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2-3

2-3.チェンジアップが最適



 時は進んで夜の八時。俺は年季の入った青いプラスチック製の箱に跨がって、そこから白いボールを取り出し、目の前にポイッと放り投げるという行為を繰り返していた。


 俺が手にしているのは中学軟式野球で使用するM号球。プロ野球で使用される硬球に比べて少しだけ小さく柔らかいボールだ。


 別にこれは俺がただボーッとしながらボールを放り投げる頭のおかしな人になったわけではない。投げているのが野球のボールなだけあって、これを打ち返す人がちゃんといるのだ。


 俺の手元から放たれたボールは、気の抜けたようにふわふわと放物線を描きながら飛んでいく。その軌道に合わせて、黒色の金属バットが風を切りながらブンッという鈍い音を立てて振り抜かれる。


 パコッというボールが押しつぶされた軽い音とキンッという金属の高い音が同時に我が家の庭に響き渡った。打たれたボールは俺の隣に設置された緑色のネットへ突き刺さり、重力に従って力なく落下した。


 間髪入れずに次のボールが俺の手から放たれて、同じように金属バットが振り抜かれる。その結果、メトロノームのように一定間隔で、ボールとバットが接触する小気味良い音が俺の鼓膜を揺らした。


 誰がバットを振っているかというと、何を隠そう住ヶ谷家長女であり、年が三つ離れた我が妹、住ヶ谷由希すみがやゆきである。


 女子でありながら軟式野球部に所属している由希は、こうして毎晩ティーバッティングを欠かさず行っている。たまに俺もこうしてトス役として彼女に付き合ったりしている。


男子に体格で劣る自分はその分努力しなければならないと本人は言っていた。その言葉通り、彼女は今真剣な表情で汗を顎から垂らしながら、一度も力を抜くことなくバットを振り続けている。


 本当にこいつは俺の妹なのだろうか。可能な限り努力という文字から目を逸らしてきた俺とは大違いである。ちなみに俺も中学時代軟式野球部だったが、三年間ベンチを温め続けた。バットを握った記憶はほとんどない。代走では何度か出場したことがある。こんな話どうでも良いか。


「二十五……、二十六……、二十七……」


 自分のスイング数を数えながら、由希は打感を確かめるように丁寧かつ力強くバットを振り抜く。俺は彼女のペースを乱さないようにタイミングを見計らってボールをトスしながら、例の一件について考えていた。


 結局、あれ以降何一つ三人から変化を感じ取ることができずに、夏期講習は恙なく終わりを迎えた。


 綾乃は時々うつらうつらと船を漕ぎ、悠那は真剣な表情でノートをとり、紗月は後ろから無意味にちょっかいをかけてくる。


 今までみてきた日常と変わらない風景。見慣れた女性陣の姿だった。


 正直甘く見ていたところはある。迅から俺の近くに俺のことを好きな人がいると聞いて人は大分絞り込めたし、犯人もあれだけのことを言っておいて、俺が目を光らせる中で堂々と普通に振る舞えるわけがないと思っていた。


 どうやら犯人は相当なメンタル強者なようだ。一筋縄ではいかないらしい。


 今のところ迅がくれたヒント以外何の手がかりもつかめていない。こんな調子ではあっという間に一週間なんて経ってしまう。


 もっと自分からアクションを起こしていくべきなのかもしれないが、夏休みで、嫌でも顔を合わせていた一学期中とは違い、簡単に会うこともままならない現状、アクションを起こしようがない。そもそもどう動けば良いのか分かっていない部分もある。


 早くも俺は気持ち的には八方塞がり状態に陥っていた。


「どうしたの? お兄ちゃん。考え事?」


 突然俺がトスしたボールを打たずにキャッチした由希が、首を傾げながら問うてきた。


「ああ、悪い。打ちにくかったか?」

「いや、別にそんなことないけど。なんか放心状態だったから、どうしたのかなって思って」


 由希の純粋に俺のことを案じている表情を見て、俺は我に返った。どうやらまたもや顔に気持ちが表れていたらしい。俺は溜息を吐いた後、自分の表情筋を恨めしくつねりながら、そのまま由希に目を向けた。


「なあ、由希」

「何?」

「俺って結構分かりやすい人間なのか?」

「え? どうだろ。私は妹だから分かるっていうのもあると思うけど、まあ他人よりは顔に出やすい方なんじゃない?」

「そうか……」


 齢十七にして初めて知った事実に俺は落胆する。迅にも同じことを言われたので、俺がそういう人間だということは世界の共通認識なのだろう。今まで自覚がなかったので余計に恥じらいがこみ上げてくる。もしかすると、隠せているつもりだったあんなことやこんなことも、実は周りに筒抜けだったのではないかと思うと、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだった。


「別に悪い意味で言ったんじゃないよ? むしろで素直で好感が持てると私は思う!」

「……ありがとう。お前の気遣いが心に染みるよ」


 頭を抱えていた俺を見かねたのか、由希が胸の前で励ますように小さくガッツポーズをとりながら、若干苦み成分の残った笑みを浮かべていた。


 本当にできた妹だと思う。いつだって兄を立てることを忘れない。昔から俺の言ったことは素直に聞き入れてくれるし、ほとんど口答えなんてされたことがない。おかげで俺は由希と喧嘩をした記憶がない。機嫌が悪くなったとしても、長引くことはない。今どきこんなに仲の良い兄妹がいるのだろうかと自分でも思う。


「それで? どうしたの?」


 由希はバットのグリップを左手で持って、芯の辺りを右手で跳ねさせながら、聞く体勢に入った。どうやら俺の考え事の相談に乗ろうとしてくれているらしい。


 しかしそうは言っても、迅と豪にも相談しなかったように、内容が内容なので簡単に相談することはできない。何より今は由希の練習中なのでそれを妨げるわけにはいかない。


 少し話を聞いてもらいたい気持ちはあったが、俺は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。


「別に良いよ。練習の邪魔したくないし、気にするな」

「お兄ちゃんこそ気にしないでよ。練習に付き合わせてるのはこっちの方だし、遠慮なく、ね?」

「いや、話し出したら長くなるし、面倒な話だからいいよ」

「長くなっても良いよ? 私はバット振ってるだけだし。もちろんちゃんと話は聞くよ?」


 俺としては軽く流してもらいたかったのだが、彼女の親切心がそれを許さなかった。


 普段なら一度大丈夫だと言えばすぐに引き下がってくれるのだが、なぜかこの日は俺を逃がしてくれなかった。そんなに深刻そうな顔をしていたのだろうか。再度俺はほっぺたをつねる。

 じんわりとした痛みを頬に感じながら、俺はどうするべきか迷っていた。


 俺一人では堂々巡りになっていることも事実。今すぐ誰かの助力を請いたい状況ではあった。それに由希は妹だ。広めるなと言えばちゃんと広めないでいてくれるだろうし、三つ離れていると言ってもほぼ同世代。女子からの貴重な意見をもらえるチャンスでもあった。


 相談するなら由希が一番なのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎる。俺は腕を組みながらしばらく頭を悩ませた。


 そして最終的に。


「そうだな。まあ打ちながら適当に聞き流してくれ」


 俺は由希に相談することに決めた。由希は俺の決断を受けて満足そうに破顔し、バットを握り直してヒッティングの構えに戻った。


 そこへ俺がボールをふわりとトスする。そうして由希のトスバッティングを再開しながら俺は、突然電話がかかってきたことから電話主を見つけ出さなければいけないこと、現状分かっていることなど、例の件に関することをかいつまんで簡単に説明した。


 ちょうど箱の中に入っていたボールを由希が打ち切ったところで、俺の説明が終わった。


 深く息を吐きながら額の汗を拭う由希。一呼吸置いてから彼女は口を開いた。


「ねえ、お兄ちゃん」

「ん? どうした? 何か分かったか?」

「それって警察とかに言った方が良い話なんじゃないの? 人の命が関わってるんでしょ?」

「……確かにそうだな」


 俺は由希が一瞬で導き出した答えに深く納得していた。


 由希の言う通り、人の命が関わっている以上、一高校生が一人で抱えて良い問題ではないことに今になって気付いた。今まで話が大きくなることを恐れていたが、そんなこと言っている場合ではなかったのだ。


 絶対に調査のプロである警察に頼った方が、彼女の命を守ることができる可能性が高いに決まっている。なぜその発想が出てこなかったのか自分でも分からない。


「もし最悪の結果になったとして、その着信履歴がバレたら、変にお兄ちゃんが疑われるかもしれないよ?」

「そうだな……」

「それにこんなことお兄ちゃん一人で解決できると思ってたの?」

「すいません……」

「ちゃんと事件の大きさ理解してる?」

「甘く見てたかもしれないです……」


 どんどん俺の声が小さく萎れたものに変わっていく。高校二年生にもなって俺は三つ下の妹に説教を受けていた。自分の事を客観的に見て、あまりの情けなさに、しゅんと体を縮める。


 そんな俺の姿を見て、少し言い過ぎたと思ったのか、由希はニヤリと笑いながら茶化すように俺の顔を覗き込んだ。


「人生初めての告白だったからって、有頂天になってたんじゃないの? もしかして警察に電話したらその子と付き合えなくなるかもしれないからずっと黙ってたの?」

「そ、そんなわけないだろ。警察に相談する発想が出てこなかったのは、突然のことで気が動転していたからだ。断じてそんな下心はなかった」

「気が動転って、本当に?」

「いやガチで。ガチで動転してた。何なら自転と公転もしてたかも」

「バカなこと言ってないで、ボール集めるの手伝ってよ」

「はい……」


 誤魔化すためにネタに走ったところ、また怒られてしまった。有頂天だった部分もあるけど、気が動転してたのも本当なんだけどなあ。


 俺は由希の指示におとなしく従い、箱をネットの前に持っていき、散らばったボールを拾ってその箱に入れていく。


「まあ、もう警察には言わなくても良いんじゃない?」


 さっきまでの意見とは真逆のことを由希はボールを集めながら口に出した。


「その心は?」

「だって候補は絞れてるんでしょ? 綾ちゃんたち三人に」

「まあそうだな」


 由希が言う「綾ちゃん」とは綾乃のことだ。俺が小さい頃から彼女と遊んでいたこともあり、由希は綾乃と面識がある。何なら実の姉のように慕っており、今では俺よりも連絡を取っていると思われる。


 由希には迅からもらった情報についても伝えていた。


「じゃあもうその三人に聞くだけで分かるじゃん。警察の力借りなくても」


 簡単なことだと言わんばかりに、声のトーンすら変えずに何気なく由希はそう言った。


「聞けば良いって言っても、どう聞けば良いのか分からないんだって」


 それに対して俺は眉をハの字にした困り顔で、悩み事の本題を訴えた。


 三人を調査すれば良いことは分かっているが、どう探りを入れれば良いのかが分からない。犯人も簡単に尻尾を出すつもりはないようで、一日観察しているだけでは何も分からなかった。


 俺の困窮した声を聞いた由希は、スッと俺の方を振り返った。表情からは力が抜け落ちており、キョトンとした顔で俺のことを真っ直ぐ見ていた。


「どう聞けば良いも何も、三人に直接聞けば良いじゃん。あなたが犯人ですかって」

「いきなりストレートに?」

「うん」

「……」

「だって当てるだけで良いんでしょ? 回答の回数制限も特にないみたいだし、聞き得じゃん」

「……確かにそうだな」


 由希が口にした作戦は、俺が当初計画するだけして断念した作戦に似ていた。


 それはこの街全員の女性に「あなた、僕に告白しましたか?」と聞いて回るというもの。主に俺のメンタル面の心配を理由に断念したのだが、この場合は三人だけで済むし、何より相手が友人ということもあって、聞いて違うと言われれば笑って誤魔化せば良い話だ。


 話を広げたくないという思いが強すぎて、慎重になりすぎていたかもしれない。由希の言う通り、犯人を見つけ出す過程に何の指示もないし、回数制限が設けられているわけでもない。


 彼女の命を第一に考えるのなら、なるべく早く当ててあげるのが一番なのだ。


「でも自分のこと好きか聞いて回るの、恥っずいなあ」


 それでも自分のメンタルも同じくらい大事にしている男がここに一人。自分の恥ずかしい未来を想像して頭を抱えていた。


 友人相手というのは、何も知らない人を相手にするときよりも聞きやすい分、違っていたときの気まずさは比べものにならない。今後共に生活していく上で、そのことで一生いじられることになるのが目に見えている。


 そういうネガティブな想像ばかりが働いて、とても行動に移す気にはなれなかった。


「まあ一発で当てられることに越したことはないと思うし、誰から聞くかは慎重に選んだら?」


 由希が羞恥に潰れそうになっている俺を見かねてアドバイスをくれる。そんな優しく、ちゃんと真剣に考えてくれる妹に俺は縋った。


「どうやって選べば良いと思う?」

「うーん。今日見た感じでは皆特に普段と変わらなかったんだよね」

「ああ。三人とも通常運転だった」

「……。まあ普通に考えて彼氏がいる綾ちゃんは一番可能性が低いと思う」

「それはそうだな」


 俺はボールを集める手を止めて深く頷く。これは俺も密かに思っていたことで、迅という存在がいながら、綾乃が俺に告白してくるなんてことはまずないだろうという話だ。


 だから非通知で匿名の告白をしてきたとも捉えることができるが、綾乃の性格上そんな回りくどく捻ったことはしないだろう。彼女ならちゃんと迅と話し合って筋を通してから、真っ正面から告白してくるはずだ。


 ボールを集める作業を再開したところで、何やら視線を感じて振り向いた。するとそこには、口元を隠しながらニヤついている由希の顔があった。


「それに、お兄ちゃん一回綾ちゃんに告白して振られてるしねー」

「おい。せっかくスルーできると思って気付かないふりしてたのに。わざわざ掘り返すなよ」


 墓場まで持っていくつもりだった話をぶり返された俺は、思わず手に持っていたボールを投げつけそうになるが、何とか兄の寛大さで踏みとどまった。


「ごめんごめん。あのときの蝉の抜け殻みたいなお兄ちゃん思い出したら、面白くってさ」

「失恋で傷心している兄を思い出して笑うな」


 全く反省していなさそうな笑い声を聞いて、俺はこめかみに怒りマークを作る。


 まあ由希の言った通り、ちょうど一年半前くらいのことだが、俺は一度中学時代に綾乃に告白して振られている。これも綾乃が俺に告白してくる可能性を下げている要素ではあった。一般論だが、一度振った相手に告白するというのは考えにくい。


 先の理由とも併せて、由希が言った、綾乃が一番可能性が低いというのは、正しいと言えるのではないだろうか。


「まあ、だから残る二人のどっちかってことになるんだろうけど」


 そう言いながら由希はバットを握り直しながら、芯の辺りをボーッと眺めている。残りのボールは俺の周りにある分だけだ。ちょうどそれらを集めきったところで、由希は何か思いついたかのように「あっ」と声を漏らして、視線を俺の方に移した。


「そういえばお兄ちゃんの好きな人はその二人のうちどっちなの?」

「え?」


 唐突な質問に驚いて、俺は箱に座り損ねる。もうすぐでボールと一緒に俺のお尻もインしてしまうところだった。


「どうしたの? そんなに慌てて」

「いや、当然のように俺に好きな人がいるという事実が知れ渡っていることに驚きを隠せないだけだ」

「それは多分、家族皆知ってるよ」

「俺にプライバシーは無いのか?」

「隠せないお兄ちゃんにも問題があると思うけど」


 ぐうの音も出ない。俺には咳払いをしながら座り直すことしかできなかった。


「だって夏祭りの話のときのお兄ちゃん、ウッキウキだったもん」


 由希は若干哀れむような目で俺を見て、苦笑いを浮かべながらそう言った。


 話は遡って例の電話が来る数分前。俺はリビングに揃っていた家族にとある報告をした。


「ごめん。今年の花火大会、一緒に行けないわ」


 住ヶ谷家は、淀川の花火大会に毎年家族揃って足を運んでいる。その恒例行事に今年は参加できないという旨を伝えたのだった。


 俺の報告に最初に反応を示したのは母親だった。


「あ、ごめんなさい。お母さんとお父さんも今年は一緒に行けないの。言ってなかったわね」

「え? そうなの?」

「うん。出店のお手伝い頼まれちゃってね。隣の乾さん家のたこ焼き屋さんに行かなくちゃならないの」


 綾乃の家は毎年たこ焼き屋の屋台を花火大会の日に河川敷で出している。いつも、通りかかれば頼んでもないのに、パックにぎゅうぎゅうに詰められたたこ焼きを俺と由希に持たせてくれた。どうやらそこのお手伝いを頼まれたようだ。


「なんだ。結局皆では行けなかったのか」


 こんなに改まって報告する必要がなかったことを理解して、俺はそう呟いた。


 そこでケータイをいじっていると思っていた父親が、何やらニヤつきながらこっちを見ていることに気がついた。


「友達から誘われたのか?」

「ん? ま、まあそうだけど。さっき皆で一緒に行かないかって連絡が来て……」

「ふーん」


 意味深に頷くだけの父親。絶対に何か考えている風なのにそれ以上は何も聞いてこなかった。


 その姿に困惑していると、次は母親から声がかけられる。


「何人で行くの?」

「……六人だけど」

「女の子もいるの?」

「ま、まあ三人くらい。綾乃もいるけど」

「ふーん」


 父親と同じ反応を見せる。スッキリしない二人の態度が気持ち悪い。


 俺はとにかく理解できない二人の視線から逃れるために、話を由希へと振った。


「由希は良いのか? 俺たち一緒に行けないけど」


 ソファーでスナック菓子を食べていた由希は、俺に背を向けたまま、手を挙げてヒラヒラと振った。


「私も友達と一緒に行くから大丈夫ー」


 気怠げな声が向こうから聞こえてくる。回答としては俺と同じような内容だったが、由希には俺に向けられたような視線が送られることはなかった。


 結局この話はそれ以上広げられることはなくここで終わり。この後に非通知の電話がかかってくることになる。


「そんなにあのときの俺はおかしかったのか?」


 由希のトスバッティングが再開され、俺はボールを由希の方にヒョイッと上げながら、そのときの自分を思い出した。何一つ変な言動をした自覚がない。


 しかし、由希は一スイングずつ力を込めながらも、途中で堪えきれずに笑い出してしまったので、俺はボール上げを中断せざるを得なかった。


「なんかあのときのお兄ちゃんずっとニコニコしてたじゃん」

「ニコニコ? 俺が?」

「うん。あと声のトーンもなんか高かったし」

「……これって俺の話で合ってるよな?」

「当たり前じゃん」


 由希が涙を拭いながらはっきりとそう言い切る。どうしても信じ切れずに、由希が俺のことをからかっているだけだと思いたかったが、彼女の口調を聞くと嘘ではないことを理解させられた。


「まあ、お兄ちゃんに好きな人がいるっていうのは前から薄々分かってたことだったけど、あのときの会話で花火大会にその好きな人も来るっていうのは、家族全員に共有されただろうね」

「もうやめてくれ。お願いだから兄としての威厳をそれ以上下げないでくれ」


 俺には顔面を両手で覆うことしかできない。受け入れられる恥じらいの量はとっくにオーバーしていた。このままでは顔に血が上りすぎて血管が爆散してしまいそうだ。


 由希はそんな俺を見て再び笑い声を上げていた。多少ムカつくこともないが、相談に乗ってもらっていることだし、妹を笑顔にすることができたと考えることで、怒りをなんとか鎮めた。


「それで? どっちがお兄ちゃんの好きな人なの?」


 このままなんとなくトスバッティングを再開すれば、話が流れるのではないかと期待したが、そうは問屋が卸さない。自分の顔を覆っていた手をどかすと、俺の視界には由希のニヤついた顔が入ってきた。


「それって言わないとダメか?」

「教えてくれないと私の気が済まな……じゃなくて、犯人を絞りきれない」

「めっちゃ私情漏れてるけど」


 俺にツッコまれても由希は堂々としていた。何としても俺から聞き出す気でいる。


 面倒くさい展開に俺は深い溜息を吐いたが、結局由希に従って白状することに決めた。どうせ黙っていてもそのうちバレるのだ。自分の知らないところで把握されているよりかは、自分で言った方がいささか羞恥は少なくて済む。


 そう思ってしまう程度には、もう俺は自分のポーカーフェイスに信用を置いていなかった。


「俺が好きなのは……」


 そこまで言って俺は言葉を詰まらせる。実際口に出してみると想像以上に恥ずかしくなってくる。由希の真っ直ぐな視線も相まって、俺は耐えきれずに目を両手で覆って、最終的にはボソボソと情けない声で、その子の名前を口にした。


「……紗月だよ」


 そう言った瞬間、無数の赤血球たちが顔面中の血管を暴れ回るのを感じた。おそらく今の俺の顔は、この世に存在するどの物よりも赤くなっていることだろう。何なら発光しているかもしれない。地球のエネルギー問題もこれで解決に至るかもしれない。


 そうやってふざけた思考に走るしか、恥じらいを受け流す方法がなかった。


 今まで伏せてきていたが、改めて言うと俺が好きなのは紗月だ。迅によるとほとんど周りにバレているらしいが、一年の一学期から俺が密かに思いを寄せている人物である。いわゆる片思いというやつだ。


 俺は恐る恐る由希の反応を知るために、目を覆っていた両手をスライドして視界を確保した。


「なるほど。紗月さんね」


 意外にも由希は茶化すことも、俺の奇天烈なポーズにツッコむこともせず、ただそう呟いて、ジャージのポケットから取り出したケータイを何やら操作していた。


「何してるんだ?」

「情報収集」

「何の?」

「紗月さんの」


 由希が簡潔にそう答えた瞬間に、骨を鳴らしたときのような軽快な音が由希のケータイから聞こえた。これは某無料通話・メールアプリでメッセージを受信したときの通知音だ。どうやら誰かと連絡を取っていたらしい。


 由希は再び画面を操作すると、程なくして驚いたように目を見開いた。


「ひえー。大人っぽくて綺麗な人だねー。こんな美人な人を好きになるとか、お兄ちゃんって結構挑戦的だね」


 由希は失笑気味でそう呟きながら、ケータイの画面を注視していた。その画面をこっちに向けてくる。そこには綾乃とのトークルームが表示されていた。


 何やら綾乃から画像が送られてきている。よく見てみると、綾乃と悠那と紗月が笑顔で互いに抱き合っているスリーショットの写真だった。


 学校の中庭の花壇を背景にした写真。綾乃は弾けるように笑い、悠那はくすぐったそうに笑い、紗月は意地悪そうに笑っている。各々違った笑顔が捉えられたその写真は、何かの雑誌の表紙にできそうなほど、華やかで可愛らしいものだった。


 紗月は綾乃とは違い、高校からの友達なので、由希は面識がない。だからどんな人なのかを知るために、綾乃へと尋ねていたようだ。


 由希の一連の行動に納得しながらも、俺の羞恥心は大きくなった。自分の好きな人を詳しく知られるのは、なんとなくむずがゆい気持ちになる。心が実体であるなら掻きむしっているところだった。


「まあ、釣り合わないとは思ってる。高嶺の花ってやつだな」


 恥じらいを誤魔化すために、自分を下げておいた。まあ実際に思っている事ではあるので、適当なことを言っているわけではない。


 相手は学校中から人気のある美少女。片や俺はクラスメイトからも認知されているか疑わしいモブ。会えば親しげに話しかけてもらえている現状でさえ奇跡と思える。


「ふーん」


 由希は視線をケータイの画面と俺の顔との間を交互に移動させながら、気のないような間延びした返事を返してきた。


「何がきっかけで好きになったの?」

「絶対にそれは犯人捜しとは関係ないだろ」

「うん。単純な私の興味」

「綺麗な開き直りだな」


 由希はついに建前を口にしなくなった。自分の行動の正当性を疑っていない純粋な眼差しを俺に向けてくる。


 自分の恋路を誰かに話すというのは恥ずかしいものだ。だから頑なに固辞しても良かったのだが、このときの俺は打ち明ける方向に舵を取った。もしかしたら俺にも、多少なりとも自分の片思いを誰かに共有してほしいという気持ちがあったのかもしれない。


 俺は特に由希に返事をすることなく、当時を思い出すように腕を組んで空を見上げた。


 大阪と言えどここら辺は梅田や福島あたりの大都会からは少し離れている。見えにくくはあるが、いくつかの星がビルや商業施設の明かりに負けないように燦々と輝いている。


 その中でもひときわ目立った明るさで光っている星が目についた。確か名前はベガ。誰しもが聞いたことのある夏の大三角と呼ばれる超人気星グループの一員で、日本では七夕の織り姫星としても有名だ。


 他の星とは一線を画すような明るさを誇るその星には、自然と目線が吸い込まれていく。織り姫と呼ばれるだけあって、その輝きは華やかで美しく、ボーッと眺めてしまうような魅力的な雰囲気がある。


 初めて彼女を見たときも同じことを思ったのを思い出した。


 遡ること、今度は一年と三ヶ月ほど前。新しい学校での新生活が始まり一ヶ月弱が経過したその日、俺は初めての席替えで手に入れた、黒板に向かって一番左後ろという絶好の居眠りスポットで、為す術なく困り果てていた。


 絶好の居眠りスポットといっても俺は真面目なので居眠りするつもりはない。窓から入ってきた春の柔らかな陽気を全身で受けることにより、何度か船を漕ぐことはあるかもしれないが、板書だけはしっかりとノートに写す所存だ。先生の話が右から左であることは素直に認める。


 そんな俺が何に困っているかというと、机上を見れば明らかだった。


 今日の一時限目は化学。俺の机には前回の授業の続きのページが開かれており、ノートにも下敷きがセットされていて、授業を受ける準備は万端である。


 しかし致命的な欠陥がそこにはあった。


 俺の机の上には筆記用具が存在していなかったのである。


 昨日の夜、宿題をするために自室の机の上へと筆箱を出して、そのまま鞄に直さずに登校してしまった。そのことに朝のホームルームが終わってから気付いたので、家に取りに帰ることもできなかった。


 友人を作ることに積極的でない俺は、今のところひとりぼっちではある。クラス外はもちろんのこと、クラス内にも気軽に筆記用具を借りられるような友人は一人もいない。強いて言えば綾乃がいたが、当時は振られてからあまり時間が経っておらず、声をかける気にはなれなかった。


 というわけで俺には自分の席で机と睨めっこするしかやることがなかった。


 試しに「筆箱、出てこい!」と本気で念じてみたが、頭に血が上るだけで机上に変化はなかった。このままでは自分の血でノートに化学式を書くことになるだろう。


 どうやって血を出そうかと思いながら、自分の指に逆剥けがないか確認していたところ、不意に右腕をツンツンと突かれる。完全に自分の世界に入りきっていた俺は、突然のことに驚いて肩をビクッと震わせて、ゆっくりと右を向く。


「ちょっと。お化けじゃないんだからそんなに驚かないでよ」


 視界には俺の反応がおかしかったのか、堪えきれずにクスクスと笑っている少女が映った。

その瞬間、俺の左の窓は開いていないはずなのに、風が俺に向かって彼女の方から吹き抜けていったような感じがした。


 俺の右隣に座っていたその少女は、教室の中で一人だけスポットライトを当てられているかのように輝いて見えた。軽く波打ったセミロングの綺麗な髪。切れ長の目を軸に整った顔立ち。透き通るような白い肌。


 彼女が出す美少女というよりも美女な雰囲気にあてられて、俺は呆気にとられてしまった。今までクラスメイトの顔をまじまじと見ることはなかったので気付かなかったが、俺の隣人は紛う事なき美人さんだった。


 しばらくそのまま見つめていると、俺の心臓の動きが激しくなっていることに気がついた。今思えば、いわゆる一目惚れというやつだったのだろう。


「何? 私に何かついてる?」


 俺が全く視線を逸らさないのを見て自分に異変が生じていると感じたのか、彼女は自分の制服を払ったりしながら身なりを確認する。


 彼女のその行動と女性にしては低く落ち着きのある声で正気に戻った俺は、自分が見とれていたことにそこで気がついた。


「いや、別にそういうわけじゃない。気にしないでくれ」


 慌てて俺は誤魔化すように平然を装う。目は泳いでいただろうし、心臓の音は耳元で鳴っているかのようにうるさかったが、彼女は「そう」と言って頷くだけで、それ以上追及してこなかった。


「何か用?」


 気まずさから間を埋めるように言葉を出した。俺が驚いた反応を見て笑っていたことから、俺の腕を突いてきたのは彼女だろう。推測は正しかったようで、彼女は俺の窺う視線を受けて「うん」と小さく首肯した。


「いやー、筆箱忘れちゃったのかなーって思ってね?」


 薄く微笑む彼女の視線は俺の机上へと注がれている。端から見ればやる気があるのか無いのか分からないような俺の机の上。彼女もそこに違和感を抱いたようで、勉強をするというパズルにおいて決定的に足りないピースについて指摘してきた。


「まあ、忘れたというか、家に置いてきたというか」

「それって忘れたのと何が違うの?」


 なんとなく自分の過失を認めるのが恥ずかしくて、よく分からない言い回しで答えてしまった。それがおかしかったのか彼女は思わず噴き出している。


 女の子を笑顔にできるのは嬉しいことだが、彼女には先程から変なところばかり見せてしまっている。初手の会話から変な人というレッテルを貼られるのは俺の望むところではない。


 なんとかこれから挽回しなければ、なんて思っていると、彼女の表情が純粋な笑顔から、目を細めてニヤリとした蠱惑的な笑みに変わった。


「お姉さんが貸してあげよっか」


 そう言った彼女の右手には、ピンク色のシャーペンが滑らかな動きで踊っていた。華麗なペンさばきを横目に、俺の視線は彼女の大人な笑顔に吸い込まれる。彼女の言葉通り、同学年のはずなのに、俺には彼女がいくつか年上に見えた。


 また意識がどこかへと旅立ってしまう前に、俺はなんとか口を動かした。


「別にいいよ。一日くらいノート取らなくても俺の成績はさほど変わらないし」

「なに遠慮してるのよ。シャーペンくらいパパッと適当に借りなさいよ」


 そう言って彼女は俺に、回していたシャーペンを押し付けて握らせた。彼女の案外小さくて柔らかい手が俺の右手首と掌に触れる。大分落ち着き始めていた心臓がまた暴れ始めるのを感じた。


 咳払いでそれを誤魔化して、渡されたシャーペンに目を移す。どこにも傷がついていないし、芯を出すために押し込む部分に付いた消しゴムはまだ使用された痕跡はない。どうやら新しいもののようだ。


「良いのか? 俺みたいな人間にこんな良いヤツ貸しても」

「良いヤツって、別にそれ、新しいだけで高級でもなんでもないわよ? それに俺みたいな人間って、自分の事どんな人間だと思ってるのよ」

「どのクラスにも一人はいる、いてもいなくても気付かれない没個性のモブ男だと思ってる」

「まあ妥当な評価かなー」

「おい。ちょっとは否定してくれ」


 てっきり「そんなことないよー」と言って慰めてもらえるものだと思っていたが、彼女はすんなり俺の自己評価を認めた。


 思わず初対面なのにツッコミを入れてしまった。彼女は「ごめんごめん」と薄っぺらい謝罪を口にしながらケタケタと笑っていた。


「でも今話してて思ったけど、住ヶ谷君って案外喋れるんだねー。めちゃくちゃコミュ障なのかと思ってた」


 収まっていない笑いをどうにか堪えながら、彼女から割と失礼な印象を持っていたことが伝えられる。普通なら先程の流れでツッコんでいただろうが、彼女の台詞に違和感を覚えた俺は、一瞬間を置いてからツッコミではなく全然関係のない質問を口にした。


「今、住ヶ谷君って言った?」


 俺の聞き間違いでなければ、彼女はさっき俺のことを苗字で呼んだ気がした。彼女の口から俺の苗字が飛び出すとは思っていなかったので、反射的に尋ねてしまった。


 彼女は俺からの疑問を受けて、しばらくキョトンとした顔で何度か瞬きを繰り返していた。


「え? うん。言ったけど? 住ヶ谷君でしょ? 住ヶ谷律希君」


 改めて彼女の口から出てきた俺の苗字。今度は名前まで付いてきた。


 俺はその事実が受け入れられずに、眉間にしわを寄せて怪訝な表情をした。


「なんで俺のフルネームを知ってるんだ?」


 なぜこの子は俺なんかの名前を把握しているのだろう。このときの俺は純粋にそう思った。彼女に名前を覚えてもらうような機会があった覚えはない。だから彼女がすんなりと俺の苗字を口にしたときに妙な違和感を覚えたのだ。


「別にクラスメイトの名前くらい覚えててもおかしくはないでしょ?」

「……確かにそれはそうだな……」


 彼女は苦笑いを浮かべながらそう答えた。そこで俺は自分が頓珍漢な疑問を抱いていたことにやっと気がついた。


 普通に学校生活を送ろうとしているのなら、クラスメイトの、それも隣の席の生徒の名前くらいは把握していても何もおかしくはない。むしろ自然なことだと思う。


 こんな美人な同級生に名前を知られているという事実が、俺にとってあまりにも非現実的なこと過ぎて、脳が受け入れを無意識に拒否してしまっていたようだ。


 俺はまた変なところを見せてしまったことを謝ろうと思い、彼女の顔に目を向けると、何やらじとっとした目で俺の方を見つめている彼女の姿があった。


「……」

「……」


 しばらく無言でお互いの視線だけがぶつかり合う。なんとなく嫌の予感がしたのと気まずいのとで、俺は先にパッと目を逸らした。


 その瞬間彼女のしっとりとした低い声が俺の鼓膜を揺らした。


「もしかして……私の名前、知らないな?」


 ビクッと俺の肩が震える。それと同時に前進から冷や汗が噴き出すのを感じた。


「さ、さあ。それは、ど、どうだろうね?」


 俺は錆び付いたブリキのロボットのようにぎこちない動きで彼女の方を向くと、見えない力に頬を引っ張られているかのような引きつった笑顔を披露した。 


 俺の反応を見た彼女は露骨にガックリと肩を落とす。


「あーあ。ショックだなー。仲良くしたいと思ってたのは私だけだったのかー」

「え? 仲良くしたいっていうのは?」

「初めての席替えで隣になったんだし、友達になりたいと思ってたんだけどなー。名前も覚えてもらってなかったのかー。悲しいなー」

「……」


 まさかそんなことを思ってもらっていたとは。予想外の展開に俺は絶句するとともに、今まで教室の中には目を向けず、窓の外ばかりをボーッと眺めて過ごしてきた自分を殴り飛ばしたくなった。せっかく彼女とお近づきになれるチャンスを逃してしまったのだ。こんなことなら左を向けないように寝違えておくべきだった。それなら彼女の存在にもいち早く気づけただろうに。


 ただ過ぎてしまったことは仕方がない。ここは素直に謝罪して、改めて友達になるように検討してもらうしかないだろう。


 若干彼女の下手くそな泣きの演技が鼻に付くが、俺はグッと堪えて彼女に向かって頭を下げた。


「悪気はなかったんだが、名前を覚えてないのは自分でも失礼だったと思う。不快な気持ちにさせたのなら謝るよ」

「ちょっと。冗談なんだからそんなにかしこまらないでよ。別にそこまで私気にしてないし」


 頭上から明るい声が降ってくる。分かっていたことだったが、そこまで彼女が怒っていないことに安堵しながら顔を上げる。


 するとそこには、再び小悪魔のような意地悪そうな笑みを浮かべた彼女がいた。


「私の名前、教えてほしい?」


 上目遣いで問われる。心臓が跳ねるのを感じながら、なんとか答えを捻り出す。


「まあ、シャーペン貸してくれる人の名前くらいは覚えても良いかな」

「うーん。なんか理由が気に入らないけど、まあいっか」


 正直に知りたいと言うのが照れくさくて、適当なことを言ってしまったが、なんとか合格できたようだ。彼女は一瞬尖らせた口先をすぐに引っ込めた。


 そして少し頬を赤らめながら恥ずかしそうにはにかんだ。


「一花紗月。これからよろしくね」


 大人びた顔立ちはそのままに、先程までの余裕のあるお姉さん的な表情とは違い、高校生らしいあどけない笑顔だった。何気ない日常の教室が背景。彼女の存在を際立たせるようなものは何も無い。


 それでも俺の視界に映る彼女は、そういうフィルターがかかっているかのように、鮮やかに映えていた。青春映画の一幕へと入り込んでしまったような感覚に陥る。その一枚絵は一生忘れられないと確信できるほどに俺の記憶へと焼き付いた。


 そのとき、俺はこの子に、紗月に惚れているんだと、改めて認識した。


「綺麗だ……」


 思わず口をついてこぼれ出た率直な感想。しまったと思ったときにはもう遅く、俺の声は三秒ルールで拾おうとした俺の手をするりと躱して、紗月の両耳へと入り込んでしまった。


 はにかんでいた紗月の表情がそのまま不自然に凍り付く。するとまるでその表情を溶かすかのように、みるみるうちに彼女の顔全体が朱色に染まっていった。


「え? 何? 何か言った?」


 紗月は目を泳がせながら、自分の髪を無駄になでつけている。この反応を見る限り、絶対に俺が言ったことを聞き取ってしまったのだろう。


「あ、いや、今のは違う、いや、違うわけではないけど、なんていうかその……だな……」


 俺は俺で伝えるつもりのなかった感想が彼女に伝わってしまったことで焦りに焦っていた。俺と彼女の間にドギマギした気まずい空気が流れる。


「あの、綺麗な名前だなって言ったんだ」


 俺は苦し紛れに、先程の恥ずかしいポロリを誤魔化すような台詞を捻り出す。今思えばこの台詞も十分恥ずかしいものに思う。


「え? 名前? そ、そう。それは初めて言われたわね……。まあ、その、ありがと……」


 紗月も十分恥ずかしがっていた。髪の毛を人差し指にくるくると巻き付けている。ただ、このときの俺は上手く誤魔化せたと思って安心していた。


 そしてふとあることに気付く。


 てっきり大人っぽい風貌で、大人っぽい雰囲気を醸し出している彼女は、こんなことで取り乱すような人ではないと思っていた。余裕の笑みで受け流してくれると思っていた。


 そんな予想に反して彼女は、顔を赤らめ、目を泳がせ、言葉を詰まらせている。余裕とはほど遠い反応だった。案外ウブなところがあるようだ。


 俺はそうした予想との乖離が面白くて、少し噴き出してしまった。


「ちょっと、何笑ってるのよ」

「いや、意外と可愛いところもあるんだなと思いまして」

「意外とは何よ。私だってまだ十五歳なんだから、可愛いところの一つや二つあるでしょうよ」


 彼女はプリプリと怒っていた。頬を膨らませて不平を訴えてくる。そんな様子が面白くてまた噴き出すと、また彼女もプリプリと怒っていた。


 そんなバカみたいなやりとりがその後も続いた。その日以降、紗月は度々俺に話しかけてくるようになった。しばらくすると俺もいつの間にか自分から話を振るようになっていた。


 そうして俺は一方的に彼女へと好意を抱いたまま、ただの世間話をする友達という地位を維持し続け、今に至る。


 これが、俺が紗月を好きになった経緯である。


 俺が話し終えると、由希は怠そうに大きな欠伸をしていた。横から見ていると狼が月に向かって遠吠えをしているみたいだった。


「おい。お前が言えって言ったんだろ。露骨に怠そうにするな」

「だってお兄ちゃん、話長いんだもん。今どき校長先生でももっとコンパクトに話纏めるよ」

「しょうがないだろ。俺の恋路を語るには原稿用紙一枚なんかじゃ収まりきらないんだ。これでも結構端折った方だぞ」

「本当? 話は一応ちゃんと聞いてたけど」

「なんで一応なんだ。重要なところはメモるくらいの熱量で聞け」

「要は一目惚れだったってことでしょ?」

「……まあ、その解釈で合ってる」

「ひ・と・め・ぼ・れ。五文字で済むけど」

「……」

「原稿用紙一枚どころか、一行で収まるけど」

「……」


 何も反論する言葉が出てこない。ただ半開きの瞼をピクピク痙攣させることしかできない。どうやら今の俺は自分の恋バナを共有したいだけの自己顕示欲の塊と化していたらしい。


 俺と由希の間に得も言われぬ沈黙の帳が降りた。


 間を埋めるようにミンミンゼミがどこかからか鳴き声を上げ始めた。どうやら最近の蝉は空気を読めるようになったらしい。彼らもこのご時世うるさいだけではやっていけないようだ。


 そんなどうでもいいことを考えていると、由希が深い溜息を吐いた。


「兄の淡い恋模様を長々と聞かされる妹の身にもなってよ」

「だからそれはお前が話せって言ったことだろ」

「長々と、とは言った覚え無いけど」

「うるせーな。確かに一目惚れではあったけど、そんな単純なもんじゃねーんだよ。その後のやりとりも含めて俺は紗月を好きになったんだ」


 尺の都合上カットしたが、シャーペン貸し借りがあった後に、消しゴムも貸そうというありがたい申し出が紗月から上がった。しかし、彼女の筆箱には一つしか消しゴムが入っておらず、加えてその消しゴムはシャーペン同様新しい物だった。


 そんな消しゴムを借りようとするほど俺は図々しくも傲慢でもない。それに消しゴムは最悪無くても問題ない。俺は紗月からの申し出を辞退しようとした。


 しかし彼女は俺からの返答を聞く前に、消しゴムを躊躇いなく半分にちぎってしまい、その片方を俺に手渡してきた。別にそこまでする必要は無いのにと言ったが、紗月は「どうせこんなに大きいの使い切れないだろうし」と言って薄く笑うだけで、全く気にした様子は無かった。


 そんな面倒見の良い、優しい一面があるというところも俺が彼女に惚れた要因である。このことを由希に掻い摘まんで説明すると、スッキリしない表情で頭を搔いていた。


「つまり美人なお姉さんに優しくされたから好きになったってことでしょ?」

「めちゃくちゃ癪な要約だが、違うとも言い切れないな」

「お兄ちゃんの将来が不安になるよ……。絶対に変な女に捕まらないでね?」


 妹に溜息を吐きながら将来の心配をされてしまった。兄としては屈辱的だし、余計なお世話だと言いたいところだったが、客観的に見ると、自分の単純さに頭を抱えたくなった。


「男は単純な生き物だからな。美人なお姉さんに優しくされると好きになっちゃうんだよ」


 なんとか一般論に昇華して自分の体裁を保つ。実際保てているかは分からないが。


 由希にまた冷めた目で見られるかもしれないと危惧していたが、軽く鼻で笑うだけで、バットの両端を手で持って腕を伸ばしたまま体を横に反らせてストレッチをしていた。


「じゃあ私が優しくしたら、お兄ちゃんは私のことを好きになるの?」


 気持ちよさそうに唸りながら、由希は適当な感じでそう言った。左側に反らしていた体を今度は右側へと反らしている。手持ち無沙汰な俺は箱からボールを一つ掴んで、意味も無く変化球であるフォークの握りを確かめたりしていた。


「百歩譲ってお前が美人だったとしても、お姉さんではないだろ」


 はてさて、由希は世間的に見て美人と言われる分類なのだろうか。髪は野球用に肩に届くくらいで切りそろえられており、顔を動かす度にサラサラと揺れている。目はパッチリとしていて大きめで、子供っぽい顔をしていると思う。運動はしているのでスタイルはそれなりに良いのだろう。


 どうしても俺は家族であり妹であるという色眼鏡で見てしまうので、正当な判断ができない。ただなんとなく学校では結構モテているという噂を耳にしたことがある。実際毎年ホワイトデーには、彼女の部屋の机上は贈り物で溢れている。明らかにバレンタインデーに配っていたチョコの量よりも多い。食べ物系の消費を手伝わされることも多々あった。


 それを踏まえるとおそらく上か下で言うと上の容姿をしているのだろう。もしかしたらうちの学校で言う悠那、綾乃、紗月の立ち位置なのかもしれない。詳しいことは分からないが。


 ただ確実に言えることが一つだけある。それは由希がお姉さんではないということだ。

そう言い切れる理由は単純にしてシンプル。由希は俺の妹だから。以上。


 由希は俺のお姉さん完全否定の言葉を耳にすると、一瞬ムッとした表情をしたが、すぐに余裕ぶった薄い笑みを浮かべて、さながらモデルのように腰に手を当ててポーズを取り始めた。


「そう? 私、結構良い体してると思うんだけど」

「それはアスリート的な意味でか?」

「女の子的な意味で!」


 食い気味に訂正されてしまった。一瞬でお姉さんの仮面が剥がれ落ちていたが、既に今はもう元通りになっている。


 俺は由希の顔から視線を下にスライドさせて、彼女の胸元へと移動させた。若干反らしたその大地には確かに二つの山が並んで聳え立っている。それは練習着である紺のTシャツの上からでもはっきりと分かった。


 確かに中学生にしては発育が良い方なのだろう。もしかしたら同性の友人たちからも大きいと評価されているのかもしれない。


 しかもおそらくまだまだ発展途上。成長の余白を大きく残している。既に桜島程度はありそうだが、後には富士山、何ならエベレストも目指せるのかもしれない。


 ただ、それだけでは由希をお姉さんとして認めるわけにはいかなかった。というのも、由希のお姉さん説を否定せざるを得ない新たな問題が彼女に生じていたのだ。


「お姉さんは自分でアピールしておいて、そんなに顔を赤くしたりしないと思うぞ」


 由希の顔は風呂上がりの如く真っ赤に染まっていた。余裕の笑みもいつの間にかどこかへと消え失せ、今は引きつった口角がぎこちなく震えている。お姉さんとはほど遠い雰囲気となっていた。


「だって! そんなにじろじろ見られると思ってなかったんだもん!」


 耐えきれなかったようで、演技をやめて自分で自分の体を抱き寄せながら、涙目で俺のことを睨んできた。ジリジリと俺から逃げるように後ずさる。由希の目は完全に変態を嫌悪する目だった。


「だからお前がアピールしてきたんだろうが」

「だからって妹の胸、そんなにじっくり見ないでしょ!」

「たかが数秒くらいで大袈裟な。お前だって兄に見られたくらいで恥ずかしがりすぎだろ。別に裸ってわけでもないのに」

「お兄ちゃんの視線はTシャツを突き抜けてた」

「意味が分からん。お前の主観でしかない」

「うるさい。それ以上ごちゃごちゃ言うんだったら、お兄ちゃんの頭蓋でバッティング練習する」

「あんまり女子中学生が頭蓋とか言うな。怖いから。あとその場合誰が俺の頭をトスしてくれるんだ?」

「自分から突っ込んできて」

「絶対に嫌だ」


 俺に自殺願望はない。もうあと五十年くらいは生きていたい。だから由希の案には乗れなかった。


 口論が一段落すると、由希は肩で息をしていた。バットを振っていたときよりも汗をかいている気がする。バッティングではなくメンタルが鍛えられたようだ。


 シャツで額の汗を拭った由希は、まだ何かあるようで俺のことをチラチラと窺い見てきた。視線だけでその行動の意味を問うと、由希は誤魔化すようにコホンコホンと大袈裟に咳払いをした。


「それで?」

「ああ?」

「どうだったの?」

「何が?」

「私の体」

「それがどうした?」

「お姉さんだった?」

「……」


 こいつは何を言っているんだろう。この期に及んで何でそんなことを聞きたいのか理解できなかった。


「ちゃんと答えてもらってないもん」


 心中が表情に出てしまっていたようで、先回りして由希が俺の疑問に答えた。どうやら自分の体がお姉さんかどうかについて、俺からの評価がどうしても欲しいらしい。改めて整理してみたが、それでも意味が分からなかった。


 由希は脚を交差させて斜に構えながら視線は夜空の方へと向いている。瞳は羞恥からか小刻みに揺れており、頬の赤みはまだまだ抜けきっていなかった。


 どう答えるべきか考える。正直どう答えるのも面倒くさかったが、由希を不機嫌にさせるのはもっと面倒くさい。それだけは避けようと意識しながら、俺は適当に回答を用意した。


「ああ。めちゃくちゃお姉さんだったよ。今すぐ揉みしだきたいと思うくらいにな」


 そう答えて、俺は箱からボールを二つ取り出して、両手で握り、にぎにぎと揉みしだくジェスチャーをした。


 由希はそれを見て、気持ち悪そうに眉をひそめる。


「誰がそんな綺麗なストレートの持ち方で胸を揉もうとするの」

「じゃあこうか?」

「フォークの持ち方で挟もうとする人もいない」

「じゃあこれか?」

「ナックルなんてもってのほか。絶対に痛いし爪の跡残っちゃうじゃん」

「じゃあこうだな」

「確かにチェンジアップの持ち方が一番近いと思うけど」

「なあ。これ、何の話?」

「知らないよ」


 そこまで言い合って、由希が堪えきれずに噴き出した。それにつられて俺も笑い声を上げる。野球人にしか伝わらないであろうやりとりが、自分たちで繰り広げておきながら、二人ともツボに入ってしまった。


 しばらく俺と由希の笑い声が庭に響き渡る。それまで聞こえていた蝉の鳴き声は容易にかき消されてしまった。彼らの仕事を盗ってしまって申し訳ない気持ちになる。それでも中々俺たち二人の笑いは収まらなかった。


 結局涙目になるくらいまで笑った俺たちは、どちらともなく本来の呼吸を取り戻す。笑いすぎて疲れたのか、由希はくたびれたように脱力していた。


「あーあ。おかしー」

「っていうか話逸れすぎじゃないか?」


 俺はそこで本来の議題からかけ離れていることに気がついた。誰から探りを入れるかを話し合っていたはずなのに、いつの間にか妹の体がお姉さんかどうかという珍妙なテーマへとすり替わっていた。


 どういう話の展開をすればそんなことになるのだろう。記憶を探ってみたが思い出せない。思い出せるのは、女性の胸を揉むときはチェンジアップが一番適しているということだけだ。


「結局俺は誰から声をかければ良いんだ?」

「さあ? 誰からでも一緒でしょ」

「はあ? 何で急に投げやりになるんだよ」

「だって誰から聞こうが犯人は見つかるんだからさ」

「でも外したときに恥ずかしいから、優先順位決めたいって話だっただろ」

「一回や二回気まずくなるくらい我慢できるでしょ」

「ええ……」


 思わず情けない声が口から漏れ出す。由希に相談してから結構時間が経つが、話が元の位置に戻ってしまった。困惑する俺に対して由希は何食わぬ顔で屈伸を始めている。練習を再開するつもりらしい。


「じゃあ今の時間は何だったんだよ」

「言ったじゃん。単純な私の興味って」

「……それは確かに言ってたな」


 無責任だと批難しようとしたところで、ダラダラと恋バナに花を咲かせたのは、半分俺の暴走が原因だったことを思い出した。


「まあまあ。どうせ聞けば分かるんだからさ」

「他人事だからって適当なこと言いやがって」

「適当じゃないって」


 由希はそれまでのふわふわした口調を急にやめて、はっきりと否定を口にした。彼女の落ち着いた声はよく通り、庭に響いた後、漆黒の夜空へと吸い込まれていく。いつの間にか蝉の鳴き声はしなくなっていた。


「今ごろ犯人はドキドキだろうからさ。早く救って楽にしてあげてよ」


 そう言ってどこか寂しげに微笑んだ由希は、表情をキリッとした真剣なものに変えて、バットを構えた。


 それを見て俺は箱からボールを取り出して、ふわりとトスする。金属バットにしばかれたボールはネットに着弾し、由希のトスバッティングは再開された。


 結局俺は紗月たち三人に直球ど真ん中で挑まなければいけないようだ。人生には避けては通れない茨の道があるということを、由希は教えてくれたのかもしれない。世界は俺に都合良くできていないのだ。


 俺は早速明日会うことになっているターゲットに、どうやって話を振るかシミュレーションしながら、その日は由希にトスを上げ続けた。


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