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5-2

5-2.鳴り止まない蝉の声



「電車に乗っても良い? ここからだと遠いし、あんまり汗搔きたくないから」


 紗月はそう言って、俺を連れて尼崎駅の改札へと向かった。方向は大阪方面とは逆。一駅だけ電車で揺られて、立花駅で俺たちは降車した。


 車窓からの景色を見る限り、尼崎駅周辺よりは田舎よりのところだ。とは言っても千船よりかは栄えていて、駅の利用客も多い。改札を通って右側の出口から出たところでそんな印象を受けた俺だった。


 結局何度尋ねても、紗月が目的地を明かすことはなく、他愛もない世間話を交わしたり、見慣れない風景について感想を漏らし合うだけ。俺は日傘を差して顔が見えなくなった彼女の背中をただただ追った。


 歩数を重ねるごとに背の高い建物は減っていき、戸建ての家やアパートなどがよく目に入るようになる。小学校や公園で遊んでいる子供たちを目にしながら、閑静な住宅街を抜けていく。こんなところに女子高生が寄るところなどあるのだろうか。やはり俺の頭に浮かんでくるのは美容室くらいだった。


 三十分くらい歩いただろうか。汗が喉元を伝うのを感じる。紗月は暑さに文句を言うことなく涼しげに歩を進めている。


 日傘を差した紗月を横から見ると、どこかの大富豪のお嬢さまのように見える。そんなどうでもいい感想を抱いていると、踏切が見えてきて、そのすぐ隣に駅があることを確認した。名前は武庫之荘駅。阪急神戸線の駅らしい。


「この路線、千船あたりから遠いからねー。立花から歩くしかなかったの」


 俺が駅を見ていることに気付いて、紗月が補足してくれた。確かに阪急神戸線は俺たちの家の周囲には通っていない。一瞬この路線の電車を利用すれば、こんなに歩かなくても良かったのではないかと思ったが、それが不可能であったことを理解した。


「ごめんね? 暑い中、荷物持たせてこんなに歩かせちゃって」


 踏切を渡りながら紗月は振り返って謝罪を口にした。


「別にそれは全然構わないけど、そろそろどこに向かってるのかを教えてくれよ」

「着いたらすぐ分かるって。もうすぐそこだし」


 最後の最後まで濁しきるらしい。相変わらず楽しそうに笑っていた紗月の足取りは軽く、溜息をついている俺を置いて、鼻歌を歌いながら先に行った。


 踏切を抜けて少しのところにあるメルヘンチックな外装の美容室を目印にして左に曲がる。そこで紗月は前を向いたまま、俺に何気なく質問を投げかけた。


「花火大会、楽しみ?」


 とても素朴な質問だった。親が小さい子供にするような質問。だから俺は特に何も考えずに率直な思いを述べた。


「まあそれなりに。友達と行くの初めてだからな」

「ずっと家族で行ってたんだっけ?」

「ああ。毎年の恒例行事だったから」

「皆律希がいないと寂しがるんじゃない?」

「そうだな。妹あたりは泣きついてくるかもしれない。あいつ俺のこと大好きだからな」

「分かんないけど、ちょっとそれは自意識過剰なんじゃない?」


 紗月は苦笑交じりにそう言った。


 甘いな紗月。住ヶ谷家兄妹の絆をなめてもらっては困る。もし将来由希が結婚して、家を出て行くようなことがあれば、俺は泣いて引き留める自信がある。彼女を失った喪失感で一週間は寝込むだろう。それほど俺たちは互いのことを強く思い合っている。なんだか一方通行な気がしなくもないが。


「紗月はどうなんだよ」

「うーん、そうね……」


 俺は自分が受けた質問をそのまま紗月にぶつけてみた。彼女は少しの間、黙って考えるそぶりを見せる。やがて足を止めることなく、さらっと答えた。


「九割は楽しみかなあ」

「九割?」

「うん。九割」


 淡々とした声。聞き返しても回答は変わらない。言い間違えたわけではなさそうだ。


 そんな答え方をされて、残りの一割が気にならない人間などいないだろう。


 俺が人類を代表して聞こうと思っていると、紗月は横断歩道のない十字路を渡りながら、ぼそりと続きを呟いた。


「あとの一割は……怖い……」

「怖い?」


 その単語を耳にした瞬間に、俺の体には緊張が走った。


 楽しいという言葉とは真逆とも表せる怖いという言葉。その言葉が彼女のどういう思いから選ばれたのか。俺の頭はある台詞と結びつけようとする。


 ――私は……自殺します。


 それは花火大会までに俺が電話の相手を見つけられなかった場合の彼女の結末。俺が紗月を犯人だと疑っている以上、この結末を恐れての発言としか考えられなかった。


「怖いっていうのは……どういう意味だよ……」

「……」


 緊張で口が思うように動かなかったが、俺はなんとか彼女に真意を問うた。この問いに対する回答次第では、ここで詰めてしまう方が良い。


 きっと犯人も、紗月も見つけてほしがっていると思うから。


 紗月は言葉を選んでいるのか、しばらく答えなかったが、やがて絞り出すような声で答えてくれた。


「……なんか、いろいろ変わってしまいそうな気がするから」


 そう言って紗月は急に立ち止まった。思っていた回答ではなかったことと、彼女にぶつかりそうになったことで、俺の思考は一旦遮られる。なんとか紗月の体に触れる前に身を翻して、玉突き事故は防ぐことができた。


 いろいろ変わってしまう。それは何を指しての発言なのか。なぜそれを怖がっているのか。分からないことがまた増えてしまったが、取りあえず立ち止まった理由を聞こう。


 そう思っていたが、紗月は日傘をその場でたたむと、俺の方を向いた。


 そのとき紗月は穏やかに笑っていた。負の感情はどこにも見当たらなかった。


「着いたよ」

「……え?」

「いや、目的地。ここ」


 紗月は俺の反応の鈍さに首を傾げながら、両手で地面を指差した。そこで俺はどこかへと向かっていたことを思い出した。


 左を向くと四階建てくらいの建物が建っていた。紗月が立ち止まった位置的にここが予約していた目的地なのだろう。最初に目に入ったのは焼き鳥屋さんらしき看板だった。


「なんだ、予約ってご飯のことだったのか?」

「違うわよ。昼ご飯さっき食べたところだし、そこまだ開いてないでしょ」


 彼女の言う通り、俺の腹の中にはジャンクフードがまだまだ居座っている。もう少しインターバルが欲しいところ。焼き鳥屋さんも営業開始は十八時からと壁に立てかけられた小さな黒板に書かれていた。時刻は十五時前。もしここだったとしても張り切りすぎだろう。


「上よ、上」


 言われて俺は顔を上げる。すると、二階の窓に大きな写真が飾られていることに気がついた。


 一枚は小学校低学年くらいの女の子と男の子の写真。二人とも和装に身を包んで嬉しそうに笑っている。推測するに七五三の写真だろう。俺も五歳の時にこんな感じのやつを着せられた記憶がある。


 その隣の窓には、大人の男女が二人寄り添うようにして佇んでいる写真が飾ってあった。男性は黒っぽい袴を、女性は色鮮やかな振り袖を着ている。構図からして結婚式の写真だろうか。


 この二枚を見て、紗月がここで何をするのか、なんとなくぼんやりと察しがついた。答え合わせをするように三枚目の写真へと視線をスライドさせる。


 映っていたのは俺たちと同世代くらいの男女。男は落ち着いた紺色の、女子は淡くも華やかな浴衣を着ている。互いの見慣れないであろう格好を見合いながら、照れ笑いを浮かべている、初々しい写真だ。


 三枚の写真に共通するのは、服装がどれも和服であるということ。つまりこの建物の二階では、和服を販売なりレンタルなりしているということだろう。


 俺の推測は当たっていて、二階へと上がる階段の手前に貼ってある紙に、和服レンタル着付けという文字を発見した。そこで俺は、やっとはっきりと紗月の目的を理解した。


「花火大会用の浴衣か」

「そういうこと」


 俺の呟きに対して満足そうにそう答えると、紗月は階段を颯爽と上っていった。


 俺は紗月の浴衣姿を想像しながら、すぐに彼女の背中に続いて階段を上った。



「いらっしゃいませ」


 紗月が扉を開けて中に入ると、スーツ姿の女性二人が迎え入れてくれた。一人はショートカットの茶髪でもう一人はロングの黒髪。二人とも綺麗な姿勢で凜と立っていて、仕事ができそうな人たちだなあと、一目見て思った。


 おそらくロビーであろうその場所には、和服を着た人たちの写真がいくつも飾られており、実物の振り袖や袴なども、マネキンに着せられて展示されていた。


 見慣れないお召し物に囲まれた俺は、心の中で「へー」とか「ほー」とか感嘆の声を漏らしながら、グルッと一周室内を見渡した。視線を元の位置に戻すと、ショートカットの女性と目が合う。ニコッと微笑まれた俺は、どう反応して良いか分からずに、取りあえず会釈を返しておいた。


「十五時から予約してた一花です」

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 紗月が予約時間を言うと、カウンターの中にいた黒髪の女性が丁寧にお辞儀をして、紗月をカウンターの前へと案内する。二人の間でやりとりが始まって、紗月は説明を受けたり、何か紙に書いたりしていた。


 俺は少し離れたところで、飾られている写真や着物に目を移す。こんな和服もあるのかーと雑な感想を抱いていると、控えていたショートの女性が俺のところまでスッとやって来た。


「お荷物、こちらでお預かりしますね」

「あ、ああ。すいません」


 女性は笑顔で頷くと、俺から四つの紙袋を奪って、カウンターの横にあったロッカーの中へと丁寧にしまってくれた。


「すいません。ここに来る前に余計な買い物しちゃって」


 荷物を預かってくれたことに気付いた紗月が、申し訳なさそうに頭を下げる。


「全然大丈夫ですよ。お気になさらず」


 女性は変わらず笑顔で謝罪を受け流した。ロッカーに鍵をかけると、俺の元へと戻ってくる。


「鍵の保管はお客様自身にお願いしているのですが、よろしいですか?」

「分かりました」

「ありがとうございます」

「こちらこそ、すいません」


 女性は俺に鍵を渡すと、丁寧に腰を折った。俺は丁重すぎる接客に尻込みして、曖昧な笑顔で謝ってしまった。もちろん俺にツッコむことなく女性はカウンターの方に下がっていく。やっぱり仕事できる人たちだなあと改めて頭を搔きながら思った。


「ご一緒にお聞きになってもらっても大丈夫ですよ?」


 不自然に離れた位置に突っ立っていた俺を見て、紗月に説明していた女性が声をかけてきた。紗月もこっちへ来いと手招いている。


「じゃ、じゃあ」


 断るのも変だったので、おずおずと紗月の元へと近付いていく。


「ちょっと。恥ずかしいからシャキッとしなさいよ」


 しかめっ面で紗月はそう言うと、バシッと肩を叩いた。俺は言われたとおり背筋をピンと伸ばす。すると俺たちのやりとりを見ていた二人の女性に笑われてしまった。


「よろしいですか?」


 確認をとられて、俺たちは二人して俯きがちで頷いた。


 その後、三分ほどで軽く説明を受けた。浴衣だけのレンタルかと思っていたが、下駄とか小物類とか他にもいろいろとついてくるらしく、お金さえあれば本当に何も持っていなくても、浴衣で夏の雰囲気を楽しむことができるらしい。おまけにヘアセットもしてもらえて、着付けもしてもらえて、全部で一万円。これだけしてもらえてこの金額というのは安いと言えるのではないだろうか。


 その他規約やら保障やらの説明を受けたところで、女性は確認のために中へと下がっていった。俺たちはソファーへ案内されて、おとなしく座って待っている。


 紗月はその間もいろいろと説明が書かれた紙を読み込んでいたが、俺は暇だったのでなんとなく気になったことを彼女に振った。


「浴衣ってレンタルするものなのか?」


 夏祭りや花火大会に行けば絶対に浴衣を着た人を見かけるが、彼らも毎回レンタルしているのだろうか。俺は浴衣を持っていないので分からないが、てっきり何着か気に入ったものを買っているものだと思っていた。実際のところはどっちが主流なのだろう。


 疑問に思ったので聞いてみたのだが、紗月は一瞬だけこっちを見た後、すぐに紙へと視線を戻して、特に考える素振りも見せずに答えてくれた。


「大体皆買ってると思うよ? 少なくとも私の周りは皆買ってる。私は持ってなかったからレンタルにしたけど」

「へー。っていうか紗月が浴衣持ってないのって何か意外だな」

「そう? 和服って手入れが面倒だって聞くし、別に今まで浴衣姿見せたい相手なんていなかったからね」


「ふーん。今までは……ね……」


 まるで今になってそういう人ができたみたいな言い方。別にそんなところまで聞くつもりはなかったのだが、余計な方向に話を広げてしまった。


 紗月は俺がどうしたものかと視線を彷徨わせているのを見て、楽しそうに笑っていた。


「どうしたの?」

「いや、別に。良い浴衣、見つかると良いな」

「そうね。気に入ってもらえるのがあれば良いんだけど」


 わざわざ誰にという部分を省いた受動態を用いた彼女の顔を俺は見ることができなかった。俺に出来ることと言えば気付かないふりをすることくらい。あとは早くお店の人に戻ってきてくれと念を送ることくらいだった。


 俺の願いが通じたのか、一人の足音が近付いてきた。背けていた顔を正面へと戻すと、荷物を預かってくれた方の女性が立っていた。


「お待たせしました。中へどうぞ」

「ありがとうございます」


 俺は早くこの空気から解放されたくて、紗月よりも先にソファーから腰を上げた。その後に紗月はゆっくりと立ち上がる。後ろで溜息の声がしたような気がしたが、彼女は「よろしくお願いします」と言って、何気ない顔で女性について行った。


 俺も後ろから二人を追いかける。話が途切れてくれて俺は安堵していたが、先頭を歩いていた女性が俺たちの方を振り返って、


「失礼ですが、一つ伺ってもよろしいですか?」


 と控えめな笑顔で聞いてきた。


「なんですか?」


 紗月も笑顔でそれに応じる。俺は浴衣に関することだと思い込んでいたので、特に深く考えずに、二人のやりとりを見ていた。


 しかし、次の瞬間に女性の目に好奇心の光が宿ったような気がした。


「お二人はお付き合いされてるんですか?」


 俺は段差のない平坦な場所でこけそうになる。全然浴衣の話などではなく、めちゃくちゃプライベートな話だった。


 そんな話題がこの女性から飛び出すとは思っていなかったので、俺は取り乱してしまったが、紗月はというと、自然な笑顔で質問を受け止めていた。


「はい。私たち付き合ってます」

「おい」


 堂々と嘘をつく紗月に、小声で待ったをかける。しかし彼女は少し振り返って、ウインクをしながら口元を人差し指で封じた。


「大丈夫。否定するのも面倒でしょ?」


 そう言ってすぐに正面へと向き直る。何が面倒なのかは分からなかったが、前を向く寸前の彼女の表情を見て、この状況を楽しんでいることだけは分かった。


 女性は俺たちのコソコソとしたやりとりを見て、若干不思議そうにしていたが、すぐに笑顔を取り戻して、目に宿していた好奇心の光を強めた。


「やっぱりそうなんですね。なんとなくそうかなと思ってたんですよ」


 まあ勘違いされてもおかしくはないとは俺も思う。浴衣選びに男女でやって来るなんて、真っ先に付き合ってるんだろうなと思うのが普通だろう。正直俺もそういう気分でいたことも事実である。


「今日はご一緒に浴衣を選ばれる感じですか?」

「はい。せっかくなんで、彼に選んでもらおうかなーなんて思ってるんですけど」

「良いですねー。私も昔、当時付き合ってた人に選んでもらった浴衣で夏祭りに行ったことあるんですよ。懐かしいなー」

「そうなんですか? やっぱり好きな人に選んでもらうと、自分で選ぶより特別感あって良いですよね」

「そうですね。いつもより可愛くなれた気なんかしちゃって。早く浴衣姿見せたくて、夏祭りの数日前からそわそわしてた記憶があります」


 女性の思い出話を交えつつ、二人の間で話が盛り上がっている。女性は懐かしむように思い出話を語っていたが、とても懐かしむような年齢には見えない。見た感じ二十代前半くらいの印象。当時から十年も経っていなさそうだった。


 そんな女性とバッチリと目が合ってしまう。すると女性は何やら胸の前で小さくガッツポーズをとると、俺を見たまま小さく頷いた。


「彼氏さん、ちゃんと真剣に選んであげてくださいね」

「は、はい。頑張ります」


 応援という形で圧をかけられたのと、彼氏という言葉の響きが慣れなさすぎて、どもってしまった。取りあえず曖昧に笑顔を浮かべつつ、何度か頷いておく。


「よろしくね? か・れ・し・さん」


 紗月がわざと彼氏の部分を強調して、誘惑的にそう言った。完全に水を得た魚。付き合っているという設定を利用して、のびのびと俺を挑発してきている。


 本当であれば「何言ってるんだ」と言ってツッコみたかったのだが、設定がある以上彼氏という部分を否定できないし、何と言えば良いか分からなかったので、視線を逸らすことしかできなかった。


 決して、設定であっても紗月から「彼氏」と言われて嬉しかったわけではない。


「すいません。余計な話をしすぎてしまいました。どうぞこちらへ」


 女性は口元を押さえながら遠慮がちに頭を下げると、俺たちを奥の方へと誘導した。そこには最初に説明をしてくれていた黒髪の女性が立っていた。


 そしてその背後には大きな棚があり、数え切れないほどの着物や浴衣などの和服がたたまれて収納されていた。和服特有の鮮やかな色合いが棚いっぱいに広がっている。よく見ると棚は奥にいくつも重なっており、どの棚にもギリギリまで和服が収納されていた。ハンガーに掛けられているものもあるし、小物もとんでもない量が用意されているのが目に入った。


「浴衣以外の振り袖や袴なんかもここに収納されています。ここからお選びいただくわけではないのでご安心くださいね」


 これは選択肢が多すぎて逆に困りそうだなあと思っていると、俺の心中を察してくれたのか、女性が説明してくれた。相変わらず考えていることが筒抜けなのが恥ずかしくて、俺は何度も会釈して後ろに下がった。


「それでは選んでいきましょうか」

「はい。よろしくお願いします」


 黒髪の女性が笑顔でそう言うと、紗月も笑顔で応えて一礼した。


「お客様に選んでいただくのは、浴衣はもちろんのこと、帯や下駄など小物類も含めていろいろあるのですが、やっぱりメインの浴衣から選んでいきましょうか」


 紗月は「はい」と返事して一度頷く。表情を見てみると若干緊張しているのが分かった。


 女性は一度棚の奥へと引っ込んでいくと、サンプルらしき浴衣がいくつか掛かったキャスター付きのハンガーラックを転がして戻ってきた。


「こちらはお客様と同じくらいの年代の方に人気があるものになっております。一度こちらをご覧になってから、細かい部分を決めてもらうのが、当店オススメとなっておりますが」

「ありがとうございます。見てみますね」


 紗月は一言そう言って、浴衣の物色を始めた。俺はそれを黙って後ろから眺める。彼女が手に取るものは藍色や紫色、緑色など落ち着いた色が多い。というか持ってきてもらったものにそういう系統の浴衣が多かった。明るい色のものもあるにはあるが、寒色系のものの方が圧倒的に多かった。


「今年はこういう感じの色が流行ってるんですか?」


 紗月が俺も抱いていた疑問を女性に投げかけてくれた。これだけ多く用意されているということは、多分そういうことなのだろう。


 しかし女性の回答を聞くと、俺の予想は四分の一くらい間違っていた。


「そうですね。今年こういう大人っぽいデザインが人気なのは事実ですが、お客様の場合は特にこういった落ち着いた雰囲気の浴衣の方がお似合いかと思い、多めにピックアップさせていただきました」


 なるほど。まだここに来て数分しか経っていないのに、女性は紗月の大人っぽさを見出して、彼女に合いそうな浴衣を用意してくれていたようだ。確かに紗月に寒色系の色が似合うのには同意する。彼女の場合は色やデザインによっては色っぽさも出るので尚良いように思えた。


「もっと明るい系のものも見たいということであれば、ご用意しますが?」


 女性は紗月の言葉の裏を読んでそう言うと、棚の奥へと戻ろうとする。


「いや、えっと……。まあ、大丈夫です。もうちょっと見てみます」


 紗月は何やら歯切れの悪い返事を返して、手元に視線を戻した。女性も二歩くらい歩き出していたが、紗月の返事を聞いて戻ってきてしまう。


 別に見るだけならタダなんだから持ってきてもらえば良いのにと心の中で思いつつも、俺は口出しせずに、そのまま彼女の様子を見ていた。


「突っ立ってないで、律希も手伝ってよ」


 程なくして振り返った紗月に、拗ね顔でそんなことを言われた。


「手伝えって言われてもなあ」

「全部似合うはダメよ」


 先に釘を刺されてしまう。別に昼のアレは正直に答えただけに過ぎないのだが、そう言っても紗月が納得してくれそうにはなかった。


「律希はどんなのが良いと思う?」


 そう言って彼女は俺にハンガーラックの前を明け渡す。仕方なく彼女がいた場所に移動して、いくつか手に取って見てみた。


 柄もいろいろあるみたいだが、やはり花柄が多いようだ。確かに浴衣と言えば花柄のイメージはある。朝顔や紫陽花、牡丹や水仙に椿など、花の種類によっても結構雰囲気は変わるようだ。


「俺にそういうセンス求められても困るぞ」

「大丈夫よ。最初から期待してないから」

「おい。どんなやつ選んできても萎えない程度には期待しろよ」

「それって期待してないのと何が違うのよ」


 バカみたいなやりとりをしながらも、全体的に目を通す。やはりどれでも彼女に合う気がして、この中から一位を決めるのはどうしても難しかった。


「本当にセンスなんて気にしなくて良いわよ? 私は彼氏に選んでもらった浴衣を着たいだけだから」


 また設定を利用して紗月が挑発してくる。浴衣を手に取る俺の顔を覗き込んで、ニヤリと笑った。俺は手元に集中しているふりをする。表情筋に力を入れていないとにやけてしまいそうだった。


「選べって言われてもなあ」


 俺は頭を悩ませながら、二週目の物色に突入する。一度目にしてからであれば印象が変わるかもしれないと思ったが、結局最後の一着まで俺の手が止まることはなかった。


「無理だ。選べない」


 最終的に俺が出した結論はギブアップだった。良いのがないというネガティブな理由ではなく、どれも良さそうというポジティブな理由で選べない。どれをとっても紗月は着こなしてしまいそうで、どの浴衣姿も見てみたいと思ってしまった。


 俺としては良い意味で言ったつもりだったが、紗月は俺のギブアップ宣言を聞くと、ムスッとした顔になり、溜息を吐いた。


「そんなに私の浴衣姿に興味無いの?」

「そういうわけじゃない」

「本当は選べないんじゃなくて、何でも良いんでしょ。何着ても一緒だと思ってるんでしょ」

「違う。どれも似合いそうだって言う意味で選べないって言ったんだ」

「はいはい。そういうことにしておいてあげる」


 紗月は冷たい声でそう言うと、プイッと俺から目線を逸らしてしまった。どうやら伝え方を間違ってしまったようだ。こうなるのならどれか一つ無理にでも選んでおくべきだったか。そんな思考が過ぎる。


 しかしすぐに思い直す。そんな適当に選んでも紗月は納得しなかっただろう。


 何より俺が納得いかない。俺がなんとなくで選んだ浴衣を紗月が着ていても、俺は嬉しくもなんともない。


 その点に関して、俺は紗月とは違う信念を持っていた。俺にも一つ、曲げられないものというか、こうしてほしいという思いがあった。


「なあ。俺からも一個だけ言わしてもらっても良いか?」


 おふざけなしの真剣な声でそう言うと、紗月は手を止めて一度こちらを振り返った。しかしすぐにまた浴衣へと意識を向けてしまう。


「何よ」


 ぶっきらぼうではあったが、一応返事は返ってくる。それに満足した俺は、真面目な口調を続けた。


「お前は俺に選んでほしいのかもしれないけど、俺はお前に選んでほしいんだよ」

「……どういう意味?」


 さすがに言葉足らず過ぎたようで、紗月は思わずといった感じでもう一度俺の方を見た。表情には大きな疑問符が浮かんでいる。


 俺は徐々に肥大化しつつあった羞恥心をなんとか押さえ込んで、自分が持っている正直な考えを伝えることにした。


「もちろん俺が選んだ浴衣を着てくれるっていうのは、お前の……彼氏としてめちゃくちゃ嬉しいことだよ。でも俺が見たいのは、紗月が紗月自身で選んだ、自分が良いと思える浴衣を着てる紗月なんだ。俺の好みとか流行りの色とか、周りからのイメージとかは関係ない。自分の好みだけで選んでほしい。自分がなりたいと思う浴衣姿になってほしいんだ」


 俺が短い演説を終えると、その場全体がしーんと静まりかえった。紗月は俺を見ながら目を見開いたまま固まっている。俺もすぐにリアクションが返ってこないことに、内心戸惑って目を泳がせていた。


 見えている景色の動きが完全に止まっていて、時間が止まってしまったかのように思えた。ついにその能力が目覚めてしまったのかと思い、心の中で頭を抱える。


 まあ、いきなりそんな非現実的な展開が起こるはずもなく、やがて紗月は徐々に顔を赤くして、もの凄い速さで顔を背けた。そしてくるくると指先で髪の毛をいじり始める。その様子には今までの余裕はどこにも見当たらなかった。


「ちょ、ちょっと。そんな恥ずかしいこと店員さんの前で堂々と言わないでよ……」

「え? 恥ずかしいこと?」


 彼女が言ったことにはいまいちピンとこなかったが、取りあえず周りを見渡してみる。すると先程から接客してくれていた二人の女性と目が合った。二人とも微笑を湛えながら生温かい目でこっちを見ている。


 その瞬間に、足下から漠然とした羞恥が駆け上ってくるのを感じた。


「何? そんなに恥ずかしいこと言ってたのか俺は……」

「言ってたわよ。理想の彼女の浴衣姿について声を大にして熱く語ってたわよ。なんかやけに声のトーンとか表情とか真剣だったし」


 店員さんに聞かれないように、二人とも囁くように小声で言い合う。


 自分の発した言葉を振り返ってみると、紗月に言われたとおり、ガチトーンで結構恥ずかしいことを堂々とスピーチしていたような気がする。店員さんにあんな目で見られることにも納得がいく。


「なんで止めてくれなかったんだよ」

「私のせいにするわけ? 私だってあんたがいっきなり真面目にしゃべりだすから、びっくりしてたのよ」

「それはお前がガチで不機嫌になったからだろうが」

「それは律希が悪いでしょ? 女の子の浴衣を一緒に選ぶっていうときに、腑抜けた顔で選べないなんていう男がどこにいるのよ」

「別に腑抜けた顔なんてしてねーよ。それに選べないって言ったのは、さっきも言ったけどちゃんと理由があってだな……」


 俺たちの論争はまた最初の位置に戻ってしまい、堂々巡りを始めそうになる。二人とも結局店員さんに見られていることを忘れて、声の大きさも元に戻ってしまっている。完全に二人の世界に入っていた俺たちは周りを置き去りにしていた。


 そんな俺たちの目を覚まさせるように、甲高い電子音が俺と紗月の間をぶった切るようにして、この場に響いた。二人とも我に返り、音が聞こえた方に目を向ける。


 そこには白い固定電話があり、プルルルという模範的な、着信を知らせる音を奏でていた。側にいた黒髪の店員さんが電話の元に近寄っていく。


「少々失礼します」


 そう言って俺たちに向かって会釈すると、女性は電話を取った。俺たちも慌てて会釈を返す。その会釈には浴衣選びを進めずに言い争いを始めてしまってすいませんという、ちゃんとした謝罪の意が込められていた。


 一転して店員さんが電話で話す声だけが響き始める。その声を聞いていると、電話が紗月と同じように浴衣のレンタルに関するものだということが分かった。浴衣選びの日程を決めているのか、店員さんはカレンダーを見ながら、日にちと曜日を読み上げている。


 案外花火大会ギリギリまで予約を受け付けているんだなーとどうでも良いことを考えていると、隣でクスクスと控えめな笑い声がした。


 その隣を見るともちろん紗月がいて、口元を隠しながら、電話の邪魔にならないように声を抑えている。


 やがて笑いが収まると「はーあ」と深く息を吐いた。


「まあいいや」


 どこか嬉しそうに笑う紗月。その笑顔を見ていると先程言い争っていたことなど、どうでも良く思えた。


「律希がちゃんと真剣に考えてくれてたのは伝わったし、ここは私が折れてあげる」


 紗月はそう言うと、浴衣選びを再開する。ときどき手に取っては体に合わせて、自分に合うか確かめている。俺に意見をもらおうとすることはなく、一人で楽しそうに物色していた。


「本当に私が自分で選んで良いの?」


 途中改めて確かめるように尋ねてくる。俺はすぐに頷いて見せた。


「ああ。思う存分好きなのを選んでくれ」

「あーあ。私に変な浴衣着せて笑いものにできるチャンスだったのに」


 煽るように紗月がそう言いながら、浴衣に視線を戻した。確かにめちゃくちゃ奇抜な浴衣を選べば、紗月を辱めることができただろう。普段受けているセクハラとかで溜まった鬱憤を晴らすことができたかもしれない。


 少し惜しいことをしたなと思いながらも、俺は前言を撤回することはなかった。代わりに思いついたことを口に出す。


「そのチャンスは来年以降に取っておく」


 自然なトーンで俺は言った、まるで既に決まっていたかのように。


 俺がそんな風に切り返してくるとは思っていなかったようで、紗月は浴衣を選ぶ手を止めると、そのまま少しの間固まる。


 すぐに動きを再開した紗月はゆっくりと俺の方を振り返り、ニヤリと笑ってみせた。


「来年からは選ばせてあーげない」


 意地悪な感じでそう言うと、再び手元に視線を戻した。本来ならそんなの聞いてないとツッコむところだったが、俺の口からそんな言葉が出てくることはなかった。


 俺の心は安堵と喜びにもみくちゃにされて、それどころではなかった。


「申し訳ありません。浴衣の方はお決まりになりましたでしょうか?」


 そこへいつの間にか電話から戻ってきていた店員さんが割り込んできてくれた。そのおかげで俺に冷静になれる時間が来る。


 紗月は「そうですねー」と言いながら、何着かをピックアップした後、一着だけを右手に残して、その他の浴衣はハンガーラックへと戻した。


「これにしようと思うんですけど」


 持っているのは濃紺の生地に紫陽花と花火の柄があしらわれた、帯は白色の浴衣だった。夜を連想させる紺色に明るく淡い色の紫陽花と花火が映えている。帯が白色なので全体的な雰囲気が暗くなりすぎていない。大人っぽく上品でレトロな印象を受ける綺麗な浴衣。


 紛れもなく紗月の印象に合った素晴らしいものだった。


「よくお似合いになると思いますよ。お客様の大人っぽい雰囲気にもぴったりだと思います」

「もし選びきれない場合はこちらをオススメするつもりでおりました。少し上の年齢層向けの商品になりますが、お客様はお若いですし、お綺麗なので古くさくはならないと思います」


 俺が思っていたことを店員さんが代弁してくれる。更に紗月の背中を押すように、彼女が選んだ浴衣に太鼓判を押してくれた。少し前のめりになって薦めてくれている。お世辞には全く見えなかった。


「ありがとうございます」


 紗月も笑顔でそれに応える。満足そうに頷いてからもう一度浴衣全体を見る。後ろから見ていて、早くその浴衣を着た紗月を見てみたいと思った。


 紗月としてもこれだけ薦めてもらって、ここでわざわざ変える意味もない。店員さん二人の方を向くと、微笑みながら浴衣を差し出した。


「それじゃあ、これ――」

「ちょっと待ってください」


 紗月の声を遮って男の声が響き渡る。この場にいる人間で男は一人しかいない。


 声の主は俺だった。


 紗月と店員の二人は面食らったように俺の方を見て、目を瞬かせている。俺は三人からの視線を狼狽えることなく堂々と受け止めた。俺は明確な意思を持って紗月の声を遮ったし、この状況で口を挟む俺がおかしいことは理解していたから。


 その上で俺が言葉を向けるのは、おそらくこの場で一番驚いているであろう紗月ではなく、店員さんである黒髪の女性だった。


「そこら辺の明るい色系の浴衣って他にもあるんですよね?」


 俺はハンガーラックの端に掛かった数着の浴衣を指差してそう言った。そこにあったのはピンク色や黄色など、紗月が選んだ浴衣の色とは対極のもの。紗月があまり手をつけていなかった浴衣で、そのせいで端に追いやられていた。


 店員さんは自分に話しかけられていることを、数秒のラグがあった後に理解して、慌てて返答を返してくれた。


「は、はい。裏に用意してありますが……」

「申し訳ないんですけど、一回ここまで持ってきてもらえますか?」

「えっと……」


 店員さんは困惑の表情を浮かべながら、紗月の方へと視線を送る。助けを求められた紗月は、同じように眉間にしわを寄せて困っていた。


「何なのよいきなり。やっぱりあんたも選びたくなったってことなの?」

「違う。そういうわけじゃない」

「じゃあどういうことなのよ。自分で選べとか言っておきながら急に出しゃばってきて。ちゃんと説明しなさいよ」


 支離滅裂な俺の行動に苛立ったのか、少し声を荒げながら俺に詰め寄ってきた。


 確かに彼女の心情は理解できる。俺が何も言っていないので俺の言動に納得いかないだろうし、お店の人にも迷惑をかけているようにも見える。そういった意味でも紗月は怒っているのだと俺は思った。


 あまり彼女から怒りの感情を向けられたことのない俺は、普段なら既に尻込みして下がっていただろう。しかし今の俺は目線を逸らすことなく、正面から彼女に相対している。


 そしてしっかりとした口調で、彼女が求めていた説明を口にした。


「お前、本当にその浴衣が良いのか?」


 無音の空間には低い俺の声でも良く響いた。三人の耳にはちゃんと言葉が届いたはず。


 少なくとも紗月にはちゃんと聞こえていたようで、僅かに眉をピクつかせた。


 その後彼女はすぐに言葉を発さずに、引きつった顔で祖先を俺の足下に落とす。その反応だけで、俺からすれば回答を貰ったも同然だった。


 しかし紗月は顔を上げると、自分の気持ちを誤魔化すように、無理をして口角を上げた。


「当たり前じゃない。私が自分でこれ選んだの見てたでしょ?」

「まあ、見てたな」

「じゃあなんでそんなこと聞くのよ」

「勘でしかないけど、遠慮してるというか、妥協してるように見えたからな」


 ハンガーラックに掛かった浴衣は大半、紗月が今持っている浴衣のような、落ち着いた雰囲気のものばかり。若者っぽい明るい雰囲気の数着は、前述したように、紗月が手をつけなかったせいで端に固まっている。


 俺の目にはそれが、わざと手をつけなかった、わざと自分に合わない浴衣を視界に入れなかった、というふうに映った。


 紗月はその端に固まった浴衣を一瞥する。見ていた時間は一秒にも満たない。すぐに俺の方に向き直ると、顔に笑みを貼り付けて、首を横に振った。


「そんなことないわよ。ちゃんと私にはこれが良いと思って選んだ。律希はこの浴衣、気に入らないの?」

「いいや。むしろめちゃくちゃ紗月に合ってると思う」

「なら良いじゃん。店員さんもオススメしてくれてたし」


 話は終わりだと言わんばかりに紗月は俺に背を向けて、浴衣をもう一度店員さんに渡しに行こうとする。


「ちょっと待て」


 それでも俺はまだ食い下がった。紗月もそれが分かっていたかのように、俺が声を発するのと同時に足を止める。振り返った彼女は縋るような目で俺を見ていた。


「言っただろ。お前にはお前自身が着たいと思える浴衣を選んでほしいんだ」


 紗月はピクッと肩を震わせると、目を伏せて黙り込む。この反応を見る限り、俺が言いたいことを彼女は既に理解している。


 それでもあえて俺は改めて、伝えたいことを口にした。


「俺の好みとか、周りからどう思われているかとかなんて関係ない。自分のことだけ考えて、自分のために選んでほしい」


 一度言ったことを改めて伝え直す。そしてなるべく印象に残るような言葉を選んで、言いたいことをまとめた。


「私『には』これが良いじゃダメだ。私『は』これが良いじゃないと」


 俺がそう言うと、紗月はハッとした表情で顔を上げた。ちゃんと伝わってくれたようでホッとする。


 多分昨日までの俺なら、こんな差し出がましい口は挟んでいなかったに違いない。実際紺色の浴衣は紗月にきっと似合うだろうし、浴衣選びとしては模範解答だったのかもしれない。


 ただ今日、可愛らしいワンピースを着てヘアアレンジをした紗月に会って、彼女に対するイメージが変わった。おそらくこっちが彼女の素なのだろう。数時間服を見て回っただけだが、心からショッピングを楽しめているように見えた。


 別に今までが楽しめていなかったとかそういうわけではない。周りから期待される自分を演じる部分が少なくなって、素の自分として笑えていたような気がする。俺はこれからもそんな紗月を見ていたいと思った。


 これが勝手な解釈だと言われればそれまでだが、紗月が俺の発言に言い返してくることはなく、未だに黙り込んでいる。どうすれば良いのか分からないようで、目を泳がせている。


 そんな彼女の様子を見て薄く笑いながら、俺は進んでほしい方向に導くように声をかけた。


「紗月はどんな浴衣が良いんだ?」


 紗月は彷徨わせていた視線を俺の視線とぶつけて固定する。まだ迷子の子供のような困った顔をしていたが、やがて頬を赤くすると、恥ずかしそうに目線を逸らした。


「……大人っぽいやつというよりかは、もうちょっと可愛いやつが良い……」


 ボソボソと本当の気持ちを言葉にする。俺は聞き漏らすことなく彼女の言葉を受け取ると、頭をポンポンと二回叩いて、待たせていた店員さんの方を見た。


「すいません。さっき言ってたやつ、持ってきてもらえますか?」

「かしこまりました」


 店員さんも俺たちのやりとりを見ていたので、さっきみたいに躊躇うことなく、棚の奥へと戻ってくれた。


「なんか癪なんだけど」


 紗月は納得のいっていないムスッとした表情でそう言った。


「何が?」

「律希に言いくるめられたというか、全部見透かされてたのが癪」

「まあたまには良いだろ。いつも俺がお前の掌の上だったんだから」

「……それもそうね。たまには踊らされてみるのも良いわね」


 紗月は俺が挙げためちゃくちゃな理屈に渋々納得を示すと、照れや恥じらいを隠すように笑顔を弾けさせた。


 その無邪気な笑顔を見て俺は、子供っぽいというよりも、彼女らしいと思った。


 程なくして店員さんがもう一つのハンガーラックを引きずって戻ってきた。掛かっているのはカラフルで色鮮やかな浴衣。今まで見ていたものとは対照的である。


 紗月は一言店員さんに感謝を述べてから、躊躇なく浴衣に目を通し始める。そのときの彼女の目は、自分に合う浴衣を見極めるような難しく鋭いものではなく、ただただ自分の興味に身を任せた、キラキラと輝くものだった。


「あ……」


 しばらくしてから、紗月が声を漏らす。そして一着手に取ると自分の顔の高さまで掲げた。


 彼女が手に取った浴衣は、白色の生地に黒っぽい緑で茎と葉が描かれ、その先にはオレンジと白のガーベラが花開いているデザインだった。この花が描かれている浴衣はあまり目にしたことがない。


 とにかく素人の俺でも分かることと言えば、さっき手にしていた紺色の浴衣と色合い的には真逆ということだ。暗い色の部分が圧倒的に少なく、白地にオレンジ色の花が華やかに目立っている。帯が黄緑色ということもあって、全体的に明るく朗らかな印象を受ける浴衣だった。


「なんか今着てるワンピースと似てるな」


 同じ白い生地ということもあってか、俺は単純な感想を口にした。


「こういう色合い、好きなのよ」


 俺の感想に応えるようにして、紗月も言葉を漏らした。


 そして上から下までじっくりと視線を巡らせると、自分の体に合わせて鏡の前に立つ。


「似合うかな……。似合わないだろうなー」


 ボソッと呟いた疑問に、笑いながら自分で答えを出す。


 全然俺はそんな風に思わなかった。確かに落ち着いた大人っぽさは無いかもしれないが、代わりに華やかさと快活さが加わり、上品さもまだ残っていると思う。美人といえどまだ女子高生である紗月が、加わったそれらの要素を持て余すとは思えない。何より今同じようなデザインのワンピースを着こなしていることが、俺がこの浴衣を不安視しない根拠になっていた。


 今思っていることを伝えれば、紗月の不安を払拭することはできるかもしれない。


 しかし今彼女に伝えるべきことは、そこではないと俺は思い直した。


 紗月の元へ歩み寄り、肩に優しく手を置く。彼女の背中を押すように、穏やかに声をかけた。


「でもそれが良いんだろ?」


 そう問いかけると、紗月は手に持っていた浴衣を柔らかく抱き寄せて、前を向いたまま静かに「うん」と頷いて見せた。


 そのときの彼女の表情は、嬉しそうに綻んでいた。


「じゃあ決まりだな」


 俺の言葉を合図に紗月は、白色の浴衣を持って店員さんの元へと歩き出す。その足取りに迷いはなく、しっかりと自分の力で歩を進めていた。


「すいません。やっぱりこっちでお願いできますか?」

「かしこまりました」


 店員さんは特に何も言及することなく、紗月から浴衣を受け取った。何もなかった、何も見ていないといった感じで、自然な態度で振る舞ってくれている。きっと気を遣ってくれているのだろう。


 逆に紗月の顔には気まずさが滲み出ていた。


「あの……本当にすいません。わざわざオススメまでしていただいたのに、全然違うの選んじゃって……」


 耐えきれずに謝罪を口にして頭を下げる。店員さんは一瞬驚いたような顔をしたあと、苦笑いを浮かべながら、両手を胸の前で振った。


「全然気にしないでください。あれはあくまでお客様が迷われた場合のオススメですから」


 紗月は最終的に迷うことなく、あの浴衣を選んだ。そういった意味でも紗月が謝罪する必要はないと、暗に店員さんは言ってくれていた。


 紗月が顔を上げると、店員さんの表情は穏やかな笑顔に変わる。


「お客様がなりたい浴衣姿になるのが私どもにとっても一番ですから。しっかり自信を持って、この浴衣に袖を通してあげてください」


 紗月を励ますような温かい声音だった。無駄に手間を取らせてしまったのに、そんなことはおくびにも出さず、純粋に紗月のことを思って対応してくれている。紗月が選んだお店がここで良かったと密かに俺は思った。


 背中を押してもらった紗月は、嬉しさとか喜びとか感謝とか、その他諸々いろんな感情を詰め込んだ、今日一の笑顔を店員さんに向けた。


「ありがとうございます!」


 彼女のこの笑顔を見られただけでも、余計な口を挟んだ甲斐があったと思える。


 今後こういう飾り気のない笑顔が彼女に増えれば良いなと思っていると、不意に背後から肩を叩かれた。


 振り返るとそこにいたのはショートカットの店員さん。何の用かと思って目を合わせると、店員さんの表情はキリッとしたものに変わり、力強くサムズアップした。


 どういうことだろうか。全くその表情とジェスチャーに説明はなかったが、なんとなく雰囲気で「よくやった」的なニュアンスは伝わってくる。


 俺は戸惑った表情のままだったが、取りあえず同じように親指を立てて応えておいた。店員さんは満足そうに微笑んでくれた。



 その後、今日予定されていた諸々の打ち合わせは恙なく進んでいった。下駄や巾着袋などの小物やヘアメイクも好みのものを選び、軽い試着やら採寸やらも入念に行っていく。


「律希には当日まで見せたくない」


 紗月はそう言って、浴衣を試着した姿を見せてくれなかった。採寸の様子なんてのは言わずもがな。浴衣選びを終えた後、俺はやることがなく、ロビーにあったソファーへと追いやられてしまった。


 途中、気を遣ってくれたショートカットの店員さんと言葉を交わしながら待つこと小一時間。紗月はやりきったような充実感たっぷりの表情でロビーに戻ってきた。妥協のない納得のいく打ち合わせができたらしい。


 何も心配していたわけではないが、その表情を見るとホッとするのと同時に心がぬくもりで溢れる感覚があった。


「今日はありがとうございました。当日もよろしくお願いします」


 紗月は深々と店員さんに向かって頭を下げた。俺も迷惑をかけたことを謝る意味でも頭を下げる。


「こちらこそありがとうございました。日曜日、またお待ちしております」


 俺たちは店員さん二人に笑顔で見送られながらその場を後にした。


 というわけで、俺たちは今家路についており、駅に向かって二人並んで歩いていた。時刻は十六時半を回ったところ。夕方と言っても差し支えない時間帯ではあったが、昼に溜め込んだ熱気はまだまだ健在であり、ちょっと歩いただけで汗ばんでくる。


 行きのときとは違い、今は紗月の日傘に入れてもらっているので、日差しからの暑さはいくらかマシだった。


「はあ……。本当にあの浴衣で良かったのかな……」


 戸建ての家に挟まれた道を歩きながら、突然紗月が深い溜息をついて、肩を落とした。未だに自分で選んだ浴衣に自信が持てないらしい。


「終わった後のあの満ち足りた表情は何だったんだ」

「こういうのよくあるでしょ? 時間が経ったら段々不安になってくる感じ。テストとかもそうじゃん」

「まあ言ってることは分かるけど」


 どれだけそのとき自信があったとしても、考えれば考えるほど、もしかしたらあそこは違ったんじゃないかとか、こっちの方が良かったんじゃないかという不安の種が、湯水の如く湧いてくるものだ。紗月もその状況に陥っているのだろう。


 解決策としては考えないようにするしかないが、そう簡単にはいかないものだ。考えないようにしようとすればするほど考えてしまう。


 まさにその通りになっているらしい紗月は、立て続けに溜息を吐いては唸っていた。


「どうしよう……。皆に似合ってないって言って笑われたら……」

「その分俺が笑わないでいてやるから安心しろ」

「……どうしたの? そんなかっこいいこと言って。もう彼氏じゃなくて良いのよ?」

「周りの笑い声が気にならないくらい爆笑してやる」

「はーあ。かっこいいとか言って損した」


 紗月は首を振りながら、俺の肩を軽く叩いた。どうやら彼女が求めている回答ではなかったようだ。


 俺は反射的に励ましの言葉をかける。


「ドンマイ」

「誰のせいだと思ってるのよ」

「誰のせいなんだ?」

「あんたに決まってるでしょ」

「それは驚いたな」

「何それ。さっきから適当にしゃべってない?」

「しょうがないだろ」

「しょうがないって何よ」


 紗月がふて腐れた顔でそっぽを向いた。その様子を横目に見ながら俺は別のことを考える。


 俺がこんな投げやりな対応になるのも仕方がなかった。家路についてからずっとその別のことを考えていたから。


 これ以上先延ばしにする意味はないだろう。どれだけ俺がこのことから目を背けようと、三日後には正面からぶつからなければいけないこと。


 いつでも向かい合えるわけでもないし、今が絶好のチャンス。それは今日彼女に会ってからずっと思っていたことだが、俺に根性がないばかりに、なあなあにし続けてしまった。


 浴衣選びを経てやっと決心がついた。


 ほぼ彼女が、彼女であることは確信を得ている。今日一日共に過ごしてみて、俺の勘違いでは済まされないことがあまりにも多すぎた。どれだけ俺の自意識が過剰であると言われても、さすがに見過ごすことはできない。


 四日目にして俺が出した答え。それは俺が歓迎すべきことでもあり、拒絶したいことでもあった。


 どうしても後ろ向きな部分が残ってしまう。それは全て彼女が電話で残した言葉に起因していた。


 そこを含めて彼女には聞きたいこと、聞かなければいけないことがたくさんある。



 ――私はこうじゃないと、伝えられないから。



 ――私はこうでもしないと、あなたの印象に残れないから。



 あれはどういう意味だったのか。


 そして何より。



 ――私は……自殺します。



 苦し紛れに絞り出したようなあの台詞。どうして、どういうつもりであんなことを言ったのか。


 聞き出すためにも俺はここで口を開いて声を出さなければならない。結果は分かりきっているはずなのに、俺の口の中は乾ききっていて、しゃべりづらさを極めていた。


 それでも無理やり言葉を捻り出す。


「なあ、紗月」


 思ったより掠れていて、思ったより低い声が出た。


「何?」


 左隣から何気ない声が聞こえてくる。彼女のことは視界に入っていなかったが、声の聞こえ方から、こっちを向いたのが分かった。


 俺も彼女の方を向くべきか。数秒の間迷ったが、俺は真っ直ぐ前を向いたままにすることに決めた。


 そして勝負に決着をつけるべく、声が震えないように気を付けながら、俺は口を開いた。


「電話してきた相手、あれ、お前だろ」


 頭を悩ませた時間は長くても、言葉にして伝えるのは一瞬である。


 俺が短く纏めた答えを口にすると、日傘の下は静寂に包まれた。言い終えてから心臓が暴れ始めて、緊張が体を支配する。


 早くこの緊張から解放されたい気持ちをなんとか抑えて、俺は急かすことなく、しばらくそのまま足を止めずに歩き続けた。


 待つこと十数秒。なぜかなかなか回答が返ってこない。二文字、ただ「はい」と応えてくれるだけで良いのに、余りにも間が長すぎて、違和感を覚えてしまう。


 思わず顔を動かして左を向く。するとそこに彼女の姿はなく、誰かがいた空間だけがそこにはあった。


 一瞬消えたのかと思い、慌てて後ろを振り返る。さすがにそんなことはなく、数歩離れた場所に彼女は立っていた。


 足下からなぞるように彼女を自分の瞳に映し出す。最終的に辿り着くのは彼女の表情。


 てっきり笑っていると思っていた。いつもの意地悪な微笑みを浮かべて「見つかっちゃった」と言って戯けてみせると思っていた。それを見て俺も、どう反応して良いか分からずに、曖昧な笑みを浮かべるのだと漠然と思っていた。


 しかし現実はそうではなかった。


 彼女は、紗月は、俺の方を真っ直ぐ見て、コテンと首を傾げていた。



「電話って何の話?」



 純粋無垢な表情が瞳に突き刺さる。


 彼女の透き通った声が鼓膜を揺らす。


 聞き間違いようのない、はっきりとしたその声に俺の胸がざわつき始める。


「……何って、この前の日曜日、俺に電話かけてきただろ?」


 なんとか表情を繕って、事実確認の言葉を紡ぎ出す。どうせ悪戯で惚けているだけだろう。どうせ次の瞬間には舌をペロッと出して謝ってくるに決まっている。


 そう思っているはずなのに、上手く笑えてるかも、声が震えていないかも自分では分からなかった。


 紗月は記憶を旅するように、眉間にしわを寄せて左下の一点に視線を固定する。


 こんな状況下でも彼女の美しさだけは変わらず、顔をしかめているはずなのに切なげな表情に見えてしまう。


 映画のワンシーンみたいだと、現実逃避するようにそんなことを思った。


「電話なんてした覚えないけど」


 彼女は俺から投げかけられた疑いを変わらずあっさりと否定する。返ってくるはずの肯定の言葉が聞こえてこない。


 本当は彼女が認めるまで同じ質問を繰り返そうと思っていた。


 でもやめた。


 とても演技とは思えない、何が何だか分かっていない紗月の困り顔を見ていると、それが無意味なことは明白だったから。


 俺は視線の行き場をなくして地面へと下ろす。そこから湧き出てきたぞわぞわする不快感が両足を這い上ってくる。


 寒気がして体を震わせると、近くで蝉が一匹鳴き始めた。その蝉の鳴き声が俺の思考を埋め尽くすようにして、頭に響き渡る。


 やがていつのまにか飛んでいっていた蝉だったが、鳴き声だけが耳鳴りのように、俺の中で反響し続けていた。


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