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4.幼馴染みの距離感
翌日。水曜日。時刻は午後三時を過ぎた辺り。昨日や一昨日とは異なり、今日はカレンダーに何の予定も書き込まれていない。つまり俺は暇を持て余していた。
持て余しすぎた暇が、両手からポロポロとこぼれ落ちていく。勿体ないのでご近所さんに分けてあげたいくらいだ。
俺は取りあえずベッドに寝転んで、扇風機から送られてくるぬるい風を全身で浴びながら、昨日得た情報の整理へと思考を傾けることにした。
今回の件における重要な情報が一つ。悠那は電話をかけてきた犯人ではなかった。
悠那が犯人ならさすがに電話について尋ねたときに、それっぽい反応はもらえたはずだ。間の長い拍手をしながら、ほくそ笑むような表情で「コングラッチュレーション」と言ってもらえるはず。
そんなデスゲームのゲームマスターみたいなリアクションはなくとも、何かしら肯定の反応を見せてくれるだろう。
しかし彼女は本当に電話については心当たりがなさそうだった。俺にはそう見えた。何も分かっていなさそうに小首を傾げていた姿が印象深い。彼女が演技派女優だった場合はまんまと引っかかったことになるが、俺の知る限りでは彼女にドラマや舞台への出演履歴はないし、演劇部に所属していたなんて事実も聞いたことがない。彼女が俺を騙しているなんて考えていてはきりがない。
一旦悠那は容疑者から除外して良いだろう。総合的に見て俺はそう判断した。
そうなってくると、犯人は残りの二人のうちのどちらかということになる。
綾乃か紗月か。目を瞑って頭の中で二人の顔を思い浮かべる。どう考えても俺一人では背負いきれない美少女二人だ。
別に俺に選択権があるわけでもないので、この言い方は正しいとは言えないのかもしれないが、この状況は俺にとって贅沢すぎる究極の二択だった。
泉に斧を落として、そこから出てきた水の神様に「お前が落としたのは金の斧か? それとも銀の斧か?」と問われている気分。寓話の中のおじいさんは正直者だからどちらとも否定するらしいが、今の俺はどちらともただただ恐れ多すぎて断ってしまうだろう。ましてや俺の場合、元々落とした斧もプラチナ(悠那)なので、それも断って猛ダッシュで逃げてしまうレベルだ。
ただその残された二人の可能性としては、全くの五分というわけではない。確実に片方に向かって傾いている。金と銀で原子量が異なり重さが異なるように、二人がシーソーに乗ったなら、均衡が保たれることはなく、どちらか片方のお尻は地面に着地し、もう片方は宙を浮遊するのだ。
何が言いたいかというと、由希に相談したときにも話題に出たが、綾乃は迅という彼氏がいることに加えて、告白してきた俺を一度振ったという絶対的な力を持った事実を抱えている。あまり何度も思い出したくはないが、この二つのことを考慮しないわけにはいかない。
これらは綾乃が犯人であるという可能性を極限まで薄めていた。
そして片方が薄まるということは、もう片方が相対的に濃くなるということ。
つまり現状を整理すると、俺に電話をかけてきた犯人として最も可能性が高いのは紗月であるという結論が、一切個人的な感情を含めずに導き出されていた。
「いやあ……、あり得るのか? そんなこと……」
あまりにも自分にとって都合が良すぎる結論を頭脳が受け入れようとしない。口からは自然と否定的な独り言が漏れ出ていた。
俺にとって好意を寄せる憧れの少女。一目惚れしてからずっと思い続けている美少女。ちょっと言葉を交わしただけでも、それまで沈んでいた俺の気分は上を向くし、普通に世間話をするだけでも、俺の心は十二分に満たされるし、少し話し込んで笑顔なんて向けられた日には、今までの嫌な思い出なんかは簡単に吹っ飛んでしまうような、そんな女の子。
それが俺にとっての一花紗月である。
そしてその彼女が俺のことを恋愛的な意味で良く思っているかもしれない。このような、世界が自分を軸にして回っているかのような解釈が、すんなりと俺の目の前を通っていいはずがない。全て俺の妄想だと言われた方が、十分信じるに値する。
客観的に見れば、その結論に行き着くことに一切不思議というか不可解な要素はないし、何度冷静になって考えてみても、同じ結論が導き出される。
それでも俺はその結論を前にすると、自分を疑うことしかできなかった。どこかで好ましい方向にねじ曲げているとしか思えなかった。自分に自信を持てなかった。
「まあ、だとしても……」
俺のやることは決まっている。簡単にして単純。どれだけその結論が信じられないのだとしても、俺が二人にあなたが犯人かどうかというのを直接聞けば、すぐに分かることだ。
ベッドの上でぐだぐだ考えていても状況は変わらない。行動あるのみ。理解していても実行するのは難しいものだ。
「やるしかない……か……」
俺の溜息交じりの中途半端な呟きは、扇風機からの風に乗って、真夏の青空に向かって飛んでいった。今日も恨めしいことに快晴。とても行動に移す気にはなれない暑さだった。
しかし、そんな暑さをもろともしない少女が一人。
「りーつーきー。あーそーぼー」
窓の方から屈託とか邪気とか、昼間に大声で人の名前を呼ぶことに対する恥じらいとかが一切無い声が聞こえてきた。十七年間ずっと聞き続けてきた声。誰かを判別するのは呼吸するのと同じくらい簡単だった。
俺は仕方なく上体を起こすと、少し汗ばんだ背中を気怠げにボリボリと搔く。改めて部屋の中のむさ苦しい空気を全身で感じて、動く気が失せそうになったが、このまま放っておけば俺の名前が地域全体に知れ渡ってしまいそうなので、やむなくベッドから立ち上がった。
足の親指で一度扇風機の電源ボタンを押し、声のした窓の方へと向かう。網戸をガラガラッと勢いよく開けて、門扉の方へと目をやると、暑さを感じさせない爽やかな表情で少女が立っていた。
俺の推測が外れるわけもなく、その少女は綾乃だった。
「りーつーきー。あーそーぼー」
「今どきそんな遊びの誘い方をする小学生はいないぞ」
「ええ! そうなの? 最近の子はケータイとかで誘ったりするのかな……」
「反応してほしいのはそこじゃないんだが」
こいつはナチュラルに自分の精神年齢を小学生レベルとして受け入れているのだろうか。だとしたら謙虚なことだ。古くから彼女のことを見てきた友人としては、もうちょっと成長してほしいものなのだが。
「何か用か?」
「スイカ! 田舎のおばあちゃんの家から届けてもらったのー。一緒に食べよー」
よく見てみると綾乃は両手で大きな皿を抱えており、その皿の上がスイカらしき赤色で染まっていた。わざわざ食べやすいように切り分けてから持ってきてくれたらしい。まあ十中八九お母さんが切ってくれたのだろう。不器用なこいつにスイカを捌けるとは思えない。
特に用事もなく尋ねてきたのだとしたら、適当な理由を付けて追い返そうと思っていたが、彼女が手土産を持っている手前、このまま追い返すのは忍びない。
「ちょっと待ってろ」
「はーい」
満面の笑みに見送られて、俺は窓に背を向け自室を出る。階段を下りて誰もいないリビングを横目に廊下を歩く。玄関に辿り着き鍵を開けて扉を開けると、カンカン照りの日差しと共に湿度も温度も高い不快な空気が俺を迎えてくれた。
「お邪魔しまーす」
いつの間にか玄関の前まで来ていた綾乃は、俺が声をかけるよりも先にスルスルッと玄関の横を通り過ぎて行き、慣れた様子で躊躇なく、リビングへと向かっていった。昔はほぼ毎日来ていたぐらいだったので、最初の挨拶以外まるでここの住人のような態度だ。最初の挨拶も形だけで、心はこもっていなかったが。
俺はドアを閉めて施錠し、彼女の背中へと続く。リビングへと入った瞬間に振り返った綾乃は眉間にしわを寄せてぐったりした顔をしていた。
「なんでクーラー入ってないの?」
「お前、さっきまでの爽やかな感じはどこ行ったんだよ」
「もうすぐ涼しくなると思って頑張ってたの」
「悪いが我が家には、俺一人のために稼働してくれるエアコンは無いんだ」
今日は夏休みと言っても、世間的にはただの平日。父親も母親も仕事で家を出ているし、妹の由希は部活に行っている。そんな中ただ、ぐうたらしているだけの俺のために、安くない電気代を払って部屋を冷やすことは許されていない。住ヶ谷家は長男に対して厳しいのだ。
「由希ちゃんがいると思ってたんだけど」
「あいつは部活だ。何やらレギュラー争いが過激化しているらしい」
「野球頑張ってるんだ」
「ああ」
昨日もそのことを愚痴っていた。由希はショートのレギュラーだったのだが、最近成長期を迎えて一気に背が伸びた同級生にポジションを奪われそうになっているらしい。顧問の先生は由希を外野にコンバートしたいとのこと。女子でありながら体格差のある男子とポジション争いしている時点で凄いし、外野でまだレギュラーの頭数に入れてもらえているのなら何も悔しがることはないと思うのだが、由希は一つも納得できていなかった。
「ふーん」
「どうしたんだ? 由希に用があったのか?」
「別に。まだお兄ちゃんの背中追いかけてるんだなーと思って」
意味深にそう呟きながら、懐かしそうに綾乃は目を細める。妹を可愛らしく思っている表情にも見えた。
「バカ言え。万年代走要員だった俺の背中なんてとっくの昔に追い抜いてるだろ。追いかけてたとしても、俺は周回遅れだ」
「それもそうだね。野球で律希が由希ちゃんに勝ってるところ一つもないし」
「全肯定されるのは、それはそれで傷つくんだが」
自分で言ったことにも彼女の言ったことにも偽りがあるわけではなかったが、若干俺のテンションは下がっていた。まあまともに上手くなろうと努力していなかった俺が悪いのだが。
「ほら、扇風機」
綾乃をソファーに座らせて目の前に扇風機を持ってきてやる。正直綾乃が来たのならエアコンをつけても許されるとは思うが、なんとなくこいつのために電気代を多く払うのは癪だったので、扇風機で我慢してもらうことにした。まあ俺が払ってるわけじゃないんだけど。
「えー、エアコン付けてよー」
「嫌だったら帰っていいぞ。スイカだけ置いていけ」
「エアコン、ツケテヨー」
「宇宙人っぽくしてもダメだ」
綾乃は扇風機の風を浴びて、ポニーテールを靡かせながら、ガックリと肩を落としていた。諦めが付いたようで、ソファーを背中に預けてゆったりくつろぐ体勢になる。
俺はスイカ用にキッチンから爪楊枝を二本持ってきて、一本綾乃に手渡した。
「サンキュー」
手だけを動かして爪楊枝を受け取ると、綾乃は深く息を吐いて体を起こし、スイカを一片刺して、口の中に放り込んだ。満足そうな笑顔を浮かべながらまたくつろぎモードに入る。
その様子を見ながら俺は溜息を吐いた。
「お前さあ、もうちょっと慎ましくしたらどうなんだ?」
「ええ? なんでえ?」
「昔から知ってるとはいえ、お前は今、彼氏でもない男の家に上がり込んでるんだぞ」
周りから見れば幼なじみと称される関係ではあるものの、その前に俺と綾乃は男と女。ましてや綾乃には迅という交際相手がいる中で、俺という別の男の家で、上は半袖Tシャツ一枚、下は薄いハーフパンツでスイカをムシャムシャと食べながら、四肢を投げ出すような体勢でくつろいでいるというのは、どう考えても問題があった。
「なんで今更律希に気を遣わなくちゃいけないのよー」
「俺にもそうだけど、迅に気を遣えって言ってるんだ」
ラフすぎる格好を指差して俺は苦言を呈する。服のいろんな隙間からいろんな見えてはいけないものが見えそうになっていた。俺は引力に何とか逆らって目を明後日の方向へと向ける。
そんな俺の様子を見ながらも、綾乃は特に何の反応も示さずにスイカを貪っていた。
「だから迅も言ってたじゃない。私と律希の仲が良いのは嬉しいことだって」
「それとこれとは話が別だ。あいつだって他の男の前でこんなに素肌晒してるお前を見たら黙ってないだろ」
「私たち裸を見せ合ったことだってあるんだから、今更そんなこと言ってもしょうがないじゃん」
「そんな昔の話を持ち出すな。俺は今の話をしてるんだ」
確かに綾乃とは何度か一緒に風呂に入ったりしたことがあるが、もう記憶にないくらい昔の話だ。どんな体をしていたとか、どこにホクロがあったかとかは全くもって覚えていない。覚えていたらキモすぎるだけなんだが。
だからあれは無効のはずだ。有効だとしても時効のはず。俺は強気な態度を崩さずに睨みを利かせた。
「はいはい。分かったって。こうすればいいんでしょー」
不承不承といった感じで口を尖らせながら綾乃は脚を揃える。俺は溜息を吐きながら、彼女の隣に少し空間を空けて座った。
「別にそんなに意識しなくて良いって」
「そうも言ってられないだろ。迅のこと考えろって何回言わせるんだ」
「律希こそさっきから迅の名前ばかり出して。迅は渡さないよ」
「絶対に貰わんから安心しろ」
意味のない不毛なやりとりをした後に、俺は爪楊枝でスイカを口に運んだ。口の中にほのかな甘みと冷気が広がっていく。どうやら予め冷蔵庫で冷やしてきてくれたようで、気持ちの良い舌触りだった。
続けてもう一欠片口に放り込んだところで、呟くように綾乃が言葉を漏らした。
「久しぶりだなー。律希の家の中入るの」
「そうか?」
「うん。二ヶ月ぶりくらい」
世間一般的に考えれば、二ヶ月ぶりというのは久しぶりという感覚ではないかもしれないが、毎日来ていたこともある綾乃からすれば、その期間は紛れもなく久しぶりと称せるものだった。
実際俺も同じような感覚で、前回がいつだったかは覚えていない。
「律希、何かちゃんとした用事がないと入れてくれなくなったしね」
「普通はちゃんとした用事もなく他人の家に立ち入ったりはしないものだぞ」
「小さいときは入れてくれてたじゃん」
「そりゃあ小さいときだったからな。あのときは遊ぶという大切な用事があった」
「中学生のときも入れてくれてた。私の一方的なおしゃべりに付き合ってくれてたでしょ」
「お前が来た日、偶々俺が暇だっただけだろ」
「何日も続けて偶々暇だったの?」
「何日も続けて偶々暇だったんだ」
俺は綾乃と目を合わせることなく、窓の外を見ながらそう答えた。後頭部に綾乃のじとっとした目線が突き刺さる。俺にはそれに気付かないふりをして、早く新たな話題を出して話を変えることしか頭になかった。
「今みたいにギスギスし始めたのってさあ」
「別にギスギスしてない」
「高校に入ってからだよね。いや、中三の三学期からか」
俺の言葉を無視して綾乃は勝手に話を、というか推理を進めていく。この先に面倒な未来が待っているとしか思えなかった俺は、早急に話の転換を図りたかった。
「そんなことより――」
「もしかしてだけど」
俺の攻撃はするりとかわされて、綾乃のターンは終わらない。俺の方に体ごと向けて、前傾姿勢になって詰め寄ってくる。俺はそれに合わせて上体をのけぞらせて、固唾を呑んだ。
しばらくその状態で見つめ合う。すると綾乃はニヤリと口角を吊り上げて、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「私に振られたこと、気にしてるんでしょ?」
俺の神経を逆なでするような粘っこい声を聞いた瞬間、表情にピシッとひびが入る音がした。じわじわと頭に血が上るのを感じると同時に、鼻翼がどんどんつり上がっていく。
気付いたときには、俺は綾乃の左右のこめかみに拳をぐりぐりと押し付けていた。
「痛い痛い! 暴力反対!」
「お前がムカつく言い方するからだ」
「分かったって! 今度はもっと優しく言うから!」
「なんで二度目があると思ってるんだお前は」
「ぎゃああああ!」
綾乃の悲鳴が俺たち二人しかいないリビングに響き渡る。窓も開いているし、これ以上叫ばれてはご近所さんに迷惑なので、俺は仕方なく綾乃を解放した。
飛び退くように俺から離れた綾乃は、涙目で恨めしそうに俺のことを睨んでいた。その表情を見て満足した俺は、スイカを頬張って頭の熱を冷ました。
「女の子に対する扱いとは思えないよ……」
「こんなときだけ女の子を語るな」
容赦ない言葉をかけつつも、少し熱くなりすぎたことを反省し、これ以上はやめておこうと心の中で誓う。その雰囲気を感じ取ったのか。綾乃がまだこめかみを押さえつつも、話を戻した。
「それにしても、気にしてたんだ、振られたこと」
「当たり前だろ。振った振られたの男女なんて気まずくなるに決まってる。こうして積極的に関わってくるお前がおかしいんだ」
俺は溜息交じりに瞑目しながらそう告げた。
改めて説明すると、俺は中学三年の三学期、綾乃に告白して振られた。それはもう俺の短い人生において最大で最悪の事件であり、これから先どれだけ時間が経とうとも、これからどれだけ素敵な思い出に恵まれようとも、その記憶が上書きされることはないだろう。
そう確信できるほどに俺にとってショッキングな出来事だった。
「だって私たち幼馴染みじゃん」
「幼馴染みだから余計に気まずいんだよ」
正直俺は二つ返事で告白を受け入れてもらえると思っていた。しかし、現実は真逆で即答による拒否。そういう風に律希のことを見たことないという返事と曖昧に笑った表情を受けて、俺の頭の中は真っ白になった。そして今までどういう態度で、どういう言葉遣いで、どういう距離感で彼女と接していたのかが、一気に分からなくなった。
綾乃と顔を合わせるのが怖くなった。
「そういうものなのかなあ。私には分かんないなあ」
だから翌日から何もなかったかのように綾乃から話しかけられたときは、戸惑いを通り越してプチパニックを起こしたのを覚えている。こいつは正気なのかと彼女の人間性を疑った。何日か顔を合わせないように避けたりした。元気な俺の名を呼ぶ声も聞こえないふりをしたりした。
それでも綾乃は変わらなかった。毎日ケロッとした顔で当たり前のように挨拶をしてくる。数日が経てば、俺はもう諦めが付いていた。こいつはこういう奴なんだと。綾乃にとって俺は振った相手ではなく幼馴染みのままなのだと。
おかげでこうして疎遠にならずに、隣でスイカを頬張れているわけだが。ただ、俺の心の整理がつくかどうかは別問題で、今でも油汚れのようにこびり付いた気まずさが、全身に残っている。
「別に理解しなくて良い。ただ俺はそうだって把握しておいてくれ」
「何よー。何か私が悪いみたいじゃん」
俺が投げやりにそう言うと、綾乃は不服そうな顔で、俺から顔を背けていた。別に綾乃が悪いと言うつもりはないが、少しくらいは俺の心中を察してほしいと思う。
不満そうにしていた綾乃だったが、すぐに思い直したのか、頭のポニーテールを触りながら申し訳なさそうな苦笑いを俺に向けてきた。
「何かごめんねー。あのときは即答で振っちゃって」
「それを振った相手を目の前にして謝れるあたり、誠意のこもった謝罪には思えないな。何なら煽りとも捉えられるし」
「なんでよー。こうやってごめんなさいしてるじゃん。振っちゃってごめんなさい」
「あまり俺を振ったことを何回もリピートするな。俺のメンタルが持たないぞ」
両手を合わせて神社にお祈りするが如く俺に謝罪していたが、俺の心には一切響かなかった。メンタルにひびが入ったという意味では大いに響いていたが。
俺が体をプルプルと震わせながら必死に涙を堪えていると、綾乃は遠い目をしながらしみじみと呟いた。
「律希は幼馴染みというか、家族というか、そんな風にしか思えないんだよねー」
それは告白した当時にも言われた言葉だった。
律希をそういう風に見たことはない。俺には全く理解できない感覚だった。
ほぼ生まれたときからずっと一緒に過ごしてきた。大きな喧嘩もしたことないし、仲は物心ついたときからずっと良かった。お互い何が好きで何が嫌いで、どういうときにどういう癖が出て、どういう風に感じるのかを知っている。家族以上に知っている。良い意味で遠慮や気遣いが不要な存在。お互い言いたいことを言い合える、そんな関係だった。
そんな関係の異性を恋愛的に好きにならない方がおかしいのではないかと俺は思う。ずっと一緒に過ごしてきた、日常の一部となっていた異性にこれから先もずっと隣にいてほしいと思うのは自然なことなのではないだろうか。
逆に幼馴染みとしか思えないなんていう思考はどうやって生まれるのだろうか。幼馴染みと恋人との間の壁はそんなに分厚い物なのか。あいつにとって幼馴染みというのは恋愛対象に入らないのか。俺はバレーボールでいうリベロ的なことなのか。俺がスパイクを打つのは許されないのか。
考えているといろんな方向に疑問が湧いてきて、それが次々に怒りや苛立ちへと昇華されていく。やがて俺は貧乏揺すりを止められなくなっていた。
「なんかスイカ割りしたくなってきたな」
「良いじゃん。夏っぽいし。うちにまだスイカ大玉で何個か残ってるから、今度うちで皆集めてやろうよ」
「そうだな。そのスイカでお前の頭を割ろう」
「なんでよ! 嫌だよ! それは『スイカ割り』じゃなくて『スイカde割り』だよ!」
綾乃は頭を守るようにして抱えながら、俺から距離を取った。そのネーミングだと日本語翻訳的には『スイカの割り』になってしまうぞとツッコもうかと思ったが、面倒なのでやめておいた。
しばらく警戒心を解かないまま、綾乃は俺の様子を窺っていたが、本気ではないと理解すると、馴れ馴れしく近寄ってきて肩に手を置いた。
「まあまあ。今はお互い新しい恋に向かっていってるんだからさ。昔のことは忘れよう。ね?」
まるで自分が関わっていないかのような口ぶりが鼻に付くが、俺はそれ以外のところが気になって、その部分だけを追及した。
「お互いって何の話だ。お前と違って俺は誰とも付き合ってないぞ」
「でも好きな人はいるでしょ。紗月っていう思いを寄せる人がさ」
「……もう俺は驚かないぞ」
一般常識の如く当たり前のように紗月の名前が出てくる。相変わらずのプライバシー侵害具合に、俺はそろそろ慣れ始めていた。
綾乃のニヤニヤした顔と大仰な言い回しを鬱陶しく思いながら、俺は大きな溜息を吐く。綾乃にはどうせいつかは知られていたとは思うが、一番面倒な奴に知られてしまった。
そんな嫌な予感通り、面倒くさい好奇心の光を目に宿しながら綾乃は迫ってきた。
「ねえねえ。いつ告白するの? やっぱり花火大会の日? もしそのつもりだったんなら私たち二人きりになるように時間作ってあげるけど」
そこに全く気遣いなどは存在せず、自分の探究心を満たすためだけにグイグイと俺のテリトリーへと踏み込んでくる。この探究心が科学の方に向けば、彼女は容易にノーベル賞を受賞し、社会の発展に大きく貢献することだろう。
しかし残念ながら彼女の目は、試験管ではなく一介の高校生である俺の方にしか向いていない。俺の心中を丸裸にしたところで、エネルギー問題が解決することはない。俺の心に負のエネルギーが溜まることはあるかもしれないが。
その負のエネルギーを力に変えた俺は、容赦なく綾乃の額あたりを鷲掴みにして、無理やり俺から遠ざけた。
「告白なんかしねえよ」
「ええ? なんでよ。いつかは紗月と付き合いたいと思ってるんでしょ? それなら絶対早い方が良いよ」
「別に付き合いたいわけじゃない……ていうのは嘘だけど、告白しても絶対付き合えるわけじゃない。むしろ振られる可能性の方が高いだろ」
「それ本気で言ってんの?」
綾乃は急に声色をそれまでのふざけた雰囲気から真面目なものに変えて、語気を強めた。俺に顔面をロックされた状態で、怪訝そうに俺のことを見ている。
彼女の態度の変化の意味は全く理解できなかったが、俺は彼女を納得させるための根拠を披露した。
「相手はあの紗月だぞ。俺からしたら高嶺の花どころか高嶺の花束、いや花畑だな。俺が何百人集まったところで、紗月と釣り合うことはない」
「そんなこと言いながら毎日仲良くしてるじゃん。最近なんか私とよりも紗月との方がしゃべってるし。紗月も嫌々律希としゃべってるわけじゃないと思うし、そんなにビビらなくても大丈夫だって」
「仲が良ければ付き合えるわけじゃないだろ」
「そんなことな――」
俺は綾乃の反論を遮って、彼女を黙らせる根拠を突きつけた。
「俺は実際経験してるからな。お前で」
「ギクッ!」
綾乃は漫画のように、痛いところを突かれたときの音を声に出して、俺から遠ざかるように状態をのけぞらせた。そして誤魔化すように口笛を吹きながら、スイカが盛られた皿へと手を伸ばしていた。動揺からか全然爪楊枝を刺せていなかったが。
「俺はあの日以来、誰かに告白して受け入れてもらえている自分の姿が全くイメージできない」
あのときの綾乃の困り切った笑顔は、写真を撮ったかのように鮮明に思い出せる。あの笑顔が俺を、前に進めないように雁字搦めに縛り付けている。
綾乃でさえあんな表情にしてしまう俺が、一体誰と付き合えるというのか。あれだけ仲が良かった綾乃が付き合ってくれないのなら、一体誰が付き合ってくれるというのか。
妄想ですら、誰の顔も俺の頭には浮かんでこなかった。
「それにもし告白して振られたら、絶対今まで通りにはいかなくなる。絶対距離ができて、疎遠になって、気まずくなる。」
全員が全員綾乃みたいな人間ではないのだ。むしろ綾乃が特別すぎると言えるだろう。普通は振った相手、振られた相手とは顔を合わせづらくなるし、何をしゃべれば良いのか分からなくなる。
綾乃のときもそうだったが、今までどういう風に接していたか分からなくなる。そして次第に心的距離が離れていって、お互い他人という関係値に収まってしまい、元には戻れなくなってしまうのだ。
「そうなるくらいだったら、告白するより片思いでいた方がマシだ」
悠那に言ったのと同じ台詞を独り言のように呟く。綾乃はそれまで特に相槌も挟まずに、真剣そうな表情で、俺の話に耳を傾けていたが、最後の俺の呟きを耳にした瞬間に、ソファーの背もたれに体を預けて、雅な感じで頭を抱えていた。
「あちゃー。この鈍感不動のモンスターを作ってしまったのは私だったんだね……」
「おい。そんな不名誉な二つ名を冠した覚えはないぞ」
「ここは生みの親として、責任を果たさなければならないわ……」
「何言ってるんだお前」
俺の訴えは彼女の耳に届いていないようで、何やらぶつくさ訳の分からないことを言いながら首を横に振っている。なんとなく見ているだけでムカつく仕草だった。
「ねえ律希」
そして綾乃は一度深い溜息を吐くと、俺の方に向き直り、転んで泣いている子供をあやすような微笑みを浮かべて、そっと俺の左肩へと手を置いた。
「自分で言うのもなんだけど、私が特別なだけなんだよ。あれだけ仲良くしてたら、たとえそういう感情を持ってなかったとしても、好きだって言われたらまんざらでもなくなるし、この人となら付き合っても良いかなってなると思う」
「当の本人から言われても、説得力ないぞ」
綾乃は俺の文句を聞き流して続けた。
「だからもっと自信持って。律希って案外優しいし、案外面白いし、案外イケてる顔してるから、案外モテると思うよ」
「お前はどれだけ俺のステータスを低く見積もってたんだ?」
それだけ案外を連呼されて、自信が付くわけがない。案外はいつでも人を勇気づけられる便利な言葉ではない。
綾乃は人を励ますという点において、余すことなく才能をどこかへと置いてきてしまったようだ。俺に納得したつもりは到底なかったが、本人は満足そうに微笑んでいる。自分の失敗に気付いていない時点でもう救いようがない。
尚も綾乃は俺に背中を押すつもりであろう言葉をかけてくる。
「だから紗月からしても、律希は全然ありな範囲だって」
「別にありな範囲とか言われても嬉しくねえよ。俺が外角低めギリギリの百六十キロだったら紗月も見逃すだろ」
「大丈夫だよ。この前聞いたら、ストレートとアウトローが一番得意だって言ってたもん」
「そんなメジャーリーガーみたいないかつい打者なのかあいつは」
シーズン通して三割四十本くらい打ちそうだな。ぜひ俺が贔屓にしている球団に助っ人として入団してもらいたい。二年八億くらいでどうだろうか。
「とにかく」
話が逸れそうになったところで、綾乃はすかさず軌道修正した。うまくこの話題から逃げられるかもしれないと思っていたが、すぐに首根っこ掴まれてケージの中へと放り込まれてしまった。
「紗月に好きって言った方が良いよ。やらずに後悔するよりやって後悔する方が良いって言うでしょ?」
「そんな一般論を一般とかけ離れた奴に言われてもなあ」
「一般論でも良い言葉じゃん。私結構この言葉好きなんだよね」
「自分が一般的じゃないということに関して異論はないんだな」
言い返してほしかったのは、そこではなかったのだが。自分が異端者である自覚があるのは友人として心配になる。個性の範囲を出ないことを願うばかりだ。
「そんなに自信がないんだったら、恋愛の先輩から一つアドバイスしてあげる」
「一年かそこらで先輩面されるのウザいんだけど」
右手の人差し指をピンと立ててウインクしてみせた綾乃は、講師ぶっている感じがあってめちゃくちゃ鼻に付いた。端から見れば可愛らしい仕草なのかもしれないが、長年付き合ってきた立場からすれば鬱陶しさしか感じられない。
そんな俺を余所に綾乃は一度コホンと咳払いをする。芝居がかった感じが更に俺の神経を逆なでしたが、彼女は俺が口を挟む隙もなくしゃべり始めた。
「告白ってシチュエーションが深く関わってくると思うの。特別な場所や状況であればあるほど、心も特別になって普段とは違う心持ちになるのよ。あんまり言い方良くないかもしれないけど、雰囲気に流されちゃうっていうかさ」
「俺もそういう雰囲気の中で告白すれば、ワンチャン押し切れるかもってか?」
「そう。結構バカにならない効果だと思うよ」
「どうだかねえ」
スイカをかじりながら俺は外へと視線を逃がす。綾乃が言っていることも分からなくはないが、正直その程度で行動に出られるほど俺の勇気に余裕は無かった。
それほどあの日のトラウマとも言える失恋は、俺を現状へと足を括り付けていた。
「その効果が絶大になるイベントがもうすぐ来ます」
先生のような丁寧な口調で綾乃はそう言った。振り返ると再び人差し指を立てて決め顔をしている。偉そうに講釈垂れられてもムカつくだけなのはもう分かっていたので、彼女が言おうとしていることを先に俺が口にした。
「花火大会か?」
「そう。正解。よく分かったね。もしかして私が言わなくてもそのタイミング狙ってた?」
「そんなわけないだろ。直近のイベントなんて花火大会くらいしか思いつかないだろ」
「またまたぁ。そんなに恥ずかしがらなくていいのに」
肘で脇腹辺りをニヤつきながら突いてくる。結局俺はイライラする羽目となった。
「花火が上がるシーンって恋愛系の話でよく出てくるでしょ? 漫画やドラマでそういうのが多いのって、お祭りとか花火大会の雰囲気が恋愛的な方向に気持ちを持っていってくれるからだと思うんだよね」
「でもそのシーン、告白したけど花火に声がかき消されて相手の耳に届かないってのが相場だろ」
「そこはかき消されないように、叫んでもらって」
「近所迷惑だろ」
「花火の爆音が鳴ってる時点でそんなのないって。嫌なら花火が上がる前後を狙っても良いよ」
俺はあまりよく考えずに適当に返していたが、ふと目に入った綾乃の表情は、いつになく真剣そうなものになっていた。その表情から、あまり冗談は求められていないというか、通じなさそうな雰囲気を感じる。
悠那と同じように、綾乃は真面目に俺のことを考えてくれているようだった。
「ねえ、律希」
改めて俺の名前を呼ぶと彼女は俺の手を取って、ギュッと両手で握りしめた。どういうつもりなのか視線だけで問うたが、それには答えずに話を進め始めた。
「私が律希の思いに答えられなかったのは申し訳ないと思ってる。でもだからこそ、今の律希の思いを応援したいよ。一人で抱え込んでるんじゃなくて、二人で共有してほしい。思いを伝えて、前へ進んでほしい。怖いのも分かるし、その原因が私なのも分かるけど、このまま律希が立ち止まったままなのは嫌だよ私」
扇風機の音をかき消すような、はっきりとした声で綾乃は語ってくれた。一度も視線を外すことなく言い切った。その間俺も視線を外すことはできなかった。
俺も綾乃と同じ意識はある。前に進みたい、足を上げたい気持ちはある。紗月が好きだという気持ちも時間を重ねるごとに膨れ上がり、自分一人では抱えきれなくなってきている自覚がある。
そんな思いに押しつぶされてしまわないためにも、紗月に少しくらい分けるべきなのかもしれないな。受け取ってもらえるかどうかは分からないが、紗月なら俺の見えないところで捨ててくれるだろう。俺が傷つかないように。彼女は優しい人だから。
綾乃は今になって自分の表情が強張っていることに気がついたようで、誤魔化すように咳払いをした。
「ま、まあ、いつまでも私に未練たらたらでいられるのも迷惑だしね。いつ寝込みを襲われるか気が気でないし」
「別に俺はお前に未練があるわけじゃないし、朝起こさせようとしてた奴が気にすることじゃないと思うけどな」
そもそも俺にそんな度胸はない。迅に嫌われるのも嫌だしな。
綾乃は再び緩めていた表情を引き締める。そして優しく微笑みを浮かべると、柔らかい声で俺に語りかけた。
「花火大会、ちょっと頑張ってみようよ。最大限私たちもサポートするからさ」
その言葉を聞いたとき、悠那にも同じような話を持ちかけられたことを思い出した。
――もし私の告白が成功したらさ……律希君も勇気出してみない?
正直まだ自分が誰かに思いを伝えている姿は想像つかない。当日その場その時間になってみないと、自分がどういう気持ちでどうするかは自分でも分からない。
それでも二人のおかげで、多少は前向きになれていることは確かだった。少し前の俺であれば即答で拒絶していたはずだ。少なくとも今の俺に綾乃の提案を突っぱねる気は起きていない。
俺は諦めにも似た溜息を吐いて、表情を少し綻ばせた。
「約束はできないけど。まあ前向きに検討してみるよ」
「うん。今までに比べたら上出来だね」
歯切れの悪い俺の返事に、綾乃は満足そうに頷いた。
花火大会まであと四日。それまでに俺の覚悟は決まるのだろうか。決まらなかったとしたら、俺も花火大会の浮ついた空気にあてられるしかない。当日遅れるわけにはいかないなと思った。
会話が途切れると、扇風機の音に加えて蝉の鳴き声が聞こえてきた。かなり大勢による大合唱のようで、音に厚みがあった。一週間の命を使って蝉たちも応援してくれているのだと解釈して、自分を少し奮い立たせる。
そこで俺はふと思い出した。綾乃に聞かなければいけないことがあるのを。
それはもちろん非通知の電話の犯人についてだ。一応綾乃は容疑者の候補の一人である。出会ってすぐに聞いておくべきだったが、こいつと話していると話題が絶えないので、すっかり失念していた。思い出せて良かった。
綾乃は容疑者の中では一番犯人である確率が低いという評価だった。その評価は今日話していても揺るがなかったし、むしろ俺の恋路を積極的に応援してくれていたりして、より犯人とは思えなくなっている。
あまり言葉にしても良い気分にはならないが、綾乃は俺のことを恋愛的に好きではない。これはほぼ確証が得られたと言っても良いだろう。
だからあまり気を張らずに気軽に尋ねることができる。俺は少し間を開けてから、何気ない感じで綾乃へと水を向けた。
「なあ綾乃。全然関係ないことなんだけど」
「何? どうしたの?」
綾乃は特におかしなところは見せず、自然な感じで聞き返してきた。俺はそのままの流れで余計な話は挟まずに、本題を持ち出した。
「この前の日曜日、俺に電話かけてきたりした?」
「この前の日曜日? ああ、かけたかけた」
「だよな。かけてな……」
俺はしゃべっている途中で反射的に発声を止めた。口が開いたままの間抜けな顔で固まってしまう。
俺に流れていた時間はそこでピタリと止まった。先程まで聞こえていた蝉の大合唱も扇風機が送り出してくれていた風の音も、一気に聞こえなくなっていた。
綾乃は今なんと言っただろうか。「何の話?」と聞き返される前提だったので、あまりにも音が違い過ぎて、脳が彼女の言葉を処理しきれなかった。
なんとか再起動を果たした俺は、焦る気持ちを抑えつつ、もう一度尋ねる。
「え? 今何て言った?」
「この前の日曜日でしょ? 電話かけたよ?」
「……誰が?」
「私が」
「誰に」
「律希に」
「……」
綾乃が発した言葉の意味を丁寧に理解した結果、当然俺の口から言葉は失われる。
状況をなんとか理解した俺の頭脳だったが、そこまでで限界を迎えて、火花を散らせてショートしてしまった。
烏白馬角。吃驚仰天。大どんでん返し。想定とは真逆の想像だにしない状況に出くわし、俺の心は追いつかない。
「……冗談じゃないんだよな?」
「うん。こんな冗談言う意味ないし」
しつこい俺の確認に対して、綾乃は不審がるように首を傾げてみせる。目線が合わせられなくて表情までは分からなかった。
俺はひたすらに考える。思考を凝らす。気持ちを想像する。なぜ綾乃があんな電話をかけてきたのかにっついて。
綾乃は中学時代に俺のことを振って、今は迅という彼氏がいる。端から見ていても二人の関係は良好で、喧嘩しているところなんて見たことがなく、しっかりとお互いのことを好き合っているイメージ。最近上手くいっていないとか、ネガティブな悩みは双方から聞いたことがないし、一昨日だって二人のイチャイチャを見せつけられたばかりだ。
俺に対しては確かに幼馴染みらしく、ときにはそれ以上の親密さで接してくることはある。ただ彼女にとって俺は幼馴染みの域を出ることはなく、そういった部分は今日の会話の節々にも表れていた。俺の恋愛を真剣に応援してくれていたのだってそうだ。俺の背中を押そうとしてくれている彼女は、長年見てきた優しい幼馴染みの顔をしていた。
あの電話での一言目を思い出す。
――私はあなたのことが好きです。
綾乃の全てがこの一言に反しているように思えた。電話の向こう側に彼女が立っているのはイメージできなかった。冗談だと言ってほしかった。
それでも彼女は電話をかけたと言った。つまり犯人は綾乃だったということ。うだうだと考えていてもその事実は変わらない。
俺はひとまず自分の気持ちや綾乃の考えは置いておいて、事実の確認を行うことにした。
口がカラカラに渇いていることに気付く。緊張と焦りから俺はその口のまま声を出した。
「じゃあ、お前が――」
犯人なのか? 掠れ気味の声でそう問おうとしたとき、綾乃の脳天気な声がリビングに響いた。
「でも繋がらなかったんだよねー。何か話し中だったみたいで」
「……」
またも俺の口から言葉が奪われる。今度は時が戻ったかのように俺は、再び口を開けたまま固まってしまった。
自分の中で決めていた覚悟がボロボロと崩れ去っていく音がする。先程よりも彼女の言葉を受け入れるのに時間はかからなかったが、ある意味思考回路は壊れかけていた。
絶叫マシンに乗って振り回された感じ。展開が短時間で右へ左へ大きく飛ばされて、俺の三半規管は持たなかった。
「繋がらなかったとは?」
俺が目を回しながら尋ねると、綾乃は電話をかけたということについて、詳しく説明してくれた。
「いや、だからさー。電話かけたんだけど繋がらなかったんだよねー。相手が通話中だから無理ってスマホに言われたんだよ。確か日曜日の十七時くらいだったかなー」
それを聞いて俺は急いで自分のケータイを確認した。着信履歴を見ると、確かにあの非通知の電話は、日曜日の十七時一分にかかってきている。綾乃の供述と一致していた。
「俺ってお前に電話番号なんか教えてたっけ?」
「教えてもらってないし、今どき電話番号で電話なんてしないでしょ。あたしはアプリだって」
そう言われて俺は無料通話アプリをタップして、綾乃とのトーク画面を開くと、非通知の着信と同じ時間に彼女から通話がかかってきていた。特にそのことについて言及はなく、違う話題が展開されていたので今まで気付かなかった。
どうやら綾乃が言っていることは本当のようだ。着信履歴やトーク履歴と比較しても矛盾しているところはない。俺が通話中に電話をかけてきていたというのは、完全なアリバイと言っても良いだろう。
つまり綾乃は犯人ではないということ。先程までの判決は一瞬で逆転し、彼女には無罪が言い渡された。
「まあ普通に考えてそうだよな……。良かったあ……」
「何? 何が良かったの?」
「いや、気にしないでくれ」
ホッとした影響で力が抜けて、全身をソファーへと預ける。思わず安心が言葉になって口から出てしまい、綾乃から疑問の目を向けられてしまった。それに気付かないふりをして短く息を吐く。
綾乃が犯人だったなんていう結末は、これが架空の物語なのであれば面白い展開だが、目の前の現実でしかない俺からすれば何も面白くない。一度振られた相手からの好意、それも俺と仲が良い彼氏持ちの幼馴染みからの好意。もしこれが現実であったなら、俺の気持ちは複雑どころの騒ぎではなく、焼き肉屋で頼む石焼きビビンバの如く、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていただろう。
だから勘違いで済んで良かった。まあ冷静に考えれば綾乃が犯人だなんてあり得ないし、ちゃんと最初から事細かに電話のことを聞いていれば、こんなにも焦らずに済んだのだろうが。
「結局お前の電話は何だったんだ?」
やっと気持ちに余裕が出てきた俺の興味は、綾乃からの着信の方へと向いた。先程も言っていたように、俺が出られなかったその着信については、綾乃から何の話も聞いていない。彼女があのタイミングで何の用があったのかが気になった。
綾乃は何やらさながら探偵のように顎に手をやって考え込んでいる。
「さっきから思い出そうとしてるんだけど、全然出てこないんだよねー。別にそこまで急用じゃなかったから、かけ直さなかったんだと思うんだけど。何だったかなあ」
「わざわざ電話したくらいなんだから、結構すぐに伝えたい用件だったんじゃないのか?」
「そうなのかな……。次の日が学校だったから、確か明日話せばいいやって思った記憶があるんだけど」
「俺は何も聞いてないぞ」
「うん。私も話した覚え無い」
「何だそれ」
綾乃の天然な発言に俺は失笑をこぼす。今までの張り詰めた雰囲気とは一転して、弛緩した時間が俺の周りに流れていた。
「まあいいや。また思い出したら連絡するね」
「思い出したときにはもう遅かったなんてことだけは勘弁してくれよ」
「大丈夫だって。知らんけど」
関西の伝家の宝刀「知らんけど」が綾乃から放たれたところで、俺はソファーから立ち上がる。二人ともスイカを食べる手が止まっていたので、余りは冷蔵庫に戻しておこうと思ったのだ。
「その残りはどうするの?」
「由希のために置いておく。あいつスイカ大好きだからな」
「なるほど。だからあんまり食べてなかったんだ今日」
「別に。普通に腹いっぱいだっただけだよ」
大皿を手に取ってキッチンの方へと向かう。まだ十切れほどスイカが残っていた。
「優しいお兄ちゃんだねー」
綾乃の呟きを聞き流して一旦台所に皿を置く。下の引き出しからラップを取り出して、皿の大きさに幅を合わせて切る。軽く被せたら冷蔵庫を開けて適当な場所に収める。
リビングに戻ってくると、綾乃も立ち上がっていて、気持ちよさそうに伸びをしていた。
「じゃあそろそろ帰ろうかな。宿題もやらなきゃだし」
「ああ。さっさと帰れ。そして二度と来るな」
「また明日ね、律希」
「さすがに迅にチクるぞ」
綾乃は笑いながら「冗談だよ」と言って玄関へと歩き出した。彼女の背中に続いて俺も玄関へと向かう。
適当なサンダルを履いて、鍵を開けて外へと出る。そろそろ日が落ちてきているはずだったが、まだ堂々と蒸し暑さは鎮座していて、これは夜になっても居座ったままで、今日も寝苦しい夜になりそうだなと心の中でぼやいた。
門扉を開けて綾乃に先を譲る。俺にニコッと笑顔を向けると俺の横を通り過ぎて行った。
「二度と来るなとか言っておきながら、最後まで見送りに来てくれるんだね」
「迷子になられても困るからな」
「家隣同士なのにどうやって迷子になるの」
綾乃は頬を膨らませながら抗議の視線を向けてくる。俺は目を逸らしてそれを躱した。
「まあいいや。しょうがないから優しさとして受け取っておいてあげる」
偉そうな態度でそう言うと、綾乃は俺に背を向けて歩き出した。ただ、すぐに進路を変えて、隣の家の門扉へと手をかける。そしてまだまだ明るい青空をバックに、十七年間変わらない明るい笑顔で俺の方に振り返った。
その表情を見ると、自然と俺の表情も綻んだ。
「スイカ、サンキューな。美味かった。由希も喜ぶと思う。皿はまた洗って返すよ」
「うん。まだまだうちに余ってるから、欲しかったらまた言ってね」
お互い頷き合って、門扉を閉める。
「律希」
その瞬間、俺の名前を呼ぶ綾乃の声がした。俺は扉を開けずに身を乗り出して、綾乃の方を覗き込む。すると彼女は胸の前で小さくガッツポーズを取っていた。
「頑張ってね」
何を、という部分は省略されていたが、すぐに俺は綾乃が何のことを言っているのか察した。
正直あまり期待はしてほしくない。何度も言うが当日のその時間になるまで、自分がどういう心持ちでいるのか分からない。
ただ、綾乃のおかげでこの時点で「ちょっとくらいは」という気持ちを持てるようにはなっていた。
「まあ、ぼちぼちな」
いつも通り適当に返事をして、俺はスタスタと玄関へと向かう。
当日、今みたいに思い切って前へと進めるか。やはり自分でもどうなるかは想像つかなかった。