2-1
2-1.筒抜け
嫌いな四文字熟語は何かと問われたとき、皆なら何と答えるのだろうか。今の俺なら間違いなく「夏期講習」と答えるだろう。
そんなわけで夏休みも佳境に迫ってきた本日、八月二十一日、月曜日、俺は重い足を上げて朝から高校へと向かっていた。
夏休みに帰宅部の俺が学校へと向かっている理由はただ一つ。それはさっきも言ったように夏期講習が学校で行われるからだ。
俺が通う私立畝美学園高校には、夏休みに、一学期学習した内容を復習するために先生が授業形式で教えてくれる夏期講習というものが存在する。参加は強制ではなく希望制で、参加したければ一学期の最後の日までに希望用紙を記入して先生に提出しなければならない。
小学生にとってのピーマンくらいに勉強が嫌いな俺は、微塵も参加する気はなかったのだが、周りの友人たちがこぞって参加を希望したために、なんとなく不安になり、締め切り日に滑り込む形で希望用紙を提出した。主体性の無さが出てしまった。長いものには巻かれろということわざは俺を表すためにあるのかもしれない。
俺の足取りが重い理由は今説明したとおりだ。だって嫌いな物事のためにゆっくりできるはずの朝に早起きして、暴力的な日差しの下で汗だくになりながら歩かなければならないのだ。学校に向かっているだけでも褒めてほしい。
家を出てまだ一分も経っていないはずなのに、もう全身が汗ばんでいるのを感じる。朝の報道番組でお天気キャスターのお姉さんが、涼しい顔で「今日で五日連続の猛暑日となる見込みです」と言っていたことを思い出した。
暦の上では夏が終わろうとしているはずなのに、太陽さんはまだまだ輝き足りないようで、その灼熱のボディーをありありと見せつけてきている。その自信満々な態度に雲たちも及び腰なのか、空は見渡す限り綺麗な青色だった。
こんな日差しの中何分も歩いていたら、学校に着く頃には溶けてしまっているだろう。そう危惧した俺は、日陰を求めて周囲を見渡した。
今俺が歩いているのが佃中央通り。国道二号線へと繋がっており、ハイツやらマンションやらに囲まれたその道は、普段ならこの時間帯は小学校へと向かっているちびっ子たちで溢れかえっているはずだが、夏休みの影響で今は閑散としている。
そんな中俺は古い町の居酒屋の横を通り過ぎたところに細い脇道を見つけ、そこへと足を向けた。
道が細いおかげで建物の間隔が狭く、日陰ができやすくなっている。直射日光を受けないだけでも体感温度は大分変わってくる。俺は若干ひんやりとしているようなしていないような空気を感じながら、制服の襟元を掴んでパタパタと風を送った。
幾ばくかマシになったとはいえ、まだまだ暑い。この暑さから逃れるためにはクーラーの効いた教室へと辿り着くしかない。そのためには歩を進める必要がある。俺は堂々と道のど真ん中で毛繕いしている野良猫の集団を横目に、足の動きを早めた。
何度か右折と左折を繰り返し、住宅街を抜け、高架橋の下を通り、いつもほぼ全種類が売り切れになっているやる気のない自動販売機を目印に左に曲がったところで、俺は考え事に耽り始めた。
別にこの考え事は今に始まったことではない。飯を食っているときも、風呂に入っているときも、夏休みの宿題をしているときも、ずっと頭の裏に絡みついている感じ。
内容はもちろん昨日の一件について。いきなり告白され、いきなり無茶なお願いをされ、いきなり命の責任を押し付けられたあの事件についてである。
一夜明けた今も、俺はこれから一週間自分がどう過ごしていけば良いのか分かっていなかった。
俺がしなければいけないことは昨夜整理したとおりだ。猶予が一週間しかない以上、早く行動に移さなければ、取り返しのつかないことになるのは目に見えている。だから昨夜から暇さえあれば、足りない頭をフル回転させて作戦を考えているのだが……。
彼女を見つけ出す手っ取り早い方法。ここら辺の地域の女性全員に確認して回るのが一応確実ではあるが、そんなことをしていたらきりがないし、何より「あなた、俺に告白しましたか?」と聞いて回る俺のメンタルがもたない。「自分に自信満々くん」というあだ名を付けられる未来を俺は望まない。
そうなってくるとやはり候補を絞って調査していくことになるだろう。昨夜もイメージしたとおり、三人の知り合いを容疑者としてピックアップする。どう考えてもこの三人くらいしか、俺に告白してくるほど関係値のある女性の知り合いがいないのだ。
俺は学校ではもちろん、プライベートでも目立たない方なので、密かに好意を寄せられるような人間ではない。まあ連んでいる友人たちは目立つ人間ばかりではあるが、そのおかげで俺はいつも存在感的に埋もれているので、万が一にも俺がモテるということはない。俺はなんて悲しいことを自分で言っているのだろう。
さて、気持ちを切り替えて、その三人に対してどうやって調査していくかを考えるとするか。そう心の中で唱えて、下がっていた顔を上げたところで、前方に見知った顔が二つあるのを見つけた。
俺が今歩いている道の左上方には、阪神電車の路線が通っており、特徴的なオレンジ色の電車や青い水玉模様の電車が行ったり来たりしている。そして、右手にスーパーが面した交差点を抜けて、パチスロのお店を通り過ぎた左前方にあるのが千船駅だ。
この駅は我らが畝美学園高校の最寄り駅であるので、畝高の制服を着た生徒の姿が多く見受けられる。ほぼ全員の生徒が駅前の坂を怠そうに登っていく中、二人の男子生徒が立ち止まって何やら話をしていた。一人は背の高いイケメンで、もう一人は自転車に跨がっているチャラ男だ
。
俺はその二人の元へと躊躇なく近付いていく。
「お前ら、よくこの炎天下に人なんか待っていられるな」
そして躊躇なく嫌味を吐いた。
別にこれは俺が、目に入った畝高生全員に喧嘩を売るヤンキーであるというわけではない。二人は俺の数少ない友人なのだ。
「ん? ……おはよう、律希」
この、俺の嫌味を全く理解せずに、首を捻りながらただただ真顔で朝の挨拶を返してきている高身長イケメンが平原迅である。キリッとした顔立ちで足も長く、モデルのようなルックスをしており、バスケ部のエースということもあって、腹立たしいことに学校の内外からモテまくっている男だ。
ただその完璧そうな私生活とは裏腹にかなりの天然であり、今みたいに意思疎通が上手くいかないことは日常茶飯事である。俺としては「お前が待たせているんだろ」とツッコんでほしかったのだが、彼にはまだ早かったようだ。
「何言ってんだ。俺たちが律希、お前を置いて先に行くわけないだろ? 炎天下だけじゃなくて、雨の日も風の日も待ち続けるぜ!」
こっちの、ただでさえ日差しで暑いのに、暑苦しいことを言って親指を立てているチャラ男が戸田豪だ。金色に染まった髪の毛とキラリと光る耳のピアスは周りの生徒と比べて異彩を放っている。どちらも校則違反だが放任主義の学校であるために、誰にも迷惑をかけていないの一点張りで今まで逃れ続けている。
こいつはこいつでチャラ男の典型例みたいな見た目とは裏腹に根っからの良いヤツで、絶対に他人を裏切らないし、他人を疑うことを知らない。平気でさっきみたいな、常人なら恥ずかしくて躊躇ってしまうような台詞を堂々と吐く男だ。
結局求めていたツッコミが返ってこないことに俺は溜息を吐きながら、二人の間を通り抜けた。
「雨の日くらい先行けよ。風邪引かれても困る」
「俺も雨の日は嫌だぞ。濡れるの嫌いだし」
「そ、そうか。そうだな……」
俺と迅から真面目なトーンで返されて、豪は苦笑いを浮かべている。俺は冗談交じりで言ったつもりだったが、おそらく迅はガチで言っている。彼の辞書に冗談という単語は載っていない。
そんな食い違いのあるやりとりを交わした俺たちは、周りの生徒たちの流れに乗って、並んでオレンジ色のタイルで舗装された坂道を歩き出す。自転車に跨がっていた豪は俺と迅の歩調に合わせるために自転車を降りた。
「律希、どうしたんだ? 悩み事か?」
昔ながらの喫茶店の前を通ったあたりで迅に声をかけられる。身長が俺よりも十センチ以上高い迅は、上から覗き込むようにして俺の顔を見ていた。どうやら考え事をしているのが顔に出てしまっていたらしい。そんなにおおっぴらにしているつもりはなかったが、迅は妙に勘が鋭いところがあるので、気付かれてしまったようだ。
「なんだどうした? ついに律希にも青い春がやって来たのか?」
「そんなんじゃねーよ。いや、そうでもないか……」
俺は豪の茶化しをあしらおうとしたが、当たらずとも遠からずの指摘であることに気がついて、小声で訂正した。
「え? マジで? 誰? 誰が好きなんだ? 勿体ぶらずに教えろよ」
「まだ何もしゃべってないのに勿体ぶるも何もないだろ。それにそういう話だって言った覚えはないぞ」
「じゃあどういう話なんだよ。青春と聞いて惚れた腫れた以外に何の話があるってんだ?」
最初に聞いてきた割にあまり興味が無さそうな迅に対して、豪が前のめりになって俺の考え事の詳細を暴こうとしてくる。俺は面倒くさいなあと思いながらも、ここでどうしようか迷っていることが一つあった。
例の件について、この二人に相談するべきか否かということだ。
正直自分一人で抱え込むには俺のキャパシティが足りていない自覚はある。だからといって二人に相談して、話が大きくなってしまうのはあまり俺としては望まない展開だ。二人に無駄な心配をかけたくないし、二人のことを信用していないわけではないが、話してしまえばどこから話が漏れ出して広まってしまうのかは分からない。
ただやはり二人から何か情報や意見が得られれば、彼女の存在に大きく近付くことができるのは言うまでもない。この機会を逃すのはさすがに勿体ないだろう。
俺は事件の全体像は伏せつつ、関連したふんわりとした話を二人に振って、ふんわりとアドバイスをもらうことにした。
「ちょっと二人に聞きたいことがあるんだけど」
そう前置きすると、豪は目を輝かせながらジリジリと身を寄せてきた。鬱陶しいので額を掴んで遠ざけながら左を向く。迅は目線で続きを促してくれていた。
俺は一度前を向いて深呼吸する。口にするのも憚られるような恥ずかしい質問が頭に浮かんでいたのだが、事件解決のためには背に腹はかえられないので、思い切って思い浮かんだ質問をそのまま口にした。
「最近、俺のことを好きとか気になってる的な人がいるみたいな話って……聞いたことあったりするか?」
俺がそう言った瞬間に、夏の湿度を大量に含んだ風が左右に駆け抜けていった。
俺たちが今歩いているのは千船大橋という名前の橋で、下を神崎川という川が流れている。左を向けば先程話していた阪神電車の路線とその先には林立するマンションやハイツが見え、右を向けば工場や何か良く分からない直方体の巨大な建物が見える。
しかし今に限っては、それらは一切目に入らず、二人の真顔だけが俺の視界を占拠していた。
「律希、そのナルシスト具合はさすがの俺も引くぞ」
豪が心配というか気遣わしげに眉をひそめて声をかけてくる。
「うるせーな。別にナルシストじゃねーよ。自分でも恥ずかしいことを聞いてる自覚はあるんだ」
「じゃあどういう意図から出た質問なんだよ。自分の非モテ具合に嫌気が差しちまったのか?」
「違う」
「普通にそういう噂を耳にしたとか?」
「違う」
「まさか、匿名のラブレターもらったとか?」
「違う」
「じゃあ何なんだよ。もう思いつかないぞ」
いつの間にか豪の顔が心配そうな表情から怪訝な表情へと変わっている。俺はできるだけ不審がられずに、事件のことも悟られないような理由を急いででっち上げようとした。
「いや、まあ……、ふと気になっただけだよ」
そして失敗した。
「なんか律希、夏休みで見ないうちに変わっちまったな。普通は自分がもしかしたらモテてるんじゃないかなんてことはふと気にならないぞ。別に友達やめたりしないけど、普通に気持ち悪い」
豪は顔をしかめて俺から目を逸らそうとしていた。完全にドン引き状態である。
「おい待て。誤解だ。長い休みを経てイタい男になってしまったわけではない。今のは俺が言葉足らずだっただけだ」
「じゃあその言葉足らずだった部分を説明して、俺からの信頼を取り戻してくれよ」
俺はなんとか豪に納得してもらえるような理由を考えようとする。しかしなんだか急に面倒になり、さじを投げた。別に豪からの信頼なんていらないだろ。多分そこら辺のコンビニで売ってるし。欲しくなったらまたいつでも買えば良いだけ。
俺は弁解することを諦めて、豪のことを睨みながら詰め寄っていく。
「お、おい。何だよ」
「さっきからゴチャゴチャうるせーな。良いからまず俺の質問に答えろよ」
「どうしたんだよ、いきなり」
「良いから答えろ」
「え? マジで変わっちまったのか?」
俺は豪の言葉を無視して、無言で睨みつける。ここは豪には申し訳ないが勢いで乗り切らせてもらう。
急に胸ぐらを掴まれた豪は表情に困惑をいっぱいにため込んでいた。目を泳がせつつも何とか口を開いてくれる。
「いや、申し訳ないけど、普通にそんな話聞いたことねーよ。あったらすぐに話してる」
「ちっ。使えねーな」
「なんで俺が怒られてんの? 元はと言えばモテてないお前が悪いだろ」
ごもっともな豪の言い分を聞き流して、俺はわざとらしく溜息をついた。豪の顔は不満でねじ曲がっていたが、勢いでここまで来た以上そうするしかなかった。お詫びとしてあとでアイスでも奢ってやろう。
話を本題に戻すと、やはり俺に好意を寄せている女子がいるという噂は、豪の耳には届いていないようだ。正直ちょっとドキドキしながら聞いたのだが、当然の現実を突きつけられて、俺は心の中で肩を落とす。
しかしまだ分からない。豪が知らないだけで、先程から何やらだんまりを決め込んでいるこのイケメンなら、もしかしたら何か情報を掴んでいるかもしれない。
そんな極薄で極淡な期待を抱きながら、迅の方を振り向いた。
するとバチッと目が合う。そして俺が問う前に彼は口を開いた。
「俺は知ってるぞ。律希のことが好きな女子のこと」
「そうか。やっぱりいな……。え? 今何て?」
覚悟していた回答と真逆の回答が返ってきたことで、俺は自分の聴覚を信じ切れなかった。迅はキョトンとした顔で改めて回答を口にした。
「知ってるぞ。お前のことが好きな女子」
「マジで?」
「マジだ」
「……」
俺は開いた口が塞がらなかった。しばらく間抜けな顔で迅のことを見つめる。それでも迅は「嘘でした~」と戯けてみせることはなく、表情を変えず俺の目を見つめ返してきていた。
まさか本当にそんな女子がこの世に存在したとは……。期待が現実になった喜びよりも驚きの方が何倍も大きく、全く実感が湧かない。自分で聞いておいておかしな話ではあるが。
それでも迅が何も言わない以上本当のことなのだろう。こいつの勘違いという線もあるが、そんなことを考慮していても話は進まない。一旦実感とか信憑性とかは度外視して考えよう。
そうなってくるとそれが誰なのかが気になる。やはり仲の良い三人のうちの誰かなのか。はたまた全く想定外の誰かなのか。
一人であれこれ推測していても仕方がないと思った俺は、ストレートに迅に尋ねることにした。
「それって――」
しかし、俺が問を言い切る前に、豪が俺と迅の間に割って入ってきた。
「誰なんだ? その律希のことが好きな女子っていうのは! 頼む、迅! 教えてくれ!」
なぜか俺よりも大興奮の様子で迅に詰め寄っている。ついさっきまでのしかめっ面はどこへやら。今は目に眩しい光を宿し、迅の両肩を持って前後に激しく揺らしていた。気付けば自転車はガードレールへと無造作に立てかけられていた。
最初はその変わりようと勢いに圧倒されていたが、冷静に考えると、とても恥ずかしい情報が豪の元に伝わりそうになっていることに気がついた。
「ちょっと待て」
俺はなんとかそれを阻止しようと、慌てて豪の肩をがっしりと掴む。そして引き剥がそうと力を入れようとしたところで、迅はもう一つとんでもない火力の爆弾を投下した。
「ちなみに律希に好きな女子がいることも知ってるぞ」
「はあ?」
力む予定だった右腕から瞬く間に力が抜けていく。それにつられるように表情筋からも力が抜けて、再び間抜けな面を晒してしまった。急いで表情を取り繕おうとするが、動揺しすぎて顔が引きつってしまう。もう笑って誤魔化すしかなかった。
俺に好きな女子がいることも知っているだと? 改めて迅が言ったことを心の中で繰り返す。なぜ迅がそんな情報を掴んでいるのか俺には理解できなかった。
迅の口から飛び出たとんでもないぶっ飛んだ台詞に、豪の目の光が怪しい好奇心の色に変わる。今にもしゃべりだしそうだったので、俺は滑り込むようにしてヘンテコな笑い声を上げた。
「ハッハッハ! 今、俺に好きな人がいると言ったな。どっからそんな情報を手に入れたんだ? 答えてみろ」
「情緒不安定過ぎるだろ、お前。怖いんだけど……」
俺が全く笑顔を維持できずに、すぐに鬼気迫る表情へと変わったところを見た豪がビビり散らかしている。でもしょうがないだろ。これだけ俺が取り乱しているのには理由があるのだ。
正直好きな人がいることは認める。さっき言っていた知り合いの三人のうちの一人だ。しかし、このことを誰かに共有したことは一度もない。何か文字に残したことも行動で表した覚えもない。
俺に好きな人がいるという事実は俺しか知り得ないはずなのだ。
それなのに迅は確信を持った顔でその事実を口にした。これは本題に取って代わるほど重大な事件である。
迅にはその情報の入手ルートを何としても白状してもらわなければならない。俺の沽券に関わる問題だ。この場を逃がすわけにはいかない。
俺は他生徒の通学の邪魔になっていることは承知の上で、迅のことを引き留めた。
迅と俺の視線がぶつかり合う。迅はそのままなんでもないことのように、そのことを知るに至った経緯を簡潔に説明した。
「別にどこからとかはない。強いて言うなら律希から」
「はあ? どういう意味だ?」
「律希のこと見てたら分かる。あの子のこと好きなんだろうなあって」
「……嘘だ……」
まさかの情報元は俺自身だった。暑さが原因ではない汗がどんどんと体から噴き出してくる。
「え? 俺ってそんなに分かりやすいの?」
「うん。結構分かりやすい」
「……このことって誰かに話したりとかって……?」
「してないけど。でも豪以外は知ってると思うぞ」
「マジで?」
迅が首を縦に振ったのを見て俺は顔面を両手で覆う。熱湯に顔を突っ込んでいるのかと錯覚するくらいに顔が熱かった。
まさか自分の気持ちがそんなにも筒抜けだったとは。隠し通せているものだと思い込んでいた。全く行動や表情に出ている自覚がなかったのが、余計に俺の羞恥心を刺激していた。
念のために指の隙間から豪の表情を確認する。
「なあ? 誰なんだ? 律希の好きな子って誰なんだ?」
まだ目を輝かせながら迅に詰め寄っていた。何だかその姿を見ているとすごく安心した。何にも知らない間抜けは自分だけじゃないんだって思えて、心が穏やかになった。
豪に両肩を掴まれて、なされるがままに揺さぶられていた迅は、そこで豪の手を振り払う。
「教えない。聞きたかったら本人に聞け」
そう言って俺の方に豪を仕向けて、歩くのを再開した。
「なあ、律希! 教えてくれ! 誰が好きなんだ?」
言われるがままに俺の方へと猪突猛進に豪がやって来る。俺は身を翻してその突進を躱すと、迅の背中に続いた。
「教えない」
「なんでなんだよ! 俺たち友達だろ?」
「教えない」
「別に茶化したりしないって! 応援したいだけなんだって!」
「教えない」
俺は「教えない」の一点張りで豪を置いていった。多分豪のことだから、言葉通り純粋に俺のことを応援しようとしてくれているのだろう。しかしさっきも言ったように、一度誰かに共有してしまうと、どこからどうやって漏れ出すかは分からない。もしその子に俺が好意を抱いていることがバレて、告白もしていないのにそっと距離を置かれでもしたら、俺は気まずさと恥ずかしさで学校に通えなくなってしまうだろう。
だから豪には申し訳ないが秘密にしておく。慌てて自転車を起こしている豪を見て、心の中で頭を下げた俺は、前に向き直った。
千船大橋を渡り終えたところを左折した俺たちは、前方にもう畝美学園高校の校舎を捉えている。何なら橋を渡っているときにも既に見えていた。
その丸みを帯びた校舎を視界に捉えながら、俺は迅の背中にしゃべりかける。
「なあ。話戻るけど、俺のことが、その……、好きっていう女子って誰なんだ?」
本題から大きく脱線していたので話を戻そうとしたのだが、改めて口に出すと恥ずかしくなってきて言い淀んでしまった。少し赤くなっているであろう俺の顔を、振り返った迅がじっと見てくる。
そして、俺の質問には答えずに違う話をし始めた。
「ちなみにその話も誰かから聞いたわけじゃない。俺が勝手にそう思ってるだけだ」
「え? じゃあ違うかもしれないってことか?」
「いや、それはない。確実にそうだと思ってる」
「何だ、その子も分かりやすいのか?」
「律希ほどじゃないけど、見てたらなんとなく分かる」
明確な言葉はなかったが、真面目な表情を変えない迅を見ている限り、適当なことを言っているようには見えなかった。
普段ボーッとしていることがほとんどのくせに、なぜかそういうことだけは把握している。案外こいつは視野が広いようだ。
「で? 誰なんだ? その子は」
改めて問うと、迅は俺から視線を外して、歩く速度を速めた。
「律希って自分にも他人にも鈍感だよな」
「……お前にだけは鈍感なんて言われたくないんだが」
普段の天然っぷりを棚に上げた発言に、俺は眉毛をピクつかせる。そんな俺の様子など気にも留めずに、迅の背中はどんどんと遠くなっていった。
「ちょっと、おい。教えてくれないのかー?」
あっという間に小さくなった大きな背中に、声を張って問いかける。
「その方が面白そうだからなー」
「せめてヒントくれって」
「ちゃんと周りに目を向けてれば律希にも分かるはずだー」
その台詞を最後に、迅の姿は校門を横切って敷地内へと消えてしまった。漠然としたアドバイスを受けて取り残された俺は、一人寂しく校舎と学生寮に挟まれた道をとぼとぼと歩く。
「なんでいきなり走りだしたんだ? あいつ」
冷静に迅の奇行に疑問を抱きつつ、あいつがもたらしてくれた情報に意識を向け直した。
俺のことが好きな女子がいるという情報。大きな一歩とはいかないが、確実に解決へと前に進めたのではないだろうか。おそらくその人が俺に電話をかけてきた犯人だろう。
容疑者の人数を絞りきれたわけではないが、確実にこの学校にいることは分かった。それに迅は、周りに目を向けていれば俺にも分かると言っていた。少なくとも俺の周りにいる人間と言うことだろう。クラスメイトくらいまでは調査範囲を狭めても良さそうだ。
そんな感じで今後の方針を考えていると、隣で甲高い自転車のブレーキ音がした。目を向けると、豪が不思議そうな顔をして周りをキョロキョロと見ている。
「あれ? 迅は?」
「何か知らんけど、急に走って行った」
「ああ。トイレじゃね? あいつのトイレっていつも唐突だろ」
「なるほど」
一旦作戦会議を中断した俺は、迅の奇行の理由に深く納得を示しながら、自転車を駐めに行った豪を待ってから、一緒に教室へと向かった。