終-2
終-2.花火の下で少女は再び歩き出す
夏の空に咲く火の花を、一人ボーッと眺めている。
周囲の人たちのテンションは最高潮で、夜空に描かれる荘厳なアートを前に、年齢性別関係なく興奮しきっている。黙ってじっと見ているのなんて私くらいのものだった。
お兄ちゃんも今ごろ友達と一緒にはしゃぎ回っているのだろうか。隣にあの綺麗な人はいるのだろうか。
まあ、いてもらわないと困るけど。そこまで腰抜けじゃないと信じてる。
結局お兄ちゃんは、最後まで私に優しかった。
私を振るときの理由。自分には好きな人がいる。だから付き合えない。
もっとふさわしい理由があったはず。簡単でストレートで、私が納得するしかない理由が。
お前は妹だから。
そう言えば良かったのだ。そうすれば私は「だよね」と言って引き下がるしかなかった。
でもあの人はそうしなかった。
まるで私を妹ではなく、一人の女の子として見ているかのように振る舞った。私とのやりとりを家族ではなく、男女のやりとりとして考えてくれていた。
今思えば、今日お兄ちゃんから兄妹とか妹という単語を聞いた覚えがない。
きっと私を傷つけないようにしてくれていたのだろう。私が自分の異常さを改めて認識するのを避けてくれていたのだろう。
本当に、最後まで優しい人だった。あそこまで気遣いされると、逆にお兄ちゃんの方が異常に思えてきてしまう。
そのせいで振られた瞬間に笑ってしまった。
そのおかげで振られた瞬間に泣かなくて済んだ。
ちゃんと妹としてお兄ちゃんを送り出すことができた。
そこはホッとした。やっと兄妹に戻れて良かったと思う。
でも、どういう結果に終わるかは分かっていたとは言え、振られるのは結構心にくる。人生初めての告白だったんだもん。もちろん振られたのも初めて。
やっぱりショックというか、何なら後になってムカついてきた。野球ではポジション奪われるし、好きな人には振られるし、なんで私ばかりこんな目に遭わなければならないのだろう。
そんなひどく自分勝手なことを考えているとまた笑えてきてしまった。花火を見ながらムカついているのなんて私くらいだろう。
このまま一人で笑っていたら通報されかねない。お兄ちゃんにあんなことを言っておきながら自分が捕まるなんて御免だ。そろそろお父さんとお母さんのところにでも行こう。お腹も空いてきたし、少したこ焼き恵んでもらおうかな。
卑しいことを企みながら私は、体を預けていた堤防から離れる。そのとき背後で地面と靴が擦れる音がした。
「あれ? 住ヶ谷じゃん」
苗字を呼ばれた私は振り返る。そこには一人の少年が立っていた。身長は私より十センチほど大きく、目を見ると顔を上げなければならない。
その少年はTシャツに短パンと、誰かさんと同じような服装をしていた。
「誰かと思ったら、私からショートを奪った栗原じゃん」
「その言い方やめろよ。こっちだって必死にやった結果なんだって」
栗原は嫌悪感を隠さず顔をしかめた。
彼はさっき言ったように私とポジション争いしていた子だ。入学当初は私より小さいくらいだったのに、今では見上げなければならないほど大きくなっている。
ちょうどポジションを奪われたことを考えていたので、思わず嫌味なことを言ってしまった。ここは素直に謝っておかないと。
「ごめん。私が下手なのが悪いよね。そのことを棚に上げて当たっちゃって……本当にごめんなさい」
「別にそうは言ってないだろ。俺が悪者みたいに映るじゃねーか。あとそのウザい演技もやめろ」
「ぐちぐちうるさいなあ。小さい男」
「ぐちぐち言ってるのはお前の方だ。あとお前よりは大きい」
物理的な話をしてるんじゃない。まあ器的に考えても、関係ない人に当たっているようじゃ、私の方が小さいんだろうけど。
「何しに来たの? もう花火上がってるよ」
どうあがいても自分が惨めになってくるので、私は話を変えた。
「知ってるよ。別に俺は暇だから出てきただけ」
栗原は面倒くさそうに欠伸をした。その後頭を搔きかながら私に目を向ける。
「お前こそ何してるんだ? こんなところで一人で卑屈になって」
「私は……」
逆に質問が飛んできたことで無意識的に答えそうになる。なんとか誤魔化せる範囲のところで止めることができた。
今まで誰か知り合いに遭遇したとしても、さっきまでのことを打ち明けるつもりは一切なかった。ただ、こうして知り合いを目の前にしてみると、なぜだか話したくなった。
話したところで何も変わらないかもしれない。息苦しい感じがなくなるかもしれないし、バカにされて余計に鬱憤が溜まるかもしれない。相手に栗原が相応しいのかも分からない。
どうすれば良いか迷った私は話の途中で黙り込む。その様子を不思議そうに栗原が見ていた。
このまま黙っているわけにもいかないので私は心を決める。結局私は、
「……絶賛失恋中なの……」
間を取った。ここで会ったのも何かの縁。詳しくは説明しないけど、結果だけを簡潔に述べる。
栗原はどんな反応をするだろうか。一度目線を逸らし、恐る恐る彼の表情へと戻す。
すると私の視界に入ったのは、栗原の純粋に驚いた顔だった。目を見開いた状態で固まっている。
それはほんの一秒に満たないくらいのことで、すぐに動きを取り戻すと、眉間にしわを寄せて首を傾げた。
「失恋中って、現在進行形なのか?」
「……それくらい分かるでしょ。過去形だよ。あんたには私が誰かに告白していて、まさに今振られているところに見えるって言うの? 煽ってんの?」
「いや落ち着けって。お前が変な言い回しするから聞いただけだって」
「はあ……。なめたこと言ってると殴るわよ」
「……殴りながら言うな」
私は栗原の左腕に軽く右の拳をぶつけながら溜息を吐いた。栗原は不満そうな顔をしていたけど、なんとなく気が晴れたような気がする。やっぱりストレス解消は運動に限る。
あと何発か殴らせてもらえれば、いつもの私に戻れる気がするなあと考えていると、栗原が私の隣まで来て、堤防にもたれかかった。
「でもなんか住ヶ谷が失恋とか意外だな」
川に向かって栗原は淡々と呟いた。その発言の意図を目線だけで問う。
「だって住ヶ谷って、野球が恋人みたいな感じじゃん」
「私だって十四歳の乙女なんだから恋愛の一つや二つくらいするけど? やっぱり煽ってるの? それとも唯一の恋人だった野球にも最近振られたよねってことが言いたいの? まだ殴られ足りないの?」
「いやだからそんなこと言ってないって。なんか今日の住ヶ谷面倒くせえな」
栗原は気怠そうなのを隠そうともせず、目を瞑りながら首を横に振った。そりゃあ失恋したてなんだから面倒くさくもなる。それくらいは覚悟してこの場に臨んでいると思っていたのに。彼を買いかぶりすぎたようだ。
まあこれ以上私のストレス発散に巻き込むのは気が引ける。このままだと私がエスカレートしていって、普通に嫌われてしまうかもしれない。
それはさすがに好ましくないので、ここで解放してあげよう。
「はあ……。もっと面倒くさくなる前に行ったら? 取り返しがつかなくなる前に」
私は深い溜息を吐きながら花火に目を向けた。やっぱりお腹が減った。栗原がどこかに行ったら、さっさと綾ちゃんちの屋台に行こう。
そう思っていたのに、なかなか右側に感じていた体温が動く気配はしなかった。
「今でも十分面倒だから、これ以上はどうなっても一緒だよ」
そう言って栗原は動こうとしなかった。さっきの私みたいにボーッと花火を眺めている。
私には彼がここから動こうとしない理由が分からず、怪訝な視線を向ける。
「何してるの?」
「何って、花火見てる」
「いやそういうことじゃなくて、なんでまだここにいるか聞いてるの」
私からの純粋な疑問を耳にした栗原は、眉間にしわを寄せて逆に怪訝な視線を向けてきた。
「なんでって、今ってお前がいろいろぶちまけて、ストレス解消的な時間なんじゃないのか?」
私はすぐに反応できなかった。一瞬変な間が開いて、花火の音がそれを埋めてくれる。
栗原の言っていることの意味が改めて理解できなかったので、私はもう一度首を捻った。
「いやまあ、そうだったんだけど、それが面倒だっていう話じゃなくて?」
「面倒だっていう話だよ」
「じゃあなんでここに居続けるの? あんたにメリット何もないでしょ?」
しつこく尋ねると、栗原はまた怠そうに頭を搔きながら、花火でもなく、明後日の方向を見た。
「メリットどうこうっていうか、俺から話しかけちゃったわけだし、自分から首突っ込んでおいて途中で逃げるのは違うかなって思って」
思っていた以上に男らしい理由が返ってきた。私的には栗原が首を突っ込んできたというよりは、私が無理に巻き込んだと思っていた。
別に気にする必要はないし、私も気にしていないことを伝えようとしたところで、栗原はボソッと小さな声で呟いた。
「それにまあ、なんかしんどそうだったし」
その呟きを聞いた瞬間、一瞬で羞恥心が私の体を満たした。
「そ、そんなに私、顔に出てた?」
「分からん。なんとなく俺にはそう見えただけだ」
曖昧な回答だけを残し、再び視線を花火に戻す栗原。
きっとこれは栗原の勘違いだ。お兄ちゃんじゃあるまいし、思ってることが全部顔に出るなんてあり得ない。そう考えないと私の精神は持ちそうになかった。
これ以上自分の羞恥心を育てるわけにはいかないので、なんとか話題の矛先を自分から逸らす。
「栗原ってこんなにもお人好しだったんだ。知らなかった」
「別にお人好しじゃねーよ」
思ったより即答で驚いてしまった。彼自身はそう言っているが、別に親友でもない相手の愚痴みたいな話に付き合ってくれるのは、十分お人好しと言えると思う。
しかし栗原は私からの反論を許す前に、にへらと適当な笑みを浮かべた。
「ただ俺は、失恋で弱っている女の子に寄り添ってあげたという事実を作り、自分の株を上げようとしてるだけだ」
その建前を聞いた私は、やっと彼の行動を理解した。
栗原は失恋した私を最大限に気遣ってくれていたのだ。
振られて沈んでいた私に声をかけ、頼んだわけでもないのにストレスの捌け口としての役を買って出てくれた。そして私に気を遣わせないために、その自己犠牲を自分の損得のためだという建前の陰に隠す。
この優しさを、私は知っている。あの人がいつも与えてくれていた優しさだ。利用すると言いながら、いつも私に利用されてくれていた。私に罪悪感を抱かせないために。
栗原の優しさに気付くと、なんだか笑えてきてしまった。だって突然現れた同級生の男の子が、さっき私を振った人と同じようなことし出すんだもん。せっかく忘れられるところだったのに、神様は許してくれないみたい。
「でもそれって私に言ったらダメなんじゃないの?」
「ああダメだな。だから今のは聞かなかったことにしてくれ」
「無理に決まってるじゃん」
「聞かなかったことにして、後で友達とかに栗原君は優しくて頼りがいがあってイケメンだって触れ回ってくれ」
「図々しいなあ。あとイケメンは紛れもなく嘘だし」
「そんなにはっきり言わなくても良くない?」
栗原はげんなりした様子で肩を落としていた。確かに言い過ぎたかもしれないが、栗原の反応が面白かったので訂正しないでおく。
声を上げて笑っていると、なんとなく心が軽くなった気がした。やっと本来の私に戻れたような感覚がある。
私は手を組んで夜空へと手を伸ばし、花火に触れようとするかの如く思いっきり伸びをした。
「あーあ。なんかスッキリした」
「なんだ、もう良いのか? こっちはまだまだ付き合わされる心づもりでいたのに」
「ううん。もう大丈夫。栗原が優しくて頼りがいがある男だったおかげ」
「優しくて頼りがいがあるイケメンな?」
まだ諦めていないらしい。私は適当に「はいはい」と返事を返して、面倒くさくなる前にこの話題を切り上げた。
「今思ったけど、栗原ってなんかモテそうだね」
「この時間に家からフラフラ出てきた奴を見て言う感想じゃないな。煽ってるのか?」
「別に煽ってないって」
普通に面白くて優しいからモテそうだなって思っただけなんだけど。ただそれを言ってしまうとまた調子に乗りそうなのでやめておいた。
「っていうかあんた、本当に誰かに誘われたとかじゃなくて、暇だからってだけで出てきたの?」
「そうだけど、悪いか? 誘われてたら、長引くって分かっててお前に話しかけたりしない」
確かに。でも栗原なら放っておかなかった気もするけど。
そんなことを考えながら、私はあることを思いついた。栗原も暇って言ってたし、大丈夫だろう。お母さんたちのところにはその後に行こう。
「ねえ、栗原」
「なんだ?」
花火を見ていた栗原がこっちを向く。私は花火の方を見たまま、ぶっきらぼうに言った。
「私、いか焼きが食べたーい」
「買ってくれば良いだろ」
「女の子一人で行かせる気? 下駄だって履き慣れてないのに」
「じゃあ買ってこいってことか?」
「違うよ。そうじゃなくて……」
すんなり言うつもりが少しまごついてしまった。恥ずかしさが爆発する前になんとか口を動かす。
「一緒に行こうよ……」
私がそう呟いた後、すぐに反応が返ってこなかった。栗原がどんな顔をしているのか見たかったけど、私の目は花火にがっちり固定されていて動かなかった。
やがて栗原の方から、息を吐く音が聞こえてきた。
「なんだそんなことか。良いよ。おれも腹減ってたし」
そう言って凭れていた堤防から体を離し、スロープに向かって歩き出した。
私は自然と笑顔になっていることを自覚しながら、その大きな背中を追った。
せっかく花火大会に来たんだから花火大会っぽいことがしてみたいと思った。友達と屋台を見て回る。今までずっと隣にはお兄ちゃんがいたから、なにげに初めての経験だ。
しかもその友達が栗原になるなんて、去年の私に言っても信じないだろう。っていうか男の子と二人で屋台見て回るとか、私結構大胆なことしてない?
なんか今になって変な意識が芽生えてしまった。顔が熱くなってきて、手で扇いで風を送る。
すると前を歩いていた栗原が急に振り返った。
「さっき上から見たら向こうの方にいか焼きの屋台があった。だからこの階段降りるぞ」
「う、うん」
栗原は私のぎこちない反応に若干疑問符を浮かべながらも、特に何か聞いてくることはなく、スロープの途中にあった石階段を降り始めた。
しかし一段降りたところで、再び私の方を振り返った。そして右手を差し出してきた。
私はその右手の意味が分からず、黙って目をパチクリさせる。
「下駄、履き慣れてないんじゃなかったのか?」
栗原は真っ直ぐ私の方を見てそう言った。どうやら手を支えに使えということらしい。
「あ、う、うん。ありがと……」
私は取りあえず厚意に甘えて栗原の右手を取る。栗原は私の手を引いて階段を下り始める。私に合わせてゆっくりと下りてくれた。
下りながら思ったが私たち、ナチュラルに結構恥ずかしいことしてない?
栗原は欠片も羞恥心を抱いていなさそうだったけど、男の子に手を引かれるとか、まるでお姫様にでもなったような気分だ。
そんなことを思いつつ、私は昔のことを思い出した。
私がまだ小さかったとき、お兄ちゃんに手を引かれてこの石階段を下りたことがある。ペースは今よりももっと遅かった気がするけど、今みたいに支えてくれたおかげで転ばずに下まで下りることができた。
今の私も転ばずに下まで下りることに成功する。そして足下から目線を上に上げたとき、いろいろ似ているところがあったからか、ふと思ってしまった。
「栗原って、なんかお兄――」
言いかけたが私は途中でやめて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「カッコイイところあるよね」
「そんなこと言ってもいか焼きは驕らないぞ」
「そんなつもりで言ったんじゃないって」
ケタケタと私の笑い声が響き、天まで伸びていく。私に対抗するように、一発大きな花火が打ち上げられ、夜空を豪快に彩った。
その花火に気を取られているうちに、栗原が先に歩いて行ってしまっていた。私はブーブー文句を言いながら追いかける。
何だか分からないけど、最高に青春している気がした。
結局私は変われたのだろうか。そんなの私自身にも分からない。でもなんとなく、もうあの人の面影を見ることはないのだろうということだけは感じていた。
新しく走り出した私。まだ一歩目を踏み出したところだけど、なんとなく新しい私は好きになれそうな気がする。
取りあえず今は目の前のことを楽しもう。振り返るんじゃなくて、ただひたすらに前を向いて歩いていこう。
そんな私の姿を、たまにで良いからどこかから見守ってくれたらと思う。
そんな感じのことを考えながら、二歩目を踏み出すように、私は大きく一歩踏み込んで栗原の前に出た。
「そういえば浴衣の感想聞いてないんだけど」
「かわいい」
「適当すぎ。殴られたいの?」
「だから殴りながら言うなって」
私たちのはしゃぐ声は、花火の音にかき消されることなく、河川敷に響き渡った。
了




