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7-2

7-2.妹は兄に似て



「はあ……」


 およそ五十万人がつくり出す喧噪を前に、私の大きな溜息と下駄が鳴らす小気味良い軽い音が堤防手前の車道に響き渡った。


「おい。これから楽しいイベントが始まるってときに、そんなでかい溜息つくなよ」


 振り返ったお兄ちゃんが、私を見ながら顔をしかめる。私はそれに答えることなく、ただ少しだけ目線を逸らした。


 私とお兄ちゃんは淀川の花火大会の会場へと来ていた。


 何をしてるんだろうと私自信が一番思っている。結局あの後何度も下から呼ばれた私は、根気負けみたいな体で階段を下りてしまった。そのときはまだわずかに行かない意思は残っていたけど、お兄ちゃんに「行くか」と言われて手を差し出されたときに、全く抵抗できなくて、手を取ってしまった。


 そこから家を出たは良いものの、どういう態度でお兄ちゃんと接して良いか分からず、電車に乗っているときも、こうして歩いているときも、私は押し黙ることしかできず、ずっとお兄ちゃんの背中ばかりを目で追っていた。


 時間にして十五分くらい。一駅だけ電車に乗ってそこからは歩いてきた。その間ずっとお兄ちゃんが間をつなぐように何か一人でしゃべっていたけど、どんな内容だったかは全く覚えていない。


 どんな顔でいれば良いのかとか、ついて行ってどうするつもりなのかとか、いろいろ考えていたらあっという間に時間は過ぎて今に至る。堤防の向こうは屋台が建ち並び、多くの人で文字通りお祭り騒ぎになっているというのに、私のテンションはそんな雰囲気とはかけ離れていた。


「取りあえず河川敷降りるか」


 そんな私のことなど気にも留めず、お兄ちゃんは堤防に上るために細い階段を上っていく。既に堤防の周りまで人が溢れてきていて、気を抜けばすぐにはぐれてしまいそうだった。


 なんとか人の合間を縫って階段を上り、慣れない下駄をカタカタと鳴らしながらお兄ちゃんの背中を追った。


 お兄ちゃんは堤防の近くまで行くと河川敷の方を見下ろす。私もその横に立って下の方を覗き込んだ。


「うわ。やっぱり人の量えっぐいな」


 お兄ちゃんが言う通り、見渡す限り人の頭。屋台を見回るために動いている人の流れもあるが、既に花火を見るためにシートを広げてスタンバイしている人たちもいる。確かここら辺一帯は協賛観覧席でチケット持っていないと入れない場所だったはず。それでも人はひしめき合っていた。


「屋台もいっぱいあるな」


 お兄ちゃんの視線の先には人の流れとズラッと並んだ屋台が見えている。小さい頃は花火を見るというよりはこっちがメインで来ていた覚えがある。会場の規模が大きい分、種類と数も豊富で、どれだけ歩き回っても飽きたりしない。


 これだけの屋台と人の数を見ると、嫌でも花火大会に来た実感が湧く。実感が湧くと私は何をしてるんだろうという自己嫌悪も改めて湧いてきた。


「取りあえず屋台見て回るか」

「ちょ、ちょっと待って」


 お兄ちゃんが河川敷へと向かうためにスロープを降りていく。本当に普通に私と花火大会を回るのだろうか。


 今日中にはちゃんと話をしてもらわなければならない。ただ今の私は完全にタイミングを逸してしまっている。今思えば話すなら絶対に移動中に話しておくべきだった。こんな人だかりの中でできる話じゃない。


 自分で願っておきながら、また目を逸らしてしまった。私は本当に弱くて卑しい人間だ。死ぬ勇気どころか話す勇気すら持てていない。自分に腹が立つ。


 まあ話したところで、さっきもそうだったように、お兄ちゃんは意地でも私が求める答えはくれないんだろうけど。


 そんな感じのことをボーッと考えていると、目の前からお兄ちゃんの姿が消えていることに気がついた。


 しまった。視界に映っているのは大勢の人の波。こんな人混みの中ではぐれてしまったら簡単に合流などできない。


「お兄ちゃん?」


 まだ近くにいることを信じて呼びかけてみるが、返事は返ってこない。返ってきていたとしても周りの人の声で分からなかったと思う。


 しょうがない。ここから無闇に歩いて探しても時間を食うだけだ。電話をかけてどこにいるか聞こう。それが一番速い。


 私は持ってきていた巾着袋を開けて、ケータイを取り出そうとした。


「あ……」


 そこで私は気付く。ケータイを持ってくるのを忘れたことを。元々花火大会には行く気がなかったので、そもそも巾着袋にはほぼ何も入っていない。入っていたのはお兄ちゃんから預かった小銭入れと家の鍵だけ。


 何も考えずにお兄ちゃんの誘いに乗って出てきてしまったので、ケータイは自分の部屋に置いてきてしまった。


 さてどうするか。歩き回って探した方が良いのだろうか。さすがにお兄ちゃんも私とはぐれたことには気付いているはず。もしかしたら探し回ってくれているかもしれない。そうなると私が動いてしまうとすれ違ってしまう可能性が出てくるので、やはり立ち止まっていた方が良いだろうか。


 取りあえずその場に留まって周りを見渡しながらお兄ちゃんを探す。邪魔にならないように端に寄ってキョロキョロ左右に首を振る。


 なぜか私は自分でも驚くほど大きな不安に陥っていた。


 中学生にもなって、人とはぐれた程度で怖くなったりはしない。そんなに私は子供じゃない。

そのはずなのに私は、鼓動が速くなるのと全身が冷たいものに支配されていくのを、感じていた。


「お兄ちゃん? お兄ちゃん?」


 何度呼びかけても、お兄ちゃんが姿を現すことはない。その事実が全身を冷たくしていくのを加速させていく。焦燥感が体を駆け上っていく。


 いてもたってもいられなくなった私は、お兄ちゃんを探すために右をむいて足を一歩踏み出した。


 その瞬間に私の左肩を誰かが掴んだ。


「どこ行くんだお前」


 振り返ると、そこにいたのは呆けた顔をしたお兄ちゃんだった。私の顔を見てその表情で固まると、やがて苦笑いのような困った表情に変わる。


 そこで私は自分が泣きそうな表情になっていることに気がついた。


「どうしたんだ? そんなに寂しかったのか?」

「ち、違う! これは、その……」

「もしかして何かされたとかか? やっぱり誰か声かけてきたか?」


 お兄ちゃんは余計に勘ぐって、表情を引き締めて周りを見渡し始めた。


「違うって。そうじゃないよ。大丈夫だから」


 私は薄く笑いながら否定する。お兄ちゃんの無駄に焦った顔がおかしくて、心は大分落ち着いた。さっきとは逆に体の中心から温かみが広がっていくのを感じる。


 お兄ちゃんお顔を見るとあっという間に不安とか焦燥感は、人の流れと一緒にどこかへと消えてしまった。


 私が元の調子に戻ったのを見て、お兄ちゃんも表情を和らげる。


「悪かったな。なんだかんだ言って年一のイベントだからテンション上がっちゃってさ。気付いたら一人で突っ走ってたわ」


 後頭部を搔きながら恥ずかしそうにはにかんでいる。このお兄ちゃんの表情を見て、私は昔同じような台詞を聞いたことがあるのを思い出した。


 あれは私がまだ小学生になったかなってないかくらいの頃。花火大会でテンションが上がっていた私は、どうしてもかき氷が食べたくて、家族から離れて一人でかき氷を売っている屋台を探しに行ってしまった。


 しばらく走った後に、私は念願のかき氷の屋台を見つけた。ただ見つけたは良いものの、何も考えずに探しに出てきてしまったので、自分がどっちから来たのかも分からなくなり、私は案の定迷子になった。


 どこを見ても知らない場所、知らない人。どうすれば良いかも分からずに、ただただ一人なのが怖くて、その場でわんわん泣くことしかできなかった。せっかくかき氷の屋台を見つけたのに、その屋台の前がとんでもなく恐ろしい場所のように思えてきて、私はその場で蹲ってしまった。


 見かねた屋台のお姉さんが声をかけてくれたけど、全く答えられなかった。相当お姉さんのことを困らせてしまったと思う。


 そんなときに私の前に現れたのがお兄ちゃん。走り回って探してくれていたのか肩で息をしていた。


 泣きじゃくっている私を見てお兄ちゃんは、はにかみながら言った。


「ごめんな。兄ちゃんたち花火大会に夢中で由希から目放しちゃってた」


 一人で離れたのは私なのに、まるで自分が悪いみたいに言って謝ってくれた。当時はそんなこと分かっていなかったけど、とにかくその言葉とお兄ちゃんの優しい表情がホッとさせてくれた。結局その後お母さんからこってり怒られたけど。


 あのときからお兄ちゃんは、今と変わらない思いやりのある優しい人だった。


 まあ今回に関しては、私がボーッとしていたとはいえ、一人で突っ走ってたのは事実なんだけど。謝罪してもらうのは妥当だとは思う。


「私、下駄履き慣れてないから、ゆっくり歩いてよ」

「そうだな。気を付ける」


 お兄ちゃんは顔の前で手を合わせて改めて謝罪の意を示す。久しぶりにいつも通りの兄妹の会話ができた気がする。昨日まで普通に話していたのに、こんななんでもないやりとりがひどく懐かしく思えた。


「もうはぐれないようにしないとな」


 お兄ちゃんはそう言って、合わしていた両手のうち左手を腰に、右手を私の前へと差し出した。私はその右手の意味を視線だけで問う。


「何してるんだ。手出せよ」

「もしかして手繋ぐつもりなの?」

「それが一番確実だろ?」


 まるで自然なことのようにお兄ちゃんはそう言った。確かにはぐれないためには手を繋ぐのが確実だけど、もう私たちはそんなことをする年齢じゃない。


「私、もう子供じゃないんだけど」

「別に大人ってわけでもないだろ? まだ中学生なんだし」


 訳の分からない屁理屈が返ってきた。私の視線はお兄ちゃんの掌に固定される。


 昔はよく繋いでいた手。どこへ行くにも私の手を優しく包んでくれていた手。当時は何の躊躇いもなく手を差し出していたけど、今はそうもいかない。いろんな意味での恥じらいや緊張が私の中にはあった。


「それに大人でも案外手って繋ぐもんだぞ。ほら、あそこ」


 お兄ちゃんがそう言って顎先で指し示した場所には、二人組の男女がいた。見た感じ成人していそうな大人っぽい人たち。確かに二人は手を繋いでいた。しかし繋ぎ方は単に手をつかみ合うものではなく、お互いの指を交互に絡ませるもの。


 あの二人はどう見ても……。


「あれはカップルだからでしょ! 私たちとは違うよ!」


 慌てて否定を口にする。自分の中にある恥じらいが更に大きくなる。もし私たちが手を繋いで歩いていると、同じように見られるかもしれない。


 そう思うと嫌というより、むしろそう見られたい気持ちがあることを自覚して、余計に恥ずかしくなった。


「別に俺たちもそう見られるだけだろ。俺たちあんまり似てないし。文句言ってないで行くぞ。早くしないと花火が上がっちまう」

「ちょ、ちょっと!」


 強引に私の手を取ると、お兄ちゃんは人の流れに合流して歩き始めた。そうなると私はそれについて行くことしかできない。


 ただ振りほどいたりせずに、黙って背中を追って歩く。私の手を握るお兄ちゃんの手は、昔と違って男っぽくゴツゴツしたものになっており、昔と変わらず優しく私の手を包んでくれていた。


 心臓が跳ね回っている。顔が熱すぎてまともにお兄ちゃんの顔を見ることができない。お兄ちゃんはどんな顔をしているんだろう。


 そう思っていると、お兄ちゃんが振り返った。


「さて、どこから回る?」


 わくわくを隠しきれていない少年のような目。自然と上がった口角。純粋にこの場を楽しもうとしているのが分かる。屋台の光が当たっているせいか、数年前のまだ子供だった頃のお兄ちゃんの顔に戻っているような気がした。


 そんなお兄ちゃんを見ていると、ずっと考えていたことがどうでも良くなってしまった。


 私は顔を隠していた腕を下ろす。ぎこちなくなるかと思っていたが、笑みは自然とこぼれてくれた。


 祭りの賑やかな雰囲気に当てられてしまったのか、私も昔に戻ったみたいな気分で答えた。


「私、射的とかやってみたいんだけど」



「さすがに全部負けるとは思わなかった」

「どれも私が上手いんじゃなくて、お兄ちゃんが下手って感じだったけど」


 堤防の上まで戻ってきた私たちは両手に景品を抱えながら、河川敷の人の波を眺めていた。


 言っていた通り、最初に射的の屋台へと向かった私たちだったが、せっかくやるなら勝負をしようということになり、そこから兄妹対決の屋台三番勝負をすることになった。


 やったのは射的と輪投げ、そしてスーパーボールすくい。結果だけ言うと私の全勝。ただ私も上手かったわけではなかったので、貰った景品は小さなぬいぐるみ三つと、スーパーボールが四つ。二人で三競技やったにしては少ないとは思う。


 正直言ってお兄ちゃんが下手すぎたのだ。射的は全弾外していたし、輪投げはなんとか六投中二投成功。スーパーボールすくいに関しては、開始十秒でポイを破いていた。ちなみに輪投げも一番手前の棒しか狙っていなかった。


「ちょっとくらい俺を立てようとしてくれよ」

「私が勝負事譲らないのはよく知ってるでしょ?」

「それはそうだけど」


 お兄ちゃんが輪投げで手に入れた、何のキャラか分からないウサギのキーホルダーと、屋台のお兄さんがおまけでくれた青色のスーパーボールを眺めながら、恨めしそうに呟いている。


 昔は逆だった。何をやってもお兄ちゃんに勝てなくて、私はよく拗ねていた。まあ最終的にお兄ちゃんが手加減をして勝たせてくれて、すぐに機嫌は直っていたけど。


「まあでも楽しかったな」

「うん。こういうの久しぶりだったし」


 二人とも大きくなると共に、興味がそういう屋台から食べ物の屋台へと移っていく。最近はほとんど食べ歩きばかりしていて、景品に興味を示すことはなくなっていた。


 だけど案外やってみると楽しめるものだった。結果はあまり良いとは言えなかったけど、いつの間にか周りの視線とかは気にせずに、二人ではしゃぎ回っていた。


 最後にお兄ちゃんとこうして遊べたのは本当に良かったと思う。本気でカップルになったみたいな気分だった。


「そういえば全然お前声かけられなかったな。」


 思い出したようにお兄ちゃんがそう言った。私はそれを聞いて苦笑いを浮かべる。


「そりゃそうでしょ。ずっとお兄ちゃん側にいたじゃん」

「やっぱりカップルと間違われていたのか」

「どうだろ。そもそも私に声かける人なんていないよ」

「いやいるだろ。お前案外モテるんだぞ」

「はいはい。お世辞ありがと」

「お世辞じゃないって」


 不満そうな顔を見ないようにする。顔を向けてしまうとなんだか照れてしまうような気がしたから。


 私は誤魔化すように、川の近くの方へと目を向けた。そろそろ花火が上がり始める時間が迫っているということもあってか、座って待機している人たちが増えたような気がする。屋台の前の人の流れも心なしか緩やかになっている。皆、都会の星の見えない夜空に大輪の花が咲き誇るのを楽しみにしている。


「ねえ、お兄ちゃん」


 そんな俄に沸き立った興奮を前にしながら、私は落ち着きを払った声でお兄ちゃんに語りかけた。


「なんで私を花火大会に連れてきたの?」


 お兄ちゃんは堤防に体を預けながら私の声を、表情を変えずに聞いていた。まるで私がこの質問をするのが分かっていたように、ただ静かに視線も川の方へと真っ直ぐに向けていた。


「別に。せっかく浴衣着てるのに行かないのは勿体ないって思っただけだ」


 また本心かどうか分からないことを呟く。たとえそれが本心だとしても、もっと別の理由があるはずだった。


「なんで私と一緒に花火大会回ってくれたの?」

「……」


 もう一度同じような質問をする。今度はしばらく黙ったまま何も答えてくれなかった。


 実はなんとなく答えは分かっている。でも自分でそれを口にするのは嫌で、怖くて仕方なくて、こうして無理にでも突きつけてもらおうと思っていた。


 でもいつまでもお兄ちゃんに甘えてはいられない。優しいこの人は、何度でも私を傷つけないように考えてしまう。言葉を選んでしまう。


 その優しさに頼っていてはダメだ。ちゃんと前に進むと決めたから。


 私はおそらくいろいろ考えてくれているであろうお兄ちゃんの顔を見て、ふっと薄く笑った。


「最後に、思い出作ってくれたんでしょ?」


 私がそっと囁くように口にした。


 相変わらずお兄ちゃんは静かに前だけを見ていて、やがてゆっくりと目を閉じた。


「別に最後だなんて思ってない」


 私が言った、最後という部分だけ否定すると、そのまままた押し黙ってしまった。


 そんなお兄ちゃんを見ていると、ある感情が心の中に生まれてきた。


「お兄ちゃん、ありがと」


 その感情は自然と言葉になった。今まで生きてきて、一番素直に言えた感謝の言葉だったと思う。


 その唐突さに驚いたのか、自然さに驚いたのか分からないが、お兄ちゃんは閉じていた目を開けて、こっちを振り向いた。


「何の話だよ」

「何の話って、今まで全部の話だよ」


 私が生きてきて、今こうしてお兄ちゃんの隣に立つに至るまでの話。


 私がそう答えたのを聞くと、お兄ちゃんは何かを察したのか、堤防から手を放して体ごと私の方を向いた。


 それを見て私の中で覚悟が決まった音がした。今までとは違って人任せじゃないから、覚悟を決めた先の結果は絶対に訪れてしまう。


 それはとても怖いことではあったけど、決して後ろ向きなことではなく、私の口が止まることはなかった。


「いつも優しくしてくれてありがとう。私のことを気遣ってくれてありがとう。こんな私を受け入れてくれてありがとう。本当に、お兄ちゃんがお兄ちゃんで良かった」


 スラスラと気持ちが言葉になっていく。今まで伝えたくても伝えられなかった思いが、どんどんと届けられていく。恥ずかしいような嬉しいような、自分でも区別がつかない気分になる。


 ただ、胸の辺りが温かいのだけは確かだった。お兄ちゃんも同じような気持ちなのか、気付けば優しく微笑んでいた。


「だからこそ、私は今のままいるつもりはない。私は変わりたい。これは自分を否定するためとかではなく、前進したいっていう前向きな気持ちなの」


 上手く笑えるか心配だったけど、口角はちゃんと言うことを聞いてくれた。


 ずっと気持ち悪い自分が嫌で嫌で仕方がなかったけど、今はその気持ちも薄れている。お兄ちゃんが頑なに認めてくれなくて、話を逸らされたりして、どうでも良くなってしまったのかもしれない。


 今日でもう離れようと思っていたけど、逆にこうして私を連れ回してくれたことで、やっぱりまだまだ他愛ない話をしたり、悩みを相談したり、意味もなく側にいたいと思ってしまった。


 でも、だからこそ、私は変わりたい。変わって普通の妹として、お兄ちゃんの横に立っていたい。


「だからお願い。お兄ちゃんには私の背中を押してほしい」


 どうしても自分だけじゃけりをつけられないから。申し訳ないけどお兄ちゃんには手を貸してほしい。


 お兄ちゃんの手で、私の気持ちを、雲も星も見えない夜空に送り出してほしい。


「私の思いに対する、答えを聞かせて?」


 そう言うと、風が拭いて私の声をお兄ちゃんの元へと届けてくれた。お兄ちゃんは微笑みを湛えたまま少し俯く。しかしそれも数秒のことで、すぐに顔を上げたお兄ちゃんは、笑顔をしまい込んで真っ直ぐに私の目を見た。


「その前に一つだけ言わせてくれ」


 そう前置きして、改めて柔らかく笑った。


 何度見たか分からない、優しい兄の顔だった。


「お前は自分のことを気持ち悪いって言ってたけど、絶対にそんなことはない。人を好きになるって、俺は凄いことだと思う。相手が誰だとかは関係ない。誇りに思うことはあっても、自分を貶す材料にはならない。ましてやお前はその気持ちを相手に伝えたんだ。それって簡単なことじゃないし、めちゃくちゃ勇気のいることだと思う。やっぱりお前は凄いよ」


 私は黙ってお兄ちゃんの温もりのある声を聞いていた。別にこれでお別れではないし、きっと明日も二言三言言葉は交わすのだろう。


 それでも私は、聞き逃さないように、これで最後みたいに真剣に聞いていた。


「俺が何と言おうと、お前は自分の評価を変えないんだろうけど、一つ分かっておいてほしいことがある」


 お兄ちゃんは言葉をそこで区切ると、瞬きを一回挟んでから再び私のことを見据えた。


「お前が気持ち悪いのだとしても、俺はお前を避けたり、疎んだりしない。十四年もお前と一緒に過ごしてきたんだ」


 お兄ちゃんはそこまで言うと一歩前に出て、私に近付いてきた。何をしようとしているのか分からなくて、私は少し身構える。


 そんな私を見てお兄ちゃんは笑うと、右手を前に差し出した。その手は視界から外れたかと思うと、私の頭の上に優しく着地し、そのままそっと頭を撫でた。


「気持ち悪いくらいで、俺はお前を嫌ったりしないよ」


 くすぐったい感覚が頭の先から流れてくると同時に、ドクンと私の中で何かが跳ねたような気がした。


 ずっと怖かった。今の自分を変えるためには、お兄ちゃんに嫌われなければならない。私が変わるにはそれしかないと思っていて、でもそれは簡単に受け入れられることではなく、胸が引き裂かれるような思いをずっと抱えていた。


 それでも自分のために、自分を嫌ってもらうように仕向けた。まあ、お兄ちゃんは全くそんな素振り見せなかったけど。


 ただ、口に出していないだけで、少しでも私のことを嫌悪する感情を持っているかもしれないと思うと、ずっと苦しかった。


 だから、言葉でそんなことないって言ってもらえて、凄くホッとした。あれだけ凄い剣幕で自分のことを否定しておいて、今ホッとするのは笑われるかもしれないけど。


 ただただ安心した。胸の奥からじんわりと温かみが広がっていく。


 好きな人に嫌われなくて良かった。


 そう思っているとなんだが目頭が熱くなってきた。誤魔化すようにギュッと目を瞑る。泣くのはお兄ちゃんの話を聞いてからだ。


 それまで涙を見せるわけにはいかない。きっとお兄ちゃんを困らせてしまうから。


「だからまあ、これからも仲良くしてくれ」

「……うん」

「変に気を遣わなくて良いし」

「うん」

「野球の練習だって付き合ってやるからな」

「……うん」


 なんとか表情を取り繕っているが、頷くだけで今の私には精一杯だった。


 私がいっぱいいっぱいなのを察してか、お兄ちゃんが困ったように笑った。結局困らせてしまったのかもしれないけど、これくらいは許してほしい。


 これが最後だから。この気持ちで困らせるのはこれで最後だから。


 そう思ったとき、川の方から涼しげな風が吹いてきた。お兄ちゃんが川の方に目線を向ける。


「この後十九時三十分より、オープニングの花火が打ち上がります。もうしばらくお待ちください」


 そのタイミングで河川敷にアナウンスが入った。もうすぐ花火が見られると知った人たちから歓声が沸き上がる。


 興奮した雰囲気が波になって伝わってくると同時に、お兄ちゃんは改めてこっちに振り返った。


「お前の思いに対する答えだっけか?」

「……うん」


 私は頷いた後、俯かないように気を付けて、意識して顔を上げた。


 これでやっとというか、ついにというか、私は私にピリオドがつけられる。えらく回り道をしてしまった感じがするけど、私の願いがもうすぐ叶う。


 目の前にしてみると嬉しいというよりは、寂しさの方が大きかった。


 できれば早くしてほしい。寂しさが嬉しさを飲み込んでしまう前に。


「悪い。お願い一個だけ聞いてもらっても良いか?」


 私の心中を読んだかのように、お兄ちゃんはまた前置きを挟んだ。私は呆れた様子を隠さずに苦笑いを浮かべる。ただそのおかげで目に溜まっていた熱いものは引っ込んでくれた。


 こんなときにお願いとは何だろう。あまり深く考えずに私は問い返す。


「何? お願いって」

「いや俺、人から告白されたの初めてだったんだよ。まあ知ってると思うけど」


 恥ずかしげもなくお兄ちゃんはそう言った。そんなに堂々と非モテを告白されてもどう反応すれば良いか分からない。


 ただこの話し始めからは、どんなお願いが飛んでくるのかは想像がつかなかった。


 私は首を傾げて続きを促す。


「だから正直嬉しかったんだよ。好きって言ってもらえて。これって中々経験できないことだろ? イケメンでもない限り、生きていて一回あるかないかぐらいの出来事だと思うんだよ俺は」


 はあ。心の中で適当な相槌を打つ。頭の上に疑問符を掲げながらも、取りあえず余計な口は挟まないでおく。


「だからさ」


 するとお兄ちゃんは、涼しい顔をしながら中々ぶっ飛んだことを言い出した。


「もう一回だけ告白してくれないか?」

「え?」


 思いがけない角度からのお願い。私は驚きのあまり反射的に問い返してしまった。眉をひそめた表情で固まってしまう。


 もう一回告白してほしい?


 お兄ちゃんの台詞がグルグルと頭の中を回る。何周しても私の理解が及ぶことはなかった。


 対してお兄ちゃんは、自分が真っ当なことを言ったかのように、堂々と振る舞っていた。


「回数稼げるときに稼いどいた方が良いだろ。どうせもうこんなことないんだろうし」

「いや、告白された回数が増えたからって何もないでしょ?」

「あるよ。男として箔がつくってもんだ。経験なしと一回じゃ全然違うし、一回と二回じゃもっと違う」


 お兄ちゃんから話を聞く度に私の首は傾いていっていたが、ついにもうこれ以上傾けられないほどまできてしまった。横向きになった世界を見ながら私は一人考える。


 男の人からすればそういうものなのだろうか。そもそも身内からの告白を一回と数えても良いのだろうか。同じ人からの告白も別で数えるのか。疑問はどんどんと湧き出てくる。


 お兄ちゃんは相変わらず真顔でふざけた様子はない。よく気まずい雰囲気を出さずにいられるなと逆に感心する。


 ただ、次の一言を聞くと、なぜお兄ちゃんがこんなことを言い出したのか、納得がいった気がした。


「あとはまあ、もう一回告白してくれた方が、ちゃんと答えられると思う」


 お兄ちゃんは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。多分こっちが本当の理由なのだろう。


 なるほどなと腑に落ちた私は、同じように苦笑いを浮かべた。


「もう、しょうがないなあ」

「悪いな」


 私が呆れた感じでそう言うと、お兄ちゃんは素直に謝ってきた。そんなにちゃんと謝られても困る。つまるところ結局は、全て私のためなのだから。


 いつだってそうだ。昔からそう。私が悪いのにそれを気取らせないように、お兄ちゃんは自分が悪いみたいに振る舞ってしまう。


 本当に優しい人。


 昔のことを思い出したからか、私の中に懐かしい悪戯心がまた生まれてしまった。


「妹に二回も告白させるとか……」


 そこで私は言葉を区切り、ニヤリと子供っぽい笑顔を作ってお兄ちゃんに向けた。


「お兄ちゃんって気持ち悪いね」


 私が意地悪そうにそう言うと、お兄ちゃんは一瞬呆気にとられたように口を開けたまま固まった。でもすぐにニヤリと私と同じような笑みを浮かべる。


「誰かさんのことなんて気にならないくらいだろ?」

「本当だよ」


 我慢できずに二人して声を上げて笑った。私たちの笑い声が、周りの喧噪を蹴散らして夜空へと響き渡っていく。それはまるで、これから打ち上げられるであろう無数の花火のようで、ここにいる誰よりも先に、カラフルに彩られた夜空を見たような気がした。


 ひとしきり笑い終えると、私たちの間にまた静かな時間が流れ始めた。聞こえるのは息を整える荒い息づかいだけ。


 私は浮かんだ涙を拭いながら、改めてお兄ちゃんを見据える。お兄ちゃんはこっちを見ながら穏やかに薄く笑っていた。


「じゃあ、準備良い?」

「ああ。いつでも」


 アイコンタクトを送り合って二人一緒に頷く。私は一度軽く息を吐いてから、目を瞑ってからゆっくりと息を吸い込んだ。


 そして私は、人生二回目の告白を始めた。


「私、住ヶ谷家長女にして住ヶ谷律希の妹である、住ヶ谷由希は」


 ああ。ついに終わる。


「いつも鈍くさくて、だらしなくて」


 今まで迷惑かけてごめんね。


「鈍感でおっちょこちょいで」


 せめて今は泣かないようにするから。


「楽観的で子供っぽくて」


 明日からはまた笑って会えるようにするね。


「でも、優しくてカッコイイ」


 これでお別れだ。


「ヒーローみたいなお兄ちゃんのことが……」


 さようなら、私。


「……大好きです。付き合ってください」


 私は言い終えると同時に、ギュッと目を瞑って俯いた。


 あーあ。言っちゃった。やっぱり恥ずかしくて声は小さくなってしまったけど、お兄ちゃんの耳には届いたはず。


 やっと私は振られるんだ。失恋できるんだ。


 最後の一言はいらなかったかもしれないけど、告白にあの台詞はつきものでしょ。この方がお兄ちゃんも振りやすいだろうし。


 あとは泣かないようにしないと。本当に、泣かないようにしないと……。


「ごめん。由希」


 そんなことを思っていると、優しい声が頭上から降ってきた。私は今一度強く両手で拳を握りしめた。


 顔を逸らすのだけは堪えて、続きを待つ。


 私を前へと押してくれる言葉を。


「俺、好きな人がいるんだ。同じクラスの子なんだけど」


 え? 私は握り込んでいた両手の力を抜いて、勢いよく顔を上げる。


 私の目に映っていたのは穏やかでいて、どことなく申し訳なさそうな表情のお兄ちゃん。そこに悪ふざけの雰囲気はなく、私はその様子を呆然と見つめていた。


「だから由希とは付き合えない」


 そして私は振られた。それはもう面白いくらいにあっさりと。こんなときに考え事をしていたせいで、すぐにリアクションが取れなかった。


 考えていたのはお兄ちゃんが私を振るのに挙げた理由のこと。私が想定していたものとは、随分と角度が違う理由だった。もっとストレートで分かりやすいことを言ってくると思っていた。私を振るのに一番適した簡単な言葉があるはずなのに。


 てっきり私は……。


 そこでとあることに気付く。私が思いを打ち明けてから今に至るまで、お兄ちゃんが一貫していたこと。多分こうして意識しないと分からなかった。


 なぜお兄ちゃんはそんなことを一貫していたのか。すぐにお兄ちゃんの考えが思い当たってしまう。


 そうすると私の中から溢れ出してきたのは涙ではなく笑いだった。


 堤防の上に私の爆笑する声が響き渡る。急に笑い出したせいで周囲の視線を集めてしまう。そのことに気付いていても私の笑い声が止まることはなかった。


「なあ。今って笑うところか? 結構緊張する場面だと思ってたんだけど」


 お兄ちゃんも周りと同様に戸惑いの視線を向けてくる。微塵も自分が原因で笑っているなんて思っていない顔。そんな顔を見ていると私の笑いは更に加速してしまった。


 お兄ちゃんは私の笑いを収めるのを諦めて、呆れたように微笑んでいた。


 そんな中、再び花火の打ち上げがもうすぐ始まる旨を伝えるアナウンスが、会場全体に鳴り響いた。河川敷にいる人たちのボルテージがまた一段階上がる。


 私の笑いもそのアナウンスを聞いてやっと落ち着き始めた。


「ごめんごめん。なんか振られたなあと思ったら面白くって」

「振られて面白いとか。お前変わってんな」

「そりゃあお兄ちゃんの妹だからね」

「そういえばそうだったな」


 今思い出したかのように頷いている。そのわざとらしさが面白くってまた私は笑い声を上げた。


 これからもこんなバカみたいなやりとりを続けていけたらと思う。そのためにも私にはやらなければいけないことがある。


 お兄ちゃんをさっさと送り出してあげないと。


「ごめんね。ここまで付き合わせちゃって」


 私が晴れ晴れした表情でそう言うと、お兄ちゃんは表情を少し柔らかくした。


「これで良かったか?」

「うん。百点満点。私は大満足だよ」


 そう言って私は川の方へと目を向ける。彼方では背の高い建物がキラキラと眩しい光を放っていて、特に普段と変わらない時間が流れていた。この淀川が日常と非日常の境界線になっているように見えた。


 きっとあのビルの中で、カタカタとキーボードを打っている人たちも、これから打ち上げられる無数の花火を眺めるのだろう。


 暗い空を華やかに照らしては消えていく花火を見て、何を思うのだろうか。逆にこの場にいる人たちは何を思うのだろうか。


 私はどんな気持ちになるのだろう。


 お兄ちゃんは……。


 そんな何てことのないことを考えながら、私は改めて前を向いた。


「もう行って良いよ。友達待たせてるんでしょ?」


 本来お兄ちゃんはこんなところに私と一緒にいるはずではなかった。これ以上お兄ちゃんの貴重な青春時間を奪うわけにはいかない。


 相変わらずなお兄ちゃんは、私に気遣わしげな視線を向けた。


「お前はどうするんだ?」

「私? まあここでちょっと花火見たら、適当にお母さんたちのところに合流しようかな」

「一人で大丈夫なのか? 心配なら送っていってやるけど」

「大丈夫だって。声なんてかけられないよ。もし誰かに絡まれたらこの拳で何とかするから」


 私はなんとなくの雰囲気で空手のように、右手を握りこんで前へと素早く繰り出した。


 その様子を見たお兄ちゃんが苦笑いを浮かべる。


「正当防衛の範囲に収めてくれよ? 俺は住ヶ谷家から犯罪者を出したくない」

「分かってるよ。バカなこと言ってないで早く行きなって。花火上がっちゃうよ?」


 そんなことを言っていると、花火大会の開会式みたいな放送が流れ始めた。司会らしき女の人の声が今日のプログラムを読み上げている。


 さすがに花火が上がり始めるまでには合流させてあげたい。それでもお兄ちゃんのことだから、余計に私のことを考えて自分の事は後回しにしてしまうだろう。


 それを避けるために私は少し意地悪なことを言った。


「きれいな彼女がかわいい浴衣姿で待ってるんでしょ?」


 お兄ちゃんは私の鼻に付くトーンの声を聞くと、露骨に恥ずかしがりながら目を逸らした。


「彼女じゃない。友達だって」


 きれいとか、かわいい浴衣姿の部分は否定しなかった。本当に純粋で分かりやすい人だと思う。面白くってもっといじめたい気になったが、彼女さんのためにここは我慢しないと。


「早く行って記憶に焼き付けないと。浴衣姿なんてこんなときしか見られないんだから」


 私がニヤリと笑いながらそう言うと、お兄ちゃんは一瞬苦笑いを浮かべた後、私に合わせて意地悪そうな笑みに表情を変えた。


「そうだな。何なら写真も何枚か撮っておくか」

「盗撮犯としてお兄ちゃんが先に捕まらないでね」


 兄妹二人で犯罪者なんて笑えない。育ててくれたお父さんとお母さんに申し訳が立たないので、私だけでもちゃんと自分を律さないと。そこまで兄妹仲良しでいるつもりはない。


 冗談を二人で笑い合った後、お兄ちゃんは落ち着いた表情を取り戻して、一拍置いてから再び口を開いた。


「じゃあ、俺行くわ」

「うん」


 お互い目を合わせながら同時に頷く。


 別れのとき。今まで何度も行ってきたやりとり。


「本当にありがとね。今日」

「おう」


 いつも通りお兄ちゃんは短い返事と共に、軽く手を挙げて私に背中を向けた。そのまま堤防を降りるためにスロープへと歩き出す。こっちを振り返ることも歩みが滞ることもない。


 あっという間に私とお兄ちゃんとの間に距離ができた。


 どうしてだろう。こうなることは分かっていたし、気持ちは決まっていたはずなのに、やっぱり寂しくなる。


 私の右手が遠ざかっていくお兄ちゃんの背中を追いかける。届くはずもなく、掴もうとした右手は情けなく空を切る。目的を失った私の右手はそのまま宙を彷徨った。


「お兄ちゃん……」


 無意識に私の口から声が漏れた。ただその声は囁き程度の声量で、周りの人々の声に紛れ込んで消えていった。


 そのはずなのに、お兄ちゃんはそのタイミングで私の方を振り返った。視線が宙に浮いた私の右手に集中する。


 どうして私はこんなことをしているのだろう。自分でも分からない。ただ一つ分かることと言えば、見られてはいけないところを見られてしまったということ。お兄ちゃんがこんな私を見て放っておくわけがない。


 予想通りお兄ちゃんは首を傾げながら、こっちに戻るために一歩踏み出そうとした。


 その瞬間に私は手を振り上げて、全力で横に振りながら表情を弾けさせた。


「頑張ってね!」


 周囲の目も憚らず、お兄ちゃんを押し返すように声を上げる。


 私はもう大丈夫だから。そんな思いを込めながら手を振る。


 お兄ちゃんは一度呆れたように笑ってから、私の思いに応えるように、親指を立てた右手を掲げ、再び振り返ってスロープを下り始めた。


 良かった。また甘えてしまうところだった。振っていた手を下ろして、大勢の人の群れに向かって歩く背中を静かに見つめる。


 そのときお兄ちゃんの隣に楽しそうな自分の姿を見た気がした。


 私は理解する。お兄ちゃんが連れて行ってくれたのだと。もうここに前までの私はいない。


 やがてお兄ちゃんと私の影は、人の流れの中へと消えていった。


 それを見送ってから私は川に背を向けて堤防に体を預ける。ついに本当に全て終わった。


 終わったときにどう感じるのだろうと思っていたけど、今の私はこれで良かったのだと心底晴れ晴れした気分だった。肩の荷が下りたようなホッとした感覚もある。とにかくマイアすな部分はお兄ちゃんが連れて行ってくれたおかげか、暗い気持ちは一切胸の中に残っていなかった。


「本当に頑張ってもらわないと」 


 頼りなさげな背中を思い出して、言葉を漏らす。もうちょっと自分に自信が持てればと思うのだが。まあそんなところも含めて、あの人の魅力だと思う。


「大丈夫だよ、お兄ちゃんなら。なんてったって私が好きになった人だからね」


 背中を押す言葉を、自分にしか聞こえないように呟く。


 そんな偉そうな囁きは川から吹いてきた風に乗って、誰かの元へと飛んでいった。


 それを目で追いながら、私は一人、まだ真っ暗な夜空の下で穏やかに笑った。


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