったまま俺の話を聞くか、出てきて話を聞くか。その二つしかお前に道はない」

「意味が分からないんだけど……」


 声から呆れた雰囲気が伝わってくる。ワガママな兄を前にして彼女の声から覇気が再び消え失せていた。


「はあ……。分かったよ。別にのぼせるわけじゃないからここで聞く」


 由希は深い溜息をついた後、湯船に浸かったままの道を選んだ。おそらくまだ浸かり始めてから五分ほどしか経っていない。彼女が言ったとおりまだのぼせる心配はいらないだろう。


 急を要すると言ったのは本当のこと。俺は余計な方向に話を広げることなく、早速本題を持ち出した。


「大変なことになったんだ」

「さっきからそう言ってたけど、どうせ非通知の電話の件でしょ?」

「ご明察」


 俺は今日までの三日間の調査結果を纏めて由希に伝えた。結論から言うと、全員が電話をかけた事実を否定したということ。他にも悠那は名前を出していないが、俺ではない誰かに思いを寄せていること、綾乃は今も俺を幼馴染みとしか思っておらず、俺の恋路を応援してくれていること、紗月は俺の勘違いでなければ俺のことを良く思ってくれていることなど、調査に付属して得られた情報も伝えておいた。


 俺からの話は三分くらいで終わる。


「由希はこの結果、どう思う?」


 取りあえず自分の考えは伝えずに、由希の見解を窺う。俺の考えに引っ張られない純粋な彼女の意見が聞きたかった。


 少し時間がかかるかと思ったが、特に考え込む素振りを見せることなく、由希はあっさりと答えを出した。


「どうって、簡単なことでしょ」

「簡単なことと言いますと?」

「犯人が嘘ついてるってこと」


 迷いのない真っ直ぐな声。由希は他の可能性すら示さず、そう言い切った。


「三人の中に犯人がいないってことにはならないのか?」


 ここで俺が真っ先に思いついたパターンを挙げてみる。単純に考えれば三人とも否定したということはそういうことだろう。


 しかし由希は俺の純粋過ぎる思考を即否定した。


「さすがにそれはないと思うよ? その三人以外、お兄ちゃんのこと好きになるような人いないだろうし」

「分からんだろ。やっぱり俺のあずかり知らないところで、俺の魅力に気付いてしまったレディがいるかもしれない」

「ないない。そんなの地球に隕石が降ってくるより確率低いよ」


 妹に鼻で笑われた。もう少し兄の潜在的モテ力を信じてくれても良いと思うのだが。


 まあ悔しいが、自分でもそんな人が三人以外のどこかに存在するとは思えない。可能性としては由希が言っていた方が十分に高いと言えそうだった。


「だとしたら、なんで犯人は嘘なんかつくんだ?」


 そういうことになってくると、当然この疑問は浮かんでくるだろう。嘘なんてつかれたら探してるこっちの立場としてはただただ迷惑なだけである。


「さあ。簡単に見つけられたくないとかそんな理由じゃない?」


 だとしたら、見つけたときに俺はブチ切れてしまうかもしれない。こっちは人の命がかかっていると思ってある程度緊張感持ってやっているというのに、そんな遊び半分な理由で嘘なんてつかれたらたまったものではない。


「っていうかさあ」


 対処法としてはもう一度聞き直すしかないのか。そう由希に尋ねようとしたとき、彼女が先に口を開いた。


「何だ?」

「そもそもお兄ちゃんの聞き方が甘いんじゃない?」


 由希は俺の肩を持つのではなく、俺の調査の中途半端さを指摘して難癖をつけてきた。俺は由希が言った「甘い」という言葉の意味が分からずに首を傾げる。


「甘いってなんだよ。俺はちゃんと三人に、日曜日に俺に電話をかけてきたか聞いたぞ」

「普通に聞くだけじゃダメなんだって」

「と言いますと?」

「やるなら徹底的にやらないと。ちゃんと三人の口から『私は八月二十日の十七時頃に、律希に電話をかけていません』って言質取ったの?」

「……いやまあ、そこまでしてないけど」


 言われて思い返してみる。確かに三人とも「電話をかけていない」とはっきり答えてもらった覚えはない。綾乃は一応「アプリでかけたけど、話し中でかからなかった」とは言っていたが、「番号でかけていない」と言ってもらってはいない。


「それじゃあダメだよ。嘘はついてませんって惚けられても仕方ないと思う」


 由希の言っていることは腑に落ちた。確かに今のままでは、俺の「電話をかけたか?」という問いに対して、「何のこと?」と惚けているだけで、嘘をついているとは言えない。しっかり事実を口にしてもらわないと、詰めることはできないだろう。


「犯人捜しをするときは、徹底的に逃げ道を潰さないと」

「……勉強になります」


 やけに説得力のある言葉だった。まるで犯人捜しの経験が豊富であるかのように聞こえる。将来、弁護士とか検察官とか目指していたりするのだろうか。妹と言えど知らないことはたくさんある。


「改めてもう一回全員に聞いて回るしかないか」

「それが一番なんじゃない? それで全員に否定されたらもう分かんない。見つけられなくてもお兄ちゃんは悪くないよ」


 俺としてもそう思いたいところだ。


 聞き直してもう一度否定されるのが一番最悪なケース。調査はほぼ振り出しに戻ることになる。ほとんど話した記憶の無いクラスメイトの女子にも聞いて回ることになるだろう。俺の変な噂が立つこと請け合い。


「……まあ、元々お兄ちゃんは悪くないけど」


 由希は最後にポツリとそう呟くと、湯船から出た。風呂場から勢いよくお湯が流れ落ちる音がする。


「そろそろ話終わりで良い? さすがにのぼせそうなんだけど」


 話し始めてそんなに時間は経っていないと思うが、由希は四十度の生活に白旗を揚げた。こっちとしてはこれからの方針も決まったし文句はないので、おとなしく俺は腰を上げる。


「ああ。悪かったな。試合で疲れてるのに付き合わせて」

「ううん。別にそこまで疲れてなかったし。私も愚痴聞いてもらったから大丈夫」

「この後練習するのか?」

「うん。ちょっとで良いから守備練習とトスバッティング付き合ってほしいんだけど」

「仰せのままに」


 大袈裟にそう言い残して俺は脱衣所を出て扉を閉めた。すぐに出てくるのかと思っていたが、しばらくしてから風呂場の扉が開く音がした。多分俺が本当に出て行ったのかを確かめていたんだと思う。そんなに俺は信用されていないのか……。


 その後はちょっとだと聞いていたのに、二時間ほどみっちり練習に付き合わされた。彼女に火をつけたのは俺だし、付き合うと言った手前断ることはできなかったが、今日一日出歩いた上でのこの練習は相当堪えた。


 その日、俺は何年ぶりかの筋肉痛を覚悟しながら、寝床についた。



 「最悪のケース」というのは、あらゆる分野において必ず想定するものだ。例えば地震や台風などの自然災害であったり、人の命が関わる事件や事故であったり。


 人々はその出来事や事象に対する「最悪のケース」というものを想定し、予め対策を打ったり、解決策を思案したりする。たとえ最悪のケースになる確率が一パーセントに満たないとしても、そうなったときに対処できるような物資や人、施設などを用意するのだ。


 しかし実際その最悪のケースが訪れることというのはほとんどない。大体は想定していた半分にも満たない結果が現れて、拍子抜けすることが多い。それは俺たちにとって歓迎すべきことだろう。


 しかし、想定ができてしまう以上、最悪のケースが訪れることもゼロではないということを忘れてはいけない。


 今まさに俺は、その最悪のケースと対峙しているのである。


 八月二十五日、金曜日。花火大会まであと二日に迫ったこの日、俺は由希と話していたとおり、三人からはっきりと言質を取ることにした。


 電話やメッセージアプリで確認しても良かったのだが、やるなら徹底的にということで、本人たちと面と向かって、本人たちの声で話を聞こうと思った俺は、暇な時間をうかがいつつ、自分から彼女たちの元に出向いて、犯人が惚けられないように改めて質問をぶつけた。


 誰かは懲りて白状してくれると思っていた。特に紗月は一番犯人である可能性が高い。他の二人がダメでも、紗月で決着がつくと思っていた。


 しかし、結果としては……。


「八月二十日の十七時頃? 律希君に電話なんてしてないよー?」


「私、乾綾乃は八月二十日の十七時頃、住ヶ谷律希さんに電話番号を使用して電話をかけておりません! これでいい?」


「二十日の十七時頃にあんたに電話? そんなのしてないわよ」


 全員に否定されてしまった。入念に間違いがないか確認した上で否定された。まさに言っていた通りの最悪のケース。頼みの綱だった紗月から否定された瞬間に、俺のコマはスタート地点へと戻った。


 それでも三人の中に犯人がいないという事実は受け入れがたく、俺は犯人が嘘をついているという線で調査を続けることにした。由希に相談しても「私もやっぱり犯人が嘘をついているだけだと思う」と言って背中を押してくれた。


 というわけで花火大会までの残り時間を俺は、三人のアリバイ調査に割いた。八月二十日の十七時頃、どこで誰と何をしていたか。それが分かれば誰が嘘をついているかが絞り込める。


 ただ本人に聞いてしまうとまた嘘をつかれてしまうので、俺は聞き込み相手を三人の家族に絞って調査することにした。


 一番簡単だったのはもちろん綾乃だ。綾乃の両親とは既に見知った仲。急に俺がある日時における綾乃の動向を聞いても、不審がって俺のことを通報したりしない。


 俺は綾乃と顔を合わせないように朝のゴミ出しの時間を狙って、お母さんに話を聞きに行った。


 結果としては白だった。その頃綾乃は夕飯を作っているお母さんの前で、録画していたバラエティを見て笑っていたらしい。急に思いついたように電話をかけようとしていたところも、ちゃんとお母さんに見られていたらしく、この証言の信憑性は高い。


 つまり綾乃は嘘をついていない。容疑者の欄から綾乃の名前を完全に消す。


 調査に神経を使ったのは他の二人だ。俺は二人の家族とは全く面識がない。急に家族の同級生を名乗る俺が、悠那もしくは紗月の身辺調査みたいなことをしだしたら、超不審に映るだろう。ストーカーか何かに勘違いされてもおかしくないし、警察や学校に通報されることも考えられる。


 だからといってそれらを回避できる画期的な調査方法を考えている時間は、俺には残されていない。俺は二人の家の近くで張り込みをして、姿を現した家族に堂々と聞くことにした。できるだけ挙動不審なところを見せず、まるで正しいことをしているかのように振る舞うことにした。

ちなみに二人の家がどこにあるかは、遊びに行った帰りに何度か家まで送っていったことがあるので知っている。


 二人のうち比較的簡単だったのは紗月の方だ。張り込みの時間は二時間ほど。姿を現したのはお母さんだった。


 さすがは紗月を生んで育てた人。スラッとしていて俺の母親と同世代とは思えない綺麗な人だった。買い物に出掛けるようで、エコバックを持って車に乗り込もうとする。


 その場にダッシュで駆け寄って声をかけた。紗月のお母さんは急に声をかけられて驚いていたが、俺の顔を見るなり何かに気付いたように「あっ」と小さく声を漏らす。するとなぜかお母さんは俺の名前を知っていて、名乗るよりも先に名前を呼ばれた。訳を聞くと紗月から俺のことは聞いていたようで、俺の写真を見たことがあったのだという。


 紗月のおかげで、初手で気まずくなることはなく、何度か世間話を交わしてから、本題を尋ねてみる。


 結果はまさかの白。その時間帯は家族で出掛けていて、紗月は車の中にいたらしい。電話をかけていた様子もなかったとのこと。嘘であってほしいと思うがお母さんが俺に嘘をつく意味はない。


 容疑者の欄から紗月の名前を消した。


 それによって俄に犯人である可能性が急上昇した悠那。彼女の調査が一番、骨が折れた。


 張り込み始めたのは昼過ぎ。そこから日が落ちるまで華村家には全く人の出入りがなく、俺は待つことしかできないことにもどかしい気持ちでいっぱいだった。


 やっと華村家から姿を現したのは、手提げ鞄を肩にかけた少年だった。おそらく悠那の弟だろう。この機を逃すわけにはいかず、俺は全力で弟君の背中を追いかけて声をかけた。


 当たり前だが紗月のときみたいに上手くいくわけではない。弟君は振り返ると俺のことを警戒心マックスの目で見る。急に知らない男に声をかけられたときの正常な対応だ。話を聞くと今から英会話教室に行くところらしい。


 なんとか悠那と俺が映った写真とかを見せながら、彼女の友達であることを理解してもらい、多少警戒心を緩めてもらう。それでも彼の俺を見る目は鋭かった。華村家では自己防衛の教育がちゃんとなされているらしい。


 余り時間をかけるのは彼の予定的にも良くないと思った俺は、取りあえず用件を伝えた。八月二十日の十七時頃、君のお姉さんは何をしていたのか。


 弟君は意外とあっさり打ち明けてくれた。


 お姉ちゃんは自室で本を読んでいたと。どうやら華村家の姉弟は二人で一つの部屋らしく、その時間同じ部屋にいた弟君は二段ベッドの上で寝ながら本を呼んでいる悠那を見ていたという。ついでに悠那は本を読むとき集中するためにケータイをリビングに置いたままにするという貴重な情報まで提供してくれた。


 つまり悠那は嘘をついておらず、白であるということ。容疑者の欄から悠那の名前を消す。


 残ったのは三人の名前に射線が入った紙切れだけ。


 その瞬間、俺の視界は真っ暗になった。完全に俺は道しるべを失った。どうすれば良いか分からなくなった。


 分かったのは三人とも嘘をついておらず、三人とも俺に電話をかけていないということ。


 でもまだ確定したわけではない。家族が何かの勘違いや記憶違いで、間違った証言をしている可能性がある。残された時間的にもそう思うしかなかった。


 三人にもう一度同じ質問をする。迅と豪にも聞き込みをする。三人の家族にコンタクトをとってもう一度証言してもらう。学校に行って部活中のクラスメイトに聞き込みをする。ついでに女子には一応犯人ではないか聞いておく。


 俺一人でやれることはやった。普段しゃべらない人たちにも声をかけた。慣れないことも全部やった。


 そうした結果。


 現在の日時は八月二十七日十七時半。第三十四回淀川花火大会当日。花火が上がるまであと二時間。


 俺は自室でベッドに寝転びながら、扇風機もつけずに白い天井の一点を見つめながらボーッとしていた。


「どうしたもんかねえー」


 溜息交じりに独り言を漏らす。結局俺は犯人を見つけることができず、なんなら何一つ手がかりを手元に残すことなく、当日を迎えていた。


「無理ゲーだろ……」


 改めて自分がこの一週間対峙していた問題の難易度に文句を垂れる。あの三人が犯人じゃないというところで既に詰んでいた。ヒントを貰っていたとはいえ、そのヒントのせいで狂わされた感がある。俺と会って話したことがある女子なんて、あの三人以外俺に思いつくはずがない。


 まだまだ不平不満は留まりそうになかったが、これ以上一人で愚痴っても物事は好転しない。俺は心に溜まった毒ガスを肺に込めて、もう一度溜息を吐いて思考を切り替えた。


 今ごろ犯人はどうしているのだろう。まだ諦めずに俺のことを待ってくれているのだろうか。残念ながら俺はあなたの白馬の王子様ではなかったらしい。ただの高校生にヒーロー役は荷が重かった。


 もし顔を合わせてもらえるのなら一言聞いてみたかった。なんで俺なんかを好きになったのかと。


 ――私は……自殺します。


 あの一言が蘇ってきて頭がズキリと痛む。なんとか思い直してはくれないだろうか。


 今からでも警察に連絡したほうが良いのかもしれない。そう思った瞬間にコンコンと気を叩く軽い音が部屋に響いた。


「はい」


 その音が部屋の扉をノックした音だと理解した俺は、適当に返事して入り口の方に顔を向ける。ガチャリと音を立ててドアが開くと、顔を見せたのは妹の由希だった。俺の顔を見るなり首を傾げる。


「お兄ちゃんまだいたの? 十八時に向こう集合って言ってなかった?」


 言われて俺はケータイの画面に目を向ける。表示された時刻は十七時半過ぎ。由希が言う通り予定の集合時間は、淀川大橋北詰手前にあるガソリンスタンドに十八時だ。そろそろ出ないと遅れてしまう。


 それでも俺は急ぐことなく、ケータイの画面を消した。


「ああ。まあ適当に準備して行くわー」


 そう言いながら起き上がることはない。なんとなく何の解決にも至っていないこの状態で花火大会に向かう気にはなれなかった。


「ふーん。じゃあもう声かけないよ?」

「ああ」


 一応心配で声をかけてくれたらしい。心の中で気遣いに礼を言っておく。


「っていうかさ」


 代わりに気になったことを言葉に出した。


「お前、浴衣なんか持ってたっけ?」


 俺は視線を彼女のつむじからつま先まで一往復させてからそう言った。


 由希は見慣れない浴衣を身に纏っていた。水色の生地に黄色と青色の朝顔が描かれている。帯は朱色で全体的に明るく、オーソドックスでありながら中学生らしいかわいらしい浴衣だった。


 俺の記憶に由希が浴衣を着ている姿は存在しない。おそらく今回が初めて。見たことがない格好をしていたので、思わず聞いてしまった。


「へへっ。お母さんに頼んで買って着せてもらったの」


 ぎこちなく笑いながら説明してくれた。まだ自分の浴衣姿に慣れないようで、恥ずかしそうに身をよじっていた。


「なんでまた急に?」

「え? だって周りの友達全員浴衣で来るって言ってたからさ。一人だけ私服って恥ずかしいじゃん」

「なるほどな」


 俺は彼女の説明に納得を示した。俺が今回初めて友達と花火大会を回るように、由希も初めて友達と回るのだ。中学生にもなれば、浴衣を着て花火大会に行く子の方が多いのだろう。輪を乱さないという意味でも浴衣を着なければなかったというわけだ。


「ど、どう? 変じゃない?」


 初めてで自信がないのか、俺の顔色を窺いながら、背中を向けたりして浴衣姿を見せてくれた。よく見たら髪型もいつもと違っている。普段は特に何もせず垂らしている肩までの髪が、今は後ろで複雑にねじったりしながら纏められていて、赤色の髪飾りが後頭部で光っている。


 別に変なところは一切なく、贔屓目なしにちゃんと似合っていた。


「安心しろ。どこに出しても恥ずかしくない。初めてにしてはできすぎくらいじゃないか?」

「もう。適当なこと言わないでよ……」


 言葉では謙遜していた由希だったが、実際はまんざらでもないようで、表情は嬉しそうに綻んでいた。


「適当じゃない。変な男に捕まらないかだけが心配だよ」

「そこは大丈夫。腕っ節には自信あるから」

「今の発言で男の方が心配になったな」


 袖をまくって得意げに筋肉を疲労する由希。暴力事件だけは起こさないでほしい。せめて正当防衛の範囲で収めてほしい。取りあえず暴力で解決しようとする考え方は、兄として彼女の将来が心配になった。


 こいつと話していると嫌なことを全て忘れてしまいそうになる。今はそうしたい気持ちとそうしたくない気持ちが半々だった。


 俺の心境を読み取ったかの如く、由希は開けっぱなしにしていた部屋の扉のドアノブに手をかける。


「そろそろ私出ないとだから。先行くよ?」

「ああ」

「ちゃんと戸締まりして行ってね」

「分かってるよ」


 母親みたいな言葉を残した由希は、うっすらと微笑んでからドアを閉めた。


 残された俺は再び天井に視線を戻す。その瞬間に外から蝉の鳴き声が聞こえ始めた。


 そういえば電話がかかってきたときも、こんな日のこんな雰囲気だった気がする。どこからともなく蝉の鳴き声が聞こえてきていて、昼ほど明るくないがまだまだ太陽が空に居座っていて、部屋の電気はまだいらない時間。蒸し暑い風が申し訳程度に窓から流れ込んでくる。まるで一週間前にタイムリープしたかのような錯覚に陥るほど、今日とあの日は酷似していた。


 いっそタイムリープしてほしい。そんな俺の密かな願いをはたき落とすように、子供たちのはしゃぐ声と下駄が地面を蹴る心地よい音が聞こえてきた。家族で今から淀川に向かうのだろう。張り切りすぎないように注意する父親らしき人の声がした。母親らしき人の笑い声も耳に入ってくる。


 あの日はこんな音と声は聞こえてこなかった。そのせいで俺は今が一週間前と違うことを実感させられる。


 それでも俺は、あの電話がかかってきた時のことが鮮明に記憶から蘇ってきて、目を瞑りながらそのときの光景を瞼の裏に映し出していた。


 ――私はあなたのことが好きです。


 ノイズ混じりの低く掠れたような声だったと思う。元々低い方なのだろうが地声よりも低くしたような声。人生で初めての人からの告白だったので、印象的すぎて記憶にこびり付いている。

突然のことに驚いていたことは確かだが、間違いなく嬉しさも心の半分くらいは占めていたと思う。問答を繰り返して、彼女の告白相手が俺であることが明確になるにつれて、俺の気持ちは浮ついていった。


 だからその後に、彼女から自分を見つけてほしいという頼みと、それができなければ自殺するという意思を聞いたときの衝撃は、とんでもない大きさだった。空から勢いよく地面に叩きつけられたような気分だった。何が何だか分からなかった。


 まあそれは今も同じなんだが。


 ――私は……自殺します。


 何度思い出しても頭に鈍痛が走る。何かを諦めてしまったかのような切ない声。彼女はどんな心境でこの声を絞り出したのだろうか。どうして彼女はこんな宣言をしなければいけなかったのだろうか。


 あの日からずっと考えているが、答えが出てくることはない。もし俺と同じ立場になった人がいたとして、その人は彼女の心境に寄り添うことができただろうか。


 ――私は……自殺します。


 再び頭の中で、彼女の声が明瞭に再生される。そこで俺はとあることを思い出した。思い出したというか、そういえばそうだったと理解した。


 俺は彼女のこの声を聞いたときくらいから、自分の頭の奥の方、本当に奥の方の隅っこで、ある感覚を抱いていた。


 彼女の声を聞いたことがあるという感覚を。


 別にこれは彼女から、話したことがあると説明を受けたからというわけではない。そういう理屈的なものではなく、もっと漠然とした、第六感からくるようなものだった。


 やはり今でもこの感覚は俺の頭から消えていない。むしろ彼女の声を思い出す度に、その感覚が強まっている。


 俺は彼女の声を聞いたことがある。


 改めてそう認識した瞬間に、彼女が発した続きの声が振ってきた。


 ――私はこうじゃないと、伝えられないから。


 ――私はこうでもしないと、あなたの印象に残れないから。


 悲しみにくれた泣きそうな声。しばらく頭に纏わり付いて離れなかった声。胸がキュッと締め付けられる。


 彼女がしゃべったフレーズの中でこの二つが、一番感情がこもっていた。冷たいのか熱いのか分からない。ただひたすらに濃密に凝縮された感情が彼女の声に乗っていた。それは思い返した程度で薄まるようなものではなかった。


 あの夏の日暮れ時。彼女はどういう意味でああいう言葉選びをしたのだろう。なぜ最後にあの二言だけ置いていったのだろう。


 あの二言で俺に何を伝えたかったのだろう。


 そう思ったとき、ある一人の女の子の顔が脳裏を掠めた。


 なぜだろう。なぜあいつの顔が今降ってきたのだろう。理由は分からなかった。


 しかし妙な納得感が俺の胸にはあった。


 そして気付いたときには、ベッドから体を起こしていた。


 傍らにあったケータイをズボンのポケットに突っ込み、鞄から財布と家の鍵を取り出す。急ぐでもない、ゆったりとした足取りで部屋の入り口へと向かい、ドアノブに手をかけて捻り、ドアを内側にスッと開けた。


「きゃっ!」


 甲高い悲鳴が俺の前を通り過ぎて廊下に響く。俺はその声に驚きながらも部屋を出て、声の主を探して左右を確認した。


 するとすぐ近くに人の姿を見つける。その人は半身で後ろに体重をかけて反りながら、右腕で顔のあたりを守っている。腕を上げているせいで浴衣の袖がだらんと垂れていた。


 なぜこいつがここにいるのだろう。理由を聞こうとすると先に向こうが口を開いた。


「お兄ちゃんまだいたの? もう十八時だよ?」


 訝しげな表情でこっちを見ていたのは妹の由希だった。体勢を立て直して深く息を吐く。もう俺が出て行っていると思っていたら俺が出てきて驚いたようだ。


 十八時という単語を聞いて俺はケータイをポケットから出し、電源ボタンを押した。確かに表示された時刻は十八時を過ぎたところ。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろうか。俺は皆に遅れるという連絡をしていなかったことを思い出して、グループチャットを開いた。


 すると先に悠那から遅れるから先に回っておいてというメッセージが来ていることに気がついた。そのメッセージに各々メンバーが適当に「了解」だとか「おっけー」だとか返事を返している。


 今は皆で待ち合わせの連絡を飛び交わせていたが、そこに割り込んで自分も遅れることを手短に伝えておいた。皆の反応を待つことなく、画面を消してポケットにしまう。


 若干間が開いてしまったが、そこで俺は由希に目線を戻した。


「それ、こっちの台詞なんだけど。お前もう出て行ったんじゃないのか?」


 俺の記憶だと先に出ていくと言っていたはずなんだが、記憶違いだろうか。


 そう思っていたが、俺の認識が正しかったようで、由希は苦笑いを浮かべて首を縦に振った。


「なんか友達が浴衣着るのに手こずってるみたいでさ。もうちょっと時間かかるって連絡来たから家で待ってたの」

「へー。女の子って大変だな」

「まあ私はお母さんに任せっきりだったから、全然大変じゃなかったけどね」


 なぜか得意げに胸を張る由希。今の台詞のどこにドヤる要素があったのだろうか。


 母の威を借る妹を見て愉快な奴だなあと思いながら、彼女の前を通り過ぎようとして歩を進める。


「じゃあ俺先行くけど」


 軽く手を挙げて何気なく彼女に家を出る意を伝える。


 別に何の変哲もない家族間のやりとり。昔から住ヶ谷家では「行ってきます」と「行ってらっしゃい」だけはなぜか欠かすことはなかった。家を出るときに誰かいれば、取りあえず外出する旨を伝えに行く。それに適当な見送りの言葉を返す。


 ごく普通な日常の風景。


 だから彼女からも「はーい」とか「いってら~」とか間延びした返事がいつも通り返ってくると思っていた。


 しかし今日は違った。


「うん。行ってらっしゃい」


 文字面だけ見れば、ちょっと丁寧になっただけの普通の返事。ただそのときの彼女の表情を普通とはとても言えなかった。


 由希ははかなげに笑っていた。


 その笑顔は線香花火のようで、ちょっとしたことで消え入ってしまうような脆さと危うさがあった。


 まるで何かを諦めて、何かを悟るような。


 そんな由希の表情を見たとき、あるフレーズが頭に降りてきた。


 ――犯人は嘘をついている。


 この一週間、何度も耳にしたフレーズ。


 俺はここで初めて、彼女が何度も口にしていたこのフレーズの意味を、ちゃんと理解した。


 言葉通り、犯人は嘘をついていたのだ。


 悠那、綾乃、紗月の中に犯人がいるという嘘を。


「それじゃあ」


 改めて別れの挨拶を返して俺は歩を進める。そして階段に差し掛かり、意味もなく一段降りたところで、彼女の名前を呼んだ。


「なあ、由希」


 彼女から反応は返ってこない。それでも俺は返事を待つことなく振り返り、短いようで長かった事件の答え合わせをした。


「電話の犯人、お前だろ」


 俺がそう言った瞬間に、一時停止ボタンを押したかのように由希の表情は固まる。


 両親は言っていた通り、綾乃の両親がやっている出店を手伝いに行っていて、家には俺と由希しかいない。だから俺と由希が黙れば、家の中は静謐さに包まれる。


 蝉の鳴き声もはしゃぐ子供の声も聞こえない、そんな静かな家の廊下で、由希は先程とは打って変わって、無邪気に笑顔を弾けさせた。


「ピンポーン。大正解。さすがお兄ちゃん。よく分かったね」


 昔よく見た、悪戯がバレたときに誤魔化すときの仕草。腰に手を当てて、俺の顔を覗き込むようにしてニシシと笑っている。


 懐かしい、小さい頃の記憶。


 ただ記憶と異なるところが一点だけ。


 腰に当てられた両手は強く握られて、怯えるように小刻みに震えていた。



「いやー、隠し通せると思ったんだけどな。何が決め手だったの?」


 楽しそうに笑いながら由希が歩み寄ってくる。彼女の態度と表情はこの場でなければ自然なものだったが、先程までの静けさを引きずっていたこの雰囲気下では不自然に映った。


 俺も由希に合わせて降りようとしていた階段を一段上がって、一歩前へ出る。


「お前、妙に綾乃たち三人の中に犯人がいるって言って譲らなかったからな。犯人は嘘をついてるとも何度も言ってたし、お前が犯人ならその発言は辻褄が合う。ちゃんとヒントを散りばめてくれてたみたいだな」


 俺が三人以外の誰かが犯人である可能性を示唆しても、頑なに三人の中に犯人がいると言っていた。別にその可能性が高いことには俺も同意するが、あれだけ調査して、三人が白である証拠を集めても、意見を変えなかったことに少し違和感を覚えた。


 まあその違和感を確かなものにしたのは、先程彼女が見せた表情だったが。今まで由希が見せたことのない寂しさの詰まったあの表情。なんでもない日常の風景に似つかわしくないものだった。


 こういった言動を、俺は彼女なりにヒントを出してくれていたのだと解釈した。しかし由希は首を横に振る。


「それはちょっと深読みしすぎ。私にヒント出してる意識はなかったよ」


 曖昧に笑いながら俺の推測を否定した。視線が頼りなさげに俺の足下へと落ちる。その発言が彼女の本心かどうかは分からなかった。


「そうだ。声はどうだった? 結構誤魔化せてたと思うんだけど」


 その話題から逃げるように由希が話を変える。彼女の顔に好奇心の笑みが貼り付いていた。


「ああ。全くお前のことなんか疑ってなかったから、ギリギリまで気付かなかった。今思えばお前の声の面影があった気がするけど、結構ちゃんと騙されたな」


 電話の内容が内容だっただけに、真っ先に家族は候補から外していたので、気付くのにこれだけ時間がかかってしまった。彼女の女子にしては低く芯のある声の片鱗が、思い出せば見え隠れしていたような気がする。


 これは俺が由希の兄だったから気付けたのだと思う。俺が兄として由希と過ごしてきた時間が「この声は聞いたことがある」という感覚を、頭の隅っこに引っかけてくれていた。


 この感覚がなければ、電話での会話を思い出しているときに由希の顔は頭に浮かんでこなかったと思う。そのまま彼女の言動に違和感を抱きつつも、答えには辿り着けていなかったかもしれない。


 俺の感想を聞いた由希は満足そうに頷く。


「もしかしたら私、声優の才能があるのかもね」

「声優というより声真似じゃないか?」

「そうかも。私に演技の才能はないみたいだしね」


 由希は俺の訂正を受け入れて、照れたように頭の後にある髪飾りの辺りをいじっていた。俺は別に彼女の演技について言及したわけではなかったが、彼女は自分をそう評価した。


 何を持ってしてそう評価したのか、彼女が明かすことはなく、ただ人形のように微笑むだけで、それ以降彼女は口を噤んだ。


 再び廊下に静けさが戻る。突然生まれた間は二人の間に緊張感を生む。


 由希はそれでも微笑みを絶やすことはなかった。対して俺も彼女の瞳から目を逸らさない。


「そろそろ良いか?」


 向こうにこれ以上話す気がないことを察した俺は、世間話でも始めるかのような、ゆったりとした温度感で由希に声をかけた。


「良いって何が?」

「俺のターン、始めても良いか?」

「人の会話ってお兄ちゃんが思ってるほど明確なターン制じゃないよ?」


 由希は俺のおかしな表現を聞いて声を出して笑った。廊下に彼女の軽やかな笑い声が響き渡る。響いていたのは彼女の笑い声だけで、俺はただただ彼女の笑った顔を真っ直ぐに見つめていた。


「良いよ、お兄ちゃんのターン。いろいろ聞きたいこともあるだろうし」


 笑い終えた由希が目尻を指で拭いながら、許可を出してくれた。彼女が言うとおり俺には聞きたいことが山ほどあった。


「じゃあお言葉に甘えて」


 そう前置きをしてから、改めて由希のことを見据える。由希も俺のことを真っ直ぐ見つめていて、視線が二人の間でぶつかった。


 相変わらず微笑んでいた由希だったが、助けを求めるように、瞳に悲哀が満ち満ちていた。


「どういうつもりだったんだ?」


 俺が簡単にそう問いかけると、由希は何事もなかったかのように、眉を上げて首を捻った。


「何が?」

「どういうつもりでこんなことしたんだ?」


 惚けたふりをする由希に対抗して、あえて同じような表現を繰り返す。


 由希はしょうがないと言わんばかりに軽く溜息を吐くと、肩を竦めて戯けて見せた。


「どういうつもりって、悪戯に決まってるじゃん。昔よく悪戯してたでしょ、私」


 確かに本人が言っている通り、由希は小さい頃、よく悪戯をするがきんちょだった。まあほとんどその対象は兄である俺で、何度も世話を焼かされたわけだが。今はその悪ガキだった姿は見る影もなく、真面目で真っ直ぐな女の子に育ってくれた。


 だから今更になって悪戯をされても、まあ昔よくやってたからなで納得できるものではなかった。


「昔の悪戯に比べると、ちょっとやり過ぎじゃないか?」

「そりゃあ私ももう中学生だから、悪戯の規模も大きくなるってものですよ」

「もう中学生なら悪戯なんてしないでほしいんだけどな」


 俺がそう言ってツッコむと、由希は「それはそうだね」と言って呑気に笑っていた。


「なんでまたこんなこと……悪戯なんてしたんだ?」


 また惚けられると面倒なので、明確にして言い直す。


「最近悪戯してなかったなーと思って」

「それだけで俺が納得するとでも思ってるのか?」

「そんなこと言われても、それ以上のことはないし」


 結局はぐらかされてしまった。絶対にそれだけの理由でこいつがこんなことをするわけがない。何かしらの動機を彼女は隠している。


 心の奥の方で、本心を大事に隠していると、彼女の瞳の揺らぎを見て俺は思った。


 そしてその本心がどんなものであるかを、半信半疑ながら俺は勘づいていた。


「質問を変える」


 俺はそう言って一度目を閉じる。このままただ気になることを聞いていても、適当に躱されて、由希が本心を語ることはない。回り道を余儀なくされて彼女の中心に辿り着くことはできない。


 俺は攻め方を変えることにした。視点を過程から結果に移した。


「どこまで本気だったんだ?」

「どこまでって、どこも本気じゃないに決まってるじゃん。悪戯なんだから」


 間髪入れずに由希は答えた。まるで予めその質問が来たとき用に答えを用意していたかのように、スラスラと。


 相変わらず彼女の顔には綺麗な笑みが貼り付いている。用意されていたかのようなその表情は整いすぎていて、彼女の気持ちが乗っているようには見えなかった。


「お兄ちゃんのことが好きっていうのも、見つけられなかったら自殺するっていうのも冗談だよ。だって私、お兄ちゃんの実の妹だよ? 好きになるわけないし、自殺に関しても、そんなこと考えるほど悩み抱えてないし」


 俺は何も言っていなかったが、由希は自分が俺のことを好きではないという話の補足をつらつらと語り出した。原稿を読むような滑らかな彼女の声に抑揚は少ない。


 実際彼女が言っていることには大体の人が納得するだろう。妹が兄に恋をするなんてことは、普通はあり得ない。自殺だって、毎日学校に嫌がることなく通い、部活で部員と共に綺麗な汗を流している彼女にとっては無縁の言葉だろう。


 しかし俺は頷くことも「そうだな」と同意を示すこともなく、ただただ彼女のことを真っ直ぐに見つめて黙っていた。


「ちょっと、どうしたの? 顔怖いよ。怒ってるの?」


 由希は俺が何も言わないのを見て、困惑したように苦笑いを浮かべた。その表情は今までと違い、自然に俺の目には映った。


 しかしすぐに作り物の浮ついた雰囲気が邪魔をしてくる。


「分かった! 人生初めての告白が私だって知ってショック受けてるんでしょ。確かに今思えば期待させるようなことして悪かったとは思ってる。この通り反省してるから許して?」


 由希は掌を拳で打って笑い声を上げると、胸の前で両手を合わせて反省のポーズをとった。片方だけ目を開けて、俺の様子を窺っている。


「何? そんなに怒ってるの? ごめんってば。もうこんなことしないって誓うから、怖い顔やめてよ。ね?」


 俺が何の反応も示さないでいると、間を埋めるように由希が言葉を並び立てる。


「ちょっと今回はやり過ぎたなーって思ってるし、お兄ちゃん以外の人にも迷惑かけちゃったのは本当にダメだったと思ってる。もしかしてそれを怒ってるの?」


 矢継ぎ早に言葉を発する。文面上は俺に何か答えさせようとしているのに、俺が口を挟む隙もなく、由希が次の言葉を口にする。


 それはまるで話が先に進むのを恐れているかのように俺は思えた。


 だから俺はあえて息を吸って少しだけ腹に力を入れる。


「それに関しては――」

「なあ。由希」


 続きをしゃべり出した彼女を遮って名前を呼ぶと、彼女はビクッと肩を震わせる。貼り付いていた笑顔は所々剥がれ落ち、今はぎこちない表情が残っている。


 緊張に支配されたその表情のまま、由希は息を呑んだ。


「もう一度聞く。どこまで本気だったんだ?」


 同じ質問を繰り返した俺は、改めて彼女の瞳を視界に捉える。揺れていた瞳は俺に焦点を定めてピタッと止まる。


 そのまま双方口を噤んだまま、しばらく何もせずに見合っていた。


 沈黙を破ったのは由希の豪快な笑い声。突然噴き出したかと思うと、腹を抱えて一階まで響き渡る大声で笑い出した。


 そんな彼女の姿を俺は静かに見守っていた。


「私が本当にお兄ちゃんのこと好きだと思ってるの? さすがにそれはないって」


 由希は苦しそうに息をしながら、涙目でそう言った。まだ笑いは収まっておらず、深呼吸をしながら息を整えている。


 その様子を見ながら俺は頭の中で、どうして由希が急に悪戯なんてしたのかについて考えていた。


 勘づいていた彼女の本心へと結びつけるために。


「さっきも言ったけどさあ。妹が兄に恋するとかあり得るわけないじゃん」


 由希は悪戯をした理由を最近してなかったからと言ってはぐらかした。


「そんなの漫画とか小説でも見ない話だよ? フィクションにもならない変な話」


 そんな理由でこんな大がかりなことをするとは思えない。


「まだ血が繋がってない兄妹なら分かるけどさ」


 だから俺のことが好きだなんていう嘘をついた理由が絶対に彼女にはある。


「私たちちゃんと血繋がってるんだし」


 わざわざそういう嘘を選んだ理由が彼女にはある。


「だから私がお兄ちゃんのことが好きとか絶対にない」


 なぜ由希はこんな嘘をついたのか。こんな嘘を選んだのか。


「絶対にないよ……。妹が兄を好きになるなんてことは」


 先程からの表情や声のぎこちなさは何か。


「そんなの気持ち悪い」


 俺からの追及をかわしたり、話を進めようとしないのはなぜか。


「お兄ちゃんも気持ち悪いって思うでしょ? 私がお兄ちゃんのこと好きって言ったら」


 彼女が嘘をついて悪戯をしたのはなぜか。


「私がお兄ちゃんの立場だったらドン引きするよ。気持ち悪すぎて」


 そもそもこれは嘘だったのだろうか。これは悪戯だったのだろうか。


「……本当、気持ち悪い……。お兄ちゃんのことが好きだなんて……」


 俺が意識を目の前に戻すと、いつの間にか由希は笑顔をしまい込み、自嘲気味に小さな声で呟いていた。


 まるで特定の誰かに対して言っているかのような言葉選びだった。


「最後にもう一回だけ聞く」


 俺が落ち着いた声でそう問いかけると、由希は目を閉じながら俯いた。


「どこまで本気だったんだ?」


 由希は一度溜息を吐くと、ゆっくり時間をかけて顔を上げる。日も陰ってきて薄暗くなっていた廊下では、彼女が顔を上げきるまで表情はちゃんと見えなかった。


「ねえ。お兄ちゃん」


 俺にそう呼びかけると、俺の反応を待たずに言葉を続ける。


「そこまで見破らなくて良かったのに」


 そこでやっと由希の表情がちゃんと見えた。彼女のおぼろげで触れれば壊れてしまいそうなうっすらとした微笑みが。


 見慣れない浴衣を着ているせいもあってか、このときの由希は別人のように俺の目には映った。


 はかなげな由希は、幻想的に綺麗だった。


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