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3.小さな巨人の恋心



 火曜日。花火大会まであと五日。夏期講習もないこの日、朝からぐうたらと惰眠を貪ってる、と思いきや俺の体は学校にあった。


 今日も今日とて太陽はカンカン照り。登校だけで無事に俺のシャツの内側はサウナ状態と化していた。


 額と鼻下の汗を首にかけたタオルで軽く拭いながら、昇降口で靴を上履きに履き替えた俺は、いつも教室へと向かう方向とは違う向きに舵を取った。いつも上っていく階段をスルーして、一階の石畳のような廊下をテクテクと歩いて行く。途中に職員室の前を通りかかったが、入り口の窓からチョロッと覗いただけでも、十数人の先生が机で作業しているのが見えた。せっかくの夏休みというのに何の仕事があるのだろうか。学校が一番のブラック企業という話を聞いたことがある。そう言われる所以を垣間見た気がした。


 心の中で挫けないようにとエールを送りながら、突き当たった角を左折して階段を上る。


 二階に到達した俺は教室がある右ではなく、左側へと体を向けた。そこにあるのは年季の入った木製の引き戸。その上には「図書室」と書かれたプレートが掲げられていた。


 本日俺が夏期講習もない夏休みの日に学校へと赴いているのは、ここに用があったからである。


 俺は引き戸に手をかけてスライドさせ、中へと足を踏み入れる。そこは二重玄関のようになっていて、まだ図書室というわけではなく、両サイドにアルミ製の下駄箱が置いてある。そこで俺は上履きを脱ぎ、適当な場所へとしまうと、ドアノブを捻って、今度こそ図書室へと足を踏み入れた。


 湿気の多いムッとした空気が一変して、機械的な冷気が俺の体に纏わり付いた熱を追い出してくれる。それと同時に独特な本の匂いが鼻をくすぐった。


 カーテンによって薄暗くなった室内を見渡すと、生徒の姿は見当たらない。大学受験を控えた先輩方が何人か勉強しているかとも思ったが、どうやら今日はお休みのようだ。たまには息抜きをしないと、勉強漬けの日々を生き抜くことはできないだろう。来年は自分も同じ立場になると思うとゾッとした。


 そんなことを考えていると、奥の本棚の方から音がして、一人の女子生徒が顔をひょこっと出した。彼女の小柄な体躯と幼い顔立ちが相まって、リスが木陰からこっちの様子を窺っているように見える。


 見知った顔の彼女は、入ってきたのが俺だと認識するとパッと笑顔の輝きを強めて、こちらへと歩み寄ってきてくれた。


「おはよう、律希君」

「おっす」


 俺のことを唯一君呼びする悠那が、いつも通りにほんわかした雰囲気を纏いながら朝の挨拶を口にする。俺はそれに軽く手を挙げて応えた。


 別に俺は悠那がここにいることに驚かないし、悠那も俺がここに姿を現したことに疑問を抱かない。なぜなら今日のこの時間に二人で図書室に集まる予定だったからだ。


 別にこれは俺と悠那が図書室で秘密デートをしようとしているわけではない。俺と悠那はクラスの図書委員で、図書室の清掃をしに来ただけだ。


 どの学年のどのクラスにも図書委員が二人存在する。図書委員は夏休みに週二で図書室の清掃に来なければならないのだ。今日は二年三組の俺たちが担当の日。図書室に用があると言っていたのはこのことを指していた。


 俺は特に何も入っていないがなんとなく持ってきていた鞄を肩から下ろして、体内の熱を吐き出すように息を吐く。そして彼女の胸元に目をやった。


 別に悠那の慎ましやかな胸に興味があるわけではない。まあ興味が無いと言えば嘘になるが、今は悠那が胸に抱えた数冊の本が気になったのだ。ちなみに俺は大きさ関係なく胸は大好きだ。


 世界一どうでも言い情報を発信しながら、俺は視線を悠那の目に戻す。


「悪い。ちょっと遅れたか?」


 その数冊の本を見る限り、彼女は既に作業を始めているようだった。俺は自分が遅刻したのだと思って謝罪を口にしたが、悠那は笑顔のまま首を横に振った。


「ううん。大丈夫だよ。集合時間ぴったり。これは私が勝手に始めてただけだから気にしないでー」


 悠那の視線を追うと時計が目に入った。短針は十を、長針は十二を指そうとしている。今日の集合時間は十時だったはずなので、彼女の言う通り遅刻ではないようだ。


「俺が来るまで待っててくれたら良かったのに」

「別に早く着いてやること無かったし、本触るの好きだからー」


 そう言って悠那は優しく微笑む。その表情を見る限り、俺に気を遣っているわけではなく、本当に本が好きなんだろうと思わされた。


 実際悠那が文庫本やハードカバーの本を手にしている姿はよく見る。日頃から読書家である彼女は、本に触れられる機会が多いからという前向きな理由でこの委員会を選んだのだろう。


 対する俺は楽そうだからという消極的な理由で選んだ。実際仕事は今みたいに清掃や、月一でこの図書室の司書さんが発行している図書便りに載せるための、オススメの本とその紹介文を考えることくらいだ。それも九割九分悠那に任せているので、俺は目論見通り楽させてもらっている。


 だからこんなときくらいは俺が積極的に動かなければならない。悠那に任せっきりにしてしまうのは、俺の良心が許さないし、多分俺の両親も許さない。


 俺は鞄を貸し出しカウンターの上に無造作に置いて、悠那の方を見た。


「さて、俺は何から始めれば良いんだ?」

「まだ来たばかりだし、ちょっと休んでても良いんだよ?」

「そうもいかんだろ。悠那はもう始めてるんだし、集合時間だって過ぎたんだ。それに休憩なんてさせたら俺は一瞬で寝るぞ」


 昨日の夜、由希の練習を手伝ってから芸人さんの動画チャンネルにハマってしまい、深夜まで動画を見漁ってしまったがために、俺は今結構寝不足で立っている。図書室にあるゆったりとしたソファーなんかに座ってしまったら、一発で睡魔に飲み込まれる自信があった。


「じゃあ終わったら起こすねー」

「いや寝る前に起こしてくれ」

「律希君がいてくれるだけで私は嬉しいよ?」

「お前はニート製造機か何かなのか?」


 どこまで甘やかすつもりなのだろう。ヒモ男にでも捕まったら、平気で何円でも貸しそうだな。この子の将来が不安になる。


「良いから仕事くれよ。お前だけに働かせて俺だけソファーで寝てるところなんか誰かに見られたら、俺の株が大暴落する」

「そしたら私が律希君の株を買ってあげるね?」

「俺の株で得しようとするな」


 俺がツッコむと悠那は鈴のような可愛らしい笑い声を上げる。俺はその後のことを考えれば笑えなかった。


 しばらく笑った後、落ち着いたのか、いつもの微笑みを向けてくれる。


「じゃあ、律希君には掃除機かけてもらおうかなー」

「掃除機ね。りょーかい」

「ふふっ。ありがとう」


 別に感謝されるいわれは無いと思ったが、これ以上彼女にツッコんでいては掃除が進まないので、軽く頷くだけに留めておいた。


 悠那の笑顔と謝辞を背に俺は、カウンターに立てかけてあった、吸引力が変わらないらしいと噂の掃除機を手にして図書室の隅へと移動する。何に使うかも分からない、臙脂色や常磐色の背表紙をした分厚い本がぎゅうぎゅうに詰まった、背の高い本棚の間を歩く。普段から勉強に意欲が無いので、それを咎められているかのような圧迫感を感じた。


 壁に突き当たった俺は左に曲がる前にふと振り返る。本棚の間から、返却された本が積まれたキャスター付きのワゴンを引きずっている悠那の姿が見えた。一生懸命体重をかけて引っ張っている。小柄な彼女には辛そうだ。


 やがて健気な彼女の姿は本棚に隠れて、俺は暗い隅っこへと行き着いた。早速電源ボタンを押して掃除機を起動し、壁に沿わせて床を撫で始めた。


 掃除機の甲高い音を聞きながら、俺は一人考え込む。


 さて、どう攻めていこうか。


 正直彼女と顔を合わせてから、俺はそわそわと緊張していた。気持ちが浮き足立っていて、床に敷かれた堅い絨毯の感触すらも他人のもののように感じる。ふわふわして落ち着かなかった。


 最終的なゴールは明確。悠那にお前が電話をかけてきた犯人かということを聞く。ただそれだけ。


 しかし俺にはそのゴールまでの道のりに茨が何重にも生い茂っているように見えていた。


 あくまでこれは悠那が犯人でないときの想定だが、いきなり核心を突いた質問をすると、不審がられてしまうだろう。いろいろと詮索されても困るので、話の流れをどうにかして作って、違和感が生じないようにさらっと質問しなければならない。


 茎を丁寧に切り取っていけば、茨の道もいずれはただの平坦な道になる。横着さえしなければ、俺は怪我をすることなく、目的地へと辿り着くことができるだろう。


 そのためにも予め、どう話を展開させるかは考えておかなければならない。床の模様に合わせて掃除機を駆け回らせながら、悠那との会話をイメージして、シミュレーションを入念に何度か行った。


 部屋の三分の一くらいを掃除し終えたところで、俺は分厚い本に囲まれながら、ふともう一つのパターンについて考えを巡らせていた。 


 それは悠那が本当に犯人だったときのこと。今までのシミュレーションが全て無駄になるパターンだ。


 迅が言っていた俺のことが好きな女子。それが悠那である可能性を考えてみる。


 昨日と今日の態度を見る限り、特に違和感を覚える部分はない。初見の人からすれば、自分は仕事をしているのに後から来た俺を休憩させようとしたり、「いてくれるだけで嬉しい」と発言したりなど、少し俺に優しすぎると思う人もいるかもしれないが、別にこれは俺に限った話ではなく、悠那は誰に対してもこれくらい優しく振る舞う人なのだ。


 悠那の八割は優しさでできている。かの有名な解熱鎮痛剤をも凌駕する割合の優しさのせいで、多少行きすぎる部分もあるが、これで彼女平常運転なのだ。


 だから俺に特別な感情を抱いているとは思えない。いろいろと探りを入れてみるつもりではあるが、なんとなく彼女は犯人ではない気がしていた。


 ただ、可能性を完全に否定できない以上、そわそわしてしまうしドキドキしてしまう。背の高い本棚地帯を抜け出した俺は、掃除機をかけながら悠那の姿を目だけで探した。


 彼女はすぐ見つかった。先程とほとんど変わらない位置で作業をしている。手が届かないところがあるようで脚立に上りながら本をしまっていた。


 辞書っぽい大きな本を抱えて頼りない幅の足場を上っていく姿は、見ていてハラハラする。今にも後ろに倒れてしまいそうで、非常に危なっかしい。


 上の方の本は俺が直すから置いておいて良いぞと声をかけようかと思っていると、何とか悠那は上まで上りつめた。本人も無事登れたことにホッとしたのか、ふうっと息を吐いている。


 シンクロするように俺もふうっと息を吐きながら安堵したところで、悠那は脇に抱えていた重そうな本を手に持ち替えようとした。


 その瞬間、彼女はバランスを崩し、一度前へと体重がかかったその反動で、上半身が後ろへと傾く。脚立の四つの脚のうち前二つが床から離れたところで、俺は掃除機を手放して、猛ダッシュで悠那の元へと向かった。


「ひゃっ!」

「悠那!」


 悠那の漏れ出たような小さな悲鳴と、彼女の名前を呼ぶ俺の叫び声が、俺たちしかいない静謐な図書室に響く。俺は決死の覚悟で、中学野球部時代に鍛えたスライディングを披露した。


 悠那が上っていた脚立は一メートル五十センチくらいの高さ。落ち方が悪ければ十分大けがに繋がる高さだ。


 せめて緩衝材になれれば。そういう思いで、俺は目を瞑りながら息を止めて全身に力を入れて、来る衝撃に備えた。


 やがて摩擦により減速した俺はピタッと脚立の少し手前で停止する。止まってからも何秒かは力んでいたが、俺の体に衝撃が走ることはなかった。


 この結果から考えられる結末は二つ。一つは悠那が何らかの方法で落下を免れたというパターン。もう一つは彼女の体重が蟹の怪異に奪われたパターンだ。後者の場合、俺の口内をホッチキスで留められることになるだろう。


 俺は答えを確認するためにゆっくりと目を開ける。俺の視界に映ったのは脚立と本棚だけだった。小柄な少女の体はどこにもない。どうやら答えは前者だったようだ。


 俺は最悪な結果にならなかったことに安堵しながら、止めていた呼吸を再開して徐に上を向いた。ただ悠那が無事であることを確認したかっただけだ。


 しかし俺の目は光の速さで逸らされることになる。


 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ見えた悠那は、スカートを手で押さえながら、顔を少し赤くしながら苦笑いで俺のことを見下ろしていた。


「律希君、そんなに私のパンツが見たかったの?」

「断じて違う。俺は何も見ていない。信じてくれ」

「取りあえず恥ずかしいから、その場所どいてほしいなー」

「はい」


 俺は彼女の指示におとなしく従って、ズルズルと下半身を引きずって後ずさった。そして正座で座り直す。見上げると悠那が左手で本棚を掴んでいるのが見えた。そうやって落下を免れたらしい。彼女は体重が軽いので、本棚が倒れてくるなんてこともなかったようだ。


 悠那は無造作に置かれていた本を所定の位置に戻すと、安全にゆっくりと脚立を降りてきて、俺の元へと歩み寄ってきた。


「相手の名前を叫びながら、スライディングで足下へと滑り込む。なかなか斬新で大胆な犯行に出たねー」

「そんなノリと勢いだけで同級生の下着を拝もうとする男がどこにいるんだ」

「目の前に正座してるけど?」

「頼むから俺の話を聞いてくれ」


 悠那は変わらず笑顔だが、目の奥に光が無い。このままでは誰にも見られていないのに、結局俺の株が大暴落してしまう。なんとか話を聞いてもらって誤解を解かなければと焦っていると、悠那の目に温かな光が戻り、クスクスと笑い出した。


「冗談だよ。倒れそうになった私のことを助けに来てくれたんでしょ?」

「分かってたなら最初からそう言ってくれ」

「パンツ見ようとしてる風に見えなくもないなあと思って」

「俺はこんなパワー系の方法で見ようとはしない」

「できれば見るっていう部分を否定してほしかったんだけどなー」


 悠那は苦笑いを浮かべてこめかみ辺りを搔いている。悪いが男の視線はそのスカートの中へと吸い込まれるものなのだ。理解してもらうのは難しいと思って、それ以上説明はしなかった。


「ごめんね。心配かけちゃって。怪我しなかった?」


 申し訳なさそうに眉をハの字に曲げながら、悠那は屈んで俺の左脚を軽くさする。確かにスライディングしたときの摩擦で左足の外側がやけどしたみたいにじんじんするが、こんなの放っておけばすぐに治るだろう。心配される側のはずの悠那に心配をかけては申し訳ないので、俺は立ち上がって無事であることをアピールした。


「別に俺は何とも。あんまり無理するなよ」

「これくらいなら余裕だと思ってたんだけど、自分が思ったより鈍くさくて」


 そう言って悠那は恥ずかしがるようにはにかみながら、自分の髪を撫でつけていた。


「仕事交換するか? 高いところ直しにくいだろ」


 元々俺たちの適性が逆だったのだ。力も高さも必要な仕事を悠那に押し付けて呑気に掃除機をかけている場合ではなかった。彼女が懸命にワゴンを引いている姿を見た時点でそのことに気付くべきだった。こういうところが周りから俺が鈍感と評価される所以なのだろう。


 悠那は俺の提案を聞くと、申し訳なさそうに笑いながら頷いた。


「そうだね。このままだと脚立に登る度に、律希君にスライディングしてもらわなきゃならなくなりそうだし」

「脚をすりおろされるのは御免だぞ」

「ふふっ。お言葉に甘えさせてもらいまーす」


 そう言って悠那は俺の横を通り過ぎて行った。振り返るとその先に、力なく床に横たわった掃除機が見えた。咄嗟のことだったので乱雑に置いてしまったが、壊れたりしていないだろうか。


 悠那が拾い上げてスイッチを押すと、問題なく起動し、甲高い駆動音が図書室に鳴り響いた。


「そっち半分は終わったから、あとこっち半分頼む」

「はーい。律希君もあとそれだけだから、よろしくね」

「はいよ」


 手を挙げて応えると、俺はワゴンに乗った本を一冊手に取った。背表紙に貼られたシールと本棚に貼られたシールを照らし合わせて、所定の場所へと戻していく。


 二冊目を手にした瞬間に名前を呼ぶ声が後ろからした。


「律希君」


 脚立へと上りながら振り返る。悠那がいつも通りの優しい微笑みを湛えてこっちを見ていた。


「スライディング、カッコ良かったよ。ありがとー」

「……それ、おちょくってんのか褒めてんのかどっちなんだ?」

「褒めてるよー」

「そりゃどーも」


 適当に返事をしながら作業に戻る。背後からも掃除機をかける音がすぐに聞こえ始めた。


 俺は平静を装って着々と本を棚に戻していく。ただ心臓は少しばかり鼓動を速くしていた。


「カッコ良いって初めて言われたな」


 彼女に聞こえないことを良いことに、割と大きめのボリュームで独り言を呟く。カッコ良いと言われたのはスライディングだったが、他人から自分の何かをそう評価されたことはなかったので、少し嬉しくなると共にドキッとした。悠那のような美少女にカッコ良いなんて言われてしまえば、心が高鳴ってしまう。


 中学時代、俺を代走で起用してくれた当時の監督に感謝しながら、俺は少しテンション高めで作業を進めた。



 本の整理と掃除機がけはあっという間に終わった。予め悠那がワゴン内の本を本棚の並び順に整理してくれていたようで、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくて済んだ。掃除機の方も、普段のほんわかした雰囲気からは想像がつかないほど、キビキビと悠那が動いてくれたおかげですぐに終わった。


 今は二人で本棚に溜まった埃を、名前は分からないが、ポメラニアンの胴体みたいなフワモコのやつで絡め取っている。上の方が俺で下の方が悠那担当。最初は下にいる悠那に埃を被せないように全神経を集中させていた。


 しばらくして慣れてくると思考に余裕ができてくる。俺はチラチラと悠那のことを窺いながら、話題を振るタイミングを見計らっていた。


 すると悠那が、低いところを拭くために屈めていた腰を真っ直ぐに伸ばし、額の汗を拭うような仕草を見せた後、気持ちよさそうに全身で伸びをした。ここだと思った俺は、まるで今話題を思いついた風な演技を披露した。


「あ、そうだ」


 まるで見本のような、今話題を思いついた風な台詞。自分の大根役者ぶりにこみ上げてくる笑いを堪えて、悠那の反応を待った。


「ん? どうしたの?」


 幸い余計な疑問を抱かずにいてくれたようだ。変な間が生じてしまわないように、用意していた話題を口から吐き出す。


「花火大会、誘ってくれてありがとな」


 俺が出した話題は花火大会についてだった。


 昨日の回想でも話したが、俺は花火大会に友達六人で一緒に行こうと誘われている。俺を除いた友達五人というのは、もちろん綾乃、紗月、悠那、迅、豪の五名である。


 そして実はこの集まりというのは、悠那が発端となって企画されたものだった。


 彼女のおかげで俺は合法的に紗月と花火大会を回ることができる。周りにやかましいのが付いてくるとはいえ、紗月と花火大会という特別な時間を共有できるだけで俺は嬉しかった。今更だが、あの日俺の機嫌が良かったのはこれが原因である。


 そのことに対する感謝を含めて、俺は改めて悠那に謝辞を述べた。


「なーんだ。そんなこと? 別に感謝されるようなことじゃないよ。むしろ私のワガママに付き合わせて申し訳ないと思ってたんだけど」

「俺は六人で行けて嬉しいと思ってるけど」

「そう? じゃあ良かったー」


 悠那は俺の返事を聞いて満足そうににっこりと微笑む。話の流れを読んで、あえて俺はここで想定していなかった方向に話を展開させた。


「迅と綾乃はどうなんだろうな。俺たち四人と一緒で良いのか。あいつらは」


 付き合っているあの二人的には六人で回ることをどう思っているのか、素直に疑問を抱いた。ただでさえ花火大会という年一の特別なイベント。普通に考えればあまり二人だけの時間を邪魔されたくないと思っていてもおかしくないだろう。


「私が声をかける前は、二人で回ろうって話してたみたい」


 さすがに迅と綾乃とて、このイベントをみすみす見逃すことはしなかったようだ。


「でも私が誘ったときは二つ返事でオッケーしてくれた。二人とも六人の方が楽しそうだって」

「あいつららしいな」


 二人が即答する姿は容易に想像できた。


「気を遣わせたかなと思って、迅君に本当に大丈夫か聞いてみたんだけど、綾乃とはこれから先、いつでも二人で行けるからなって言ってたよ」

「あいつ……。惚れ惚れする男らしさだな」


 既に迅は高二である今の時点で綾乃と結ばれる気満々らしい。あいつのことだから、多分言葉だけじゃなくて、心から本気でそう思っているのだろう。何を食べて育てば、あんなにも真っ直ぐに生きることができるのだろうか。


「綾乃も幸せ者だな。これだけしっかり大切に思ってもらえてるなら」

「そうだねー。まさに愛情って感じだよねー。良いよねー」


 悠那は俺の言ったことに深く共感したようで、掃除そっちのけで乙女モードに入っていた。自分の手を握手させるように組んで、鎖骨辺りに持っていき、若干上を見ながら目をキラキラと輝かせている。憧れのシチュエーションでも想像しているのだろうか。


 悠那は一通り妄想し終えると「はあ……」と深く息を漏らした。


「私もあんなに真っ直ぐ自分の事を愛してくれる人に出会いたいなー」

「別に悠那なら一瞬じゃないのか?」

「一瞬じゃないから今独り身なんですけどー」


 腰に手を当てて頬を膨らませた悠那にブーブー言いながら睨みつけられる。彼女には申し訳ないが全く怖くなかった。断然可愛らしさが勝っていた。


「でもこの学校入ってからでも告白されたことぐらい何回もあるだろ」

「何回もあるわけじゃないよ。まあ、ほんの数回だけ」

「全部断ってきたのか?」

「うん。そうだよ」

「それは何か理由があるのか?」

「うーん。なんとなく運命感じないなーみたいな?」

「運命ってどうやって感じるんだ?」

「頭にびびっとくるんだよ」

「めちゃくちゃ曖昧だな」

「でも恋とか愛って曖昧でしょ?」


 確かに、と俺は思った。俺だって紗月に一目惚れしたとき、もしかしたら頭にびびっときていたのかもしれない。俺の中に彼女の言ったことを頭ごなしに否定できる言葉はなかった。


「じゃあその運命ってのを感じるまで、悠那は独り身でいるのか?」


 別にその時点で感じなくても、後々そういう感覚が生じてくることもあるのかもしれない。後天性の運命もあるかもしれない。


 だからお試しで付き合ってみるというのも良いのではないだろうか。そういう考えでそう質問したのだが、悠那は想定とは違う角度の回答をした。


 そしてそれは奇しくも本日の最終ゴール地点へと真っ直ぐに向いていた。


「運命感じた人は一人いるんだけどね……」


 照れた様子でボソボソと独り言のように悠那はそう呟いた。聞き逃さなかった俺は頭の中で彼女の言った台詞を噛み砕く。消化したときには口から「え?」と疑問の声が飛び出していた。


 それと同時に全身が緊張で硬直するのを感じた。やがて温度の低い汗がじわじわと額に浮かんでくる。心臓の音もつまみを一気に捻ったかのように爆音になっていた。


 着々とゆっくりとしたペースで道を歩いているつもりだった。しかし気付いたときには、ゴールが目前に迫っていて、心の準備など何一つできていない。ただただ焦りと困惑で心を満たすだけだった。


「そ、それって、好きな人がいるってことか?」


 曖昧な表現は避けておきたくて、はっきりさせるために彼女に尋ねた。


 悠那は少し恥ずかしそうに俯きながら、掃除の手を止めずに答えた。


「まあ、そういうことだねー」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の手から埃まみれになったポメラニアンの胴体がするりと滑り落ちた。動揺が手に現れたようで、思わず握っていた手を緩めてしまった。


「悪い。埃、被らなかったか?」

「うん。私は平気」


 幸いにも悠那は少し離れた場所にいたので、彼女に頭の上に埃の隕石が落下することはなく、床で弾けていた。落とした影響で絡め取った埃が床に散らばっている。


「あとで掃除機かければ大丈夫だよ」


 悠那がフォローを入れてくれる。おれはそれに無言で頷いて、脚立に上り直す。緊張からか、脚の感覚がおかしくて、足場を踏み外しそうになった。


「そんなにびっくりしたの? 私に好きな人がいたこと」


 さすがに俺の挙動不審具合に引っかかりを覚えたようで、悠那から苦笑いを向けられる。俺は誤魔化すために、なんとかその場つなぎの言葉を脳みそフル回転で捻り出した。


「なんか、悠那に恋愛のイメージがあまりなかったからさ」

「えー。私だって女子高生だよ? 恋くらいするよ」

「そうだな」


 何とか笑顔を浮かべようとするが、表情筋が言うことを聞かない。声もからからに乾いていて不自然に掠れていた。


「悠那の好きな人って、クラスにいるのか?」


 不審がられる前に無理やり質問を挟み込む。悠那は一瞬怪訝な表情をした後に、曖昧な笑顔を浮かべた。あまり答えたくなさそうにしていたが、やがて渋々といった感じで答えてくれる。


「まあ、そうだねー」

「俺も知ってる人か?」

「そりゃあ同じクラスだしー」

「じゃあ――」

「それ以上はプライバシー保護の観点から言えませーん」


 悠那は俺の言葉を遮って、自分の口の前で両手の人差し指でバッテンを作った。これ以上はもう教えてくれないらしい。


 それでも俺はあと半歩進むだけで、ゴールテープを切れる位置まで来ていた。悠那には好きな人がいて、それは俺のクラスの人。迅からの話を踏まえても、それが俺である可能性は少なくない。


 もしかすると、悠那が犯人なのかもしれない。そう思うと、まともに彼女の顔を見ることができなかった。


 ただ、あと俺は冗談混じりにその好きな人が俺なのか聞いて、もし肯定の返事が返ってきたら、犯人はお前だと指差すだけだ。


「なあ、悠那」

「何?」


 俺は後戻りできないように、あえて悠那の名前を呼んだ。こうでもしないと緊張と羞恥で逃げ出してしまいそうだったから。


 悠那は唐突に名前を呼ばれて不思議そうにこっちへと振り返る。俺の不安定な視線と彼女の真っ直ぐな視線がぶつかり合う。


 俺は覚悟を決めて、乾いた唇を震わせながら口を開いた。


「この前の日曜日、俺に電話かけてきた?」

「……」

 図書室からあらゆる音が消える。元から静かな図書室だが、唯一部屋にいた二人がピタッと動きを止めたので、より一層静かになった。


 既にテンパっていた俺は、自分が恥ずかしさのあまり一つ台詞をすっ飛ばしていたことに気付いて、頭が真っ白になっていた。訂正しようにも頭に言葉が一つも降ってこない。悠那の回答を待つことしかできなかった。


 悠那はキョトンとした顔で俺のことを見つめている。それがどういう意思がこもった表情なのか俺には分からなかった。


 俺は彼女に首を縦に振ってほしいのか横に振ってほしいのかも自分で分からなかった。


 俺たちが無言で向き合っていたのは、時間的に言えば五秒かそこらだったと思う。ただ、パニックだった俺からすれば、体感三分くらいの長さに思えた。


 気まずさのあまり目を逸らしそうになる。しかしそれより先に悠那が目を閉じた。


 何やら考え込むように顎に手をやって、再び沈黙する。彼女の思考を想像してしまうのが怖くて、俺は彼女の顔をボーッと眺めていた。


 やがてパチッと開眼した悠那は目の焦点を俺に合わせる。そして体感五分ぶりに口を開いた。



「ごめん。何の話?」



 悠那はキョトンとした表情を変えずに、コテンと首を傾げた。


 それは全く俺が言ったことに心当たりがないといった反応だった。


 俺はそれを理解した瞬間、暴走しかけていた自分の熱が、スーッと下がっていくのを感じた。自分が結構汗ばんでいたことに気付く。図書室はクーラーの効きが良いので、少し寒気がした。


 そうやって体の感覚が追いついてくると共に、俺は悠那が首を傾げたのを見て、ホッとしていることを自覚した。


「そうか。そうだよな」


 俺は深く息を吐きながら、脚立の上に一旦座り込んだ。今の短時間で相当精神をすり減らした。取りあえず力を抜いて休憩したかった。


「律希君があまりにも真剣な顔で聞いてくるから、自分が忘れてるのかと思ったけど、やっぱり私電話なんてかけてないよ?」


 あの瞑目してからの再びの沈黙は、健気に記憶を隅々まで確認してくれていた時間だったようだ。相変わらずの自分の隠し事の下手さに落胆しながらも、彼女に余計な時間を取らせたことについての謝罪を口にする。


「急に変なこと聞いて悪かったな」

「本当だよ。結局何の話だったの?」

「いや、日曜に誰かのケータイから電話がかかってきてな。それが誰なのか気になってたんだ」

「こんな唐突なタイミングで?」

「さっきふと思い出したんだよ」

「そうなんだ」


 俺の適当な言い分に悠那は少し引っかかっているようだったが、最終的には納得してくれた。その反応は特に不自然なところはなく、別にそこまで追及することでもないから流してくれたような印象を受ける。電話に関しては本当に心当たりが無さそうだった。


 悠那は白と見て良いだろう。なんとなく肩の荷が下りたような感覚があって、そこでやっと緊張が解けた。


「そんなことより悠那の好きな人の話だよ」

「ええ? またその話に戻ってくるの?」

「当たり前だ。俺の電話の話なんかより百倍そっちの方が気になる」

「電話の話は律希君が話し始めたんでしょ」


 担いでいた重荷がなくなった俺は、心が解き放たれて、少しばかり横暴になっていた。悠那は戸惑いを隠せないようで、若干引いている。


 そんなのお構いなしで俺は、憂さ晴らしをするように悠那を追及した。


「で? 誰なんだ?」

「これ以上はプライバシーの侵害だって言ったでしょ」

「絶対に他言しないと誓う」

「ダメ」

「普通に応援するだけだから」

「ダメ」

「邪魔するつもりは全くない」

「ダーメ」


 頑なに彼女の窓口は開かない。スーパーでお菓子を強請る子供をあしらう母親のような感じで、俺に対しておざなりに対応する。掃除する手が止まることはなく、よく見ると本棚の下半分は俺が担当の上半分とは違い、埃が綺麗に取り除かれていた。


 意地になった俺は、交渉の切り札として、一枚とっておきのカードを切る。自分に対するリスクを伴うが、これで彼女も首を横に振るのを躊躇ってくれるはずだ。


 そんな俺の目論見は見事に外れた。


「じゃあ俺の好きな人を教えるから」

「それはもう知ってるよー」

「え」


 間抜けな低い声が口から漏れる。悠那は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。


「律希君が白状するのは自由だけど、私は教えないよ」

「誰から聞いたんだ?」

「別に誰からも聞いてない」

「じゃあどうやって?」

「見てたら分かるよ。紗月のこと好きなんだろうなーって」

「……プライバシーの侵害じゃねーか」


 具体的な名前が出てきたことで俺は力なく項垂れることしかできなかった。


 迅の言っていたことを思い出す。豪以外には俺に思い人がいることがバレているという話は本当だったようだ。


 俺の顔のセキュリティーが甘すぎる。誰でも簡単にパスワードを解いて俺の心中を閲覧し放題なこの状況はどうにかならないものか。


 憂さ晴らしどころか逆に憂さを溜め込んだ気がする。俺はおぼつかない足取りで脚立を降りると場所を移動した。


 そこでふと頭を黒い影が過ぎった。そしてその影が全身を駆け巡っていく。俺はギギギと骨を軋ませているかのような不自然な動きで、悠那の方を向いた。


「なあ。俺が紗月のこと好きってこと、もしかして本人に伝わってる?」


 もし悠那がこの質問に対して、首を縦に振った場合、今後俺は紗月の顔をまともに見られなくなるかもしれない。彼女の前で尻尾をブンブン振っている様子を彼女自身にずっと見られていたのだとしたら、羞恥だけで死ねるレベルだ。もし一目惚れしたあの瞬間から気付かれていたとすれば、相当気を遣わせたに違いない。


 頼むから首を横に振ってくれと祈りを込めた、縋るような視線を悠那に送る。俺の普通じゃない目線に悠那は少したじろいでいたが、すぐに気を取り直して答えてくれた。


「どうだろう。私や綾乃からこの話を持ち出したことはないし、紗月からも聞いたことはないから分からないかも。でも紗月は別に鈍感じゃないし、気付いていてもおかしくはないんじゃないかなー」

「そうだよな……」


 深い溜息を吐いて頭を抱える。ただ僅かながら気付いていないという可能性が残っているだけ、少し救われた気がした。


 じんわりと視線を感じてスッと顔を上げると、悠那にじっと見つめられていた。


「なんだ?」

「やっぱり気付いてないんだー」

「何が?」

「ううん。なんでもない」


 曖昧な言葉を残して、首を横に振る悠那。気になって仕方がなかったが、俺が口を挟むよりも先に、彼女が口を開いた。


「思いを伝えようとは思わないの?」

「……それは紗月に告白しないのかってことか?」

「そう」

「思わない」


 俺は即答した。この質問に関しては答えが決まっていたので、考える必要がなかった。掃除の手を止めることもなく、淡泊に答えた。


 説明を求める視線を悠那から受ける。彼女にしては珍しく、真剣な表情だった。


「紗月にオッケーしてもらえるイメージが湧かない。俺と紗月じゃ釣り合わないしな」

「そんなことないと思うけど」


 悠那のお世辞をありがたく受け取っておく。無言で掃除を続ける俺を見て、悠那は尚も言葉を続けた。


「オッケーもらえるかどうかは告白してみないと分からないよ」

「俺は根性がないからフラれるのが怖いんだ」

「じゃあずっとその思いを抱えて生きていくの? しんどくないの?」

「振られるよりマシだ。振られるくらいなら、俺は片思いでいることを選ぶ」


 もし一年半前に同じ質問を受けていれば、俺の回答は違っていたかもしれない。でも今の俺の心はあの日から雁字搦めに縛り付けられている。周りから見ればただの失恋でも、俺にとっては忘れようにも忘れられない衝撃だった。


 悠那は複雑な表情で俺を見ている。別に俺は自分の考えを周りに押し付けるつもりはない。ただ自分はそうだというだけ。だから悠那には悠那の好きにしてもらいたかった。


 もし彼女が先程言っていた運命感じた人に思いを伝えたいと言うなら、俺は全力で背中を押す。その意思を伝えようとしたところで、悠那はまたもや先に口を開いた。


「私、花火大会で告白しようと思ってるの」

「え?」


 驚きのあまり脚立を踏み外しそうになる。自分が考えていたことにタイムリーな話だったこともそうだが、彼女が発した花火大会というワードに俺は動揺を禁じ得なかった。


 いつかそうしたいという次元の話ではなく、明確に期限を設けての話。それも一週間を切った花火大会が決行日。その直近具合に彼女の本気さを俺は感じた。


 それに花火大会といえば俺たちも参加する予定なのだが……。


「実は花火大会に皆を呼んだのも、このためだったりするんだよねー」

「……」


 彼女は照れた様子で頭をガシガシと搔きながらそう言った。その姿を俺は黙って見ていた。


「その人だけを呼ぶ勇気がなかったから、不自然にならないように全員を呼んだの」


 最初に私のワガママに付き合わせたと謝っていた意味がここで分かった。


 悠那が思い人に思いを伝えると決めた花火大会に俺たちを呼んだ理由。それは彼女の台詞からも分かるように、俺たち男性陣の中にその人がいるからだろう。


 迅には綾乃がいるし、俺はさっきの会話や反応からして違う。そうなってくると消去法的に一人の男の顔が思い浮かんできた。


「悠那の好きな人って……」


 俺が全てを聞いてしまう前に、悠那は口元に立てた人差し指を持ってきて、「しーっ」と静かに呟いた。俺はそれに従い口を噤む。彼女の反応を見る限り俺の想像は当たっているのだろう。


 正直意外だと思った。別に二人がしゃべっているところなんて今まで何度も見てきたし、いつも一緒に過ごしてきたメンツなので、そういう感情を持つようになるのは何ら不思議なところはない。


 ただこの二人の組み合わせは想像できなかった。じゃあどの組み合わせなら違和感がないのかと問われても、俺は答えを持ち合わせてはいないが、悠那があの元気印でチャラい男に惹かれるイメージが湧かなかった。


 ただあの男が良いヤツであるという点については俺も太鼓判を押す。若干そそっかしいところや落ち着きがない部分はあるが、どこに出しても恥ずかしくない男だとは思っているので、言っていた通り俺は悠那のことを全力で応援するだけだ。


「俺たち、邪魔じゃないのか?」


 思いを伝える上で周りに知り合いが何人もいるというのは、どう考えても好ましくない状況だろう。途中で二人きりになる状況でも作ってあげないと、悠那は告白しづらいはずだ。


 しかし、悠那は少しの間きょとん顔で固まった後、笑いながら首を横に振った。


「別に周りに誰がいるかは関係ないよ。私とその人がいればそれで良いの」

「……お前。……男だな」

「女の子だよー」


 俺は彼女の名言とも言って良いような発言に感銘を受けていた。褒め言葉として男だと言ったつもりだったが、悠那のお気には召さなかったようで、膨れっ面を俺に向けてくる。


 一切怖くないその表情をすぐに引っ込めると、悠那は体ごとこっちを向いて何歩か近付いてきた。視線は真っ直ぐ俺を捉えており、そこに照れや恥じらいみたいな浮ついた光は無かった。


「もし私の告白が成功したらさ……律希君も勇気出してみない?」


 途中で言葉を一旦区切った悠那は、優しい笑顔を浮かべて、頭を少し傾けた。


 勇気を出すとはつまりそういうことだろう。わざわざ聞き返して確認することはなかった。彼女が勇気を出すように、俺も同じことをしろということだ。


「悠那には勝算あるのか?」


 俺は目を逸らしながら、彼女に自信のほどを尋ねた。


「どうだろう。向こうは全然私の気持ちには気付いてなさそうだし、最近結構アピールしてたんだけど、全然靡いてくれなかったしなー」

「最近結構アピールしてたのか」


 先にそっちが気になってしまい、思わずツッコんでしまった。このこともそうだが、花火大会に告白を計画したりと、悠那は普段の柔らかい感じからは想像がつかないほど挑戦的な女の子のようだ。今まで一緒に過ごしてきて初めて知ったことだった。


 困り顔で唸っている悠那。確かにあいつの口から悠那のことが気になる的な浮ついた話は聞いたことがない。靡いていないという自己評価は俺から見ても正しいと思えてしまった。


 それでよく思いを伝えようと思える。彼女の小さな体にはどれほどの度胸が詰まっているのだろうか。俺なら絶対に心が折れているはずだ。


 彼女はそれでも、真っ直ぐな視線は揺れることなく、先程の優しい笑顔を取り戻していた。


「それでも、私は結果がどうなろうと、絶対に後悔はしないと思うよ?」


 彼女にしてははっきりとした強い言葉だった。語気云々の話ではなく、気持ちの強さを感じる言葉だった。


「思いを抱えて生きていくのってしんどいことだから。思いが伝わらないのって辛いことだから」


 だから私は臆さず向かっていくのだと、だからあなたも付いてきなさいと、そう言われているような気がした。結果がどうなろうと後悔しないというのは、つまりそういうことなのだろう。


 彼女にとって、思いが伝わらず抱えていなければならないことが、何よりも後悔なのだろう。


 凛々しい悠那の生き様に、俺はすごいなあと小学生のような感想を抱く。もし俺と悠那の性別が逆なら、もしかしたら惚れていたかもしれない。そう思えるほどに恋する悠那はカッコ良かった。『小さな巨人』とは彼女のことを指すのかもしれない。そんなこと言われても悠那は喜ばないだろうけど。


 正直まだ俺には告白するヴィジョンが全く見えない。紗月に思いを伝える覚悟なんか全然足りないし、彼女を前にしてまともに「好きだ」と言える自信なんて毛ほども無い。あの呪縛からはまだまだ抜け出せない。


 ただちょっぴりだけ勇気をもらった。そっと背中を押してもらった。同じ境遇の仲間として少しだけ手を引いてもらった。


 だから俺の回答は少しばかり前向きになった……、と思う。


「まあ……、考えとくよ」

「……ふふっ。ありがとう」


 いい加減な俺の返事にも、悠那は満足そうに大きく頷いた。期待しないでほしいが、彼女のためにも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ頑張ってみようかとこのときの俺は思った。


 その後はちょくちょく雑談も挟みつつ、速やかに清掃を進めた。神経を張り巡らせる必要がなくなったので、俺の作業効率は倍以上になり、想定していた時間よりも早く切り上げて、俺たちは学校で別れて各々家路についた。


 今日一日、というか数時間で悠那の印象がガラッと変わってしまった。これからはメンタル面の質問を頼りない男どもではなく彼女に聞いてもらうことにしよう。


 悠那の恋が実りますようにと、ギラギラ照っているお天道様に願いながら、俺はとぼとぼ歩いて帰った。


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