表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

7-1

7-1.気持ち悪いって言って



 私はお兄ちゃんが好き。いつからそう思い始めたのかとか、きっかけとかはもう覚えてない。でも今思えば、当時は気付いてなかったけど、小四のときくらいにはもう好きだったんだと思う。


 物心ついたときから、私にとってお兄ちゃんはヒーローだった。


 転んで怪我をしたら、絆創膏を貼って家までおんぶして連れて帰ってくれる。ショッピングモールで迷子になって泣いていると、見つけ出して抱きしめてくれる。海で浮き輪で流されたときは、泳いで助けに来てくれる。


 私が困っていれば颯爽と現れて手を差し伸べてくれる、カッコ良くて頼りになる存在。掛け値なしに昔からずっとそう思っていた。


 他にも私が退屈しないように構ってくれたり、悪戯しても笑って許してくれたり、運動会の徒競走で一位になるための練習に付き合ってくれたり、私が懐くには十分すぎる人だった。


 皆に自慢したくなるようなお兄ちゃん。そんな優しくて面白いお兄ちゃんが昔から大好きだった。


 この大好きだという気持ちが、そういう方向に向き始めたのはいつからだろう。


 小学校中学年になったくらいから、誰が誰のことを好きとかっていう話が私の周りでも出るようになった。


 それくらいの年頃にもなればよく出る話題。いろんな噂とかが飛び交ったりしていたから、私も自分に置き換えて考えてみたりしたこともあった。


 そして私もある日聞かれた。「由希ちゃんは誰のことが好きなの?」って。


 そのときに真っ先に出てきたのがお兄ちゃんの顔。


 私は迷うことなくお兄ちゃんが好きって答えた。そしたら皆に笑われた。そういうことじゃない、それは違う『好き』だと言って。


 私は皆の言っていることが理解できなかった。じゃあ私のこの気持ちはどういう『好き』なんだろう。小学生の私に答えが出せるはずもなく、ただちゃんと私も人を好きになるということを理解していなかったから、皆がそう言っているならそうなんだろうと、理屈抜きで自分を納得させた。


 今はまだそういう人に出会っていないだけ。いつかはお兄ちゃんの顔を上から塗りつぶしてくれるような人が現れる。もしくはお兄ちゃんに対する『好き』とは違う『好き』という感情が生まれてくる。友達からはそう言われたし、私もそうだとなんとなく思っていた。


 そんな友達とのやりとりがあってから、いろんな男の人と出会ってきた。学校のクラスメイト。地域の野球クラブのメンバー。習い事先で会う他校の子。学校の上級生とか下級生、先生なんかも含めれば、男の人と接する機会は本当にたくさんあった。


 何なら『好き』という気持ちを向けてもらうこともあった。数回、同学年の男子から告白されたりした。人から好きだと言われて嫌な気はしない。純粋に好きだと思ってくれたことが嬉しくて「ありがとう」と全員に返した。


 ただ、それだけだった。


 私の『好き』という気持ちの席にはずっとお兄ちゃんがいた。別の種類の『好き』っていう気持ちも私の中に生まれることはなかった。


 人から好意を向けられても、その気持ちが私を巡ってから相手に跳ね返ることはなかった。ただ私は貰うだけ。


 私が想像していた通りには、友達が言っていた通りにはならなかった。


 逆に時が経つにつれて、私の中に実感が湧き始めた。


 私のお兄ちゃんを好きだという気持ちは、家族愛なんかじゃなくて、ちゃんと恋心だっていう実感が。


 私は気付いてしまった。お兄ちゃんに恋をしていることに。


 そんな自分を認識するきっかけは身近にあった。


 それはお兄ちゃんの幼馴染みである綾ちゃんの存在だった。


 ある日、いつも通りうちに遊びに来ていた綾ちゃん。それはほぼ毎日見てきた光景で、特段変わったところはない。


 ただ私の胸の中はいつもと違っていた。


 お兄ちゃんは綾ちゃんに振り回されていて、それにツッコんだり文句を言ったりしながらも楽しそうに笑っている。


 そんなお兄ちゃんのことを見ていると胸の奥の方がズキッと痛んだ。目に見えない鈍痛が胸の辺りを支配していて、なかなか収まることはなかった。


 昔はこんな痛みを感じることはなかった。最初は気のせいかと思ったが、いつまで経ってもその感覚が消えることはなかった。むしろ次第に大きくなっていった。


 そしてお兄ちゃんが綾ちゃんのことを好きだということに気付いたとき、お兄ちゃんの綾ちゃんを追う目線が、私に向けられている目線と違うことに気付いたとき、私は自分の気持ちを自覚した。この心臓を掴まれたような感覚は、好きという感情の裏返しであることを理解した。


 数年抱え続けてきた自分の気持ちの名前が分かったとき、私はホッとするのと同時に、深く戸惑った。


 戸惑った理由はただ一つ。この頃には既に自分の異常さに気付いていたから。


 いままで何度か友達に聞いたことがある。家族のことをどう思っているのかと。


 返ってきた答えは、ウザいとか面倒くさいとか、辛辣な言葉ばかり。ほとんどの人が自分の兄や弟、姉や妹のことを嫌っていた。中にはポジティブなことを言う子もいたが、そういう人が選ぶ言葉は「仲が良い」ばかりで、誰も「好き」という言葉を選ばなかった。


 小説や漫画、ドラマやアニメを見ても、妹が兄に恋をする話はどこにもない。あったとしても血の繋がっていない兄妹という設定が乗っかっている。よく探せばあるのかもしれないけど、よく探さないといけない時点で共感が得られていない作品ということだ。


 こうして私は自分が世間からずれていることを理解した。


 皆の輪から外れる、周りから共感を得られないというのは、とても恐ろしくて嫌悪したくなる。そうなれば正誤なんて関係なくなってしまい、取りあえず自分が間違っていると決めつけて、周囲にとけこめるように自分を正す。


 私は自分の気持ちにバツをつけて、心の奥底にしまい込み、蓋をした。蓋の上には世間とか常識とか周りからの目とか、いろんなものを重石にして置いて、自分の間違った感情を抑え込もうとした。


 おかげで私は普通の妹に戻ることができた。ちょっと他の家に比べればお兄ちゃんと仲が良い普通の妹に。


 途中でお兄ちゃんが綾ちゃんに振られてくれたのも大きかった。お兄ちゃんには申し訳ないけど、そのおかげで私の気持ちが刺激されることはなくなり、胸の痛みを忘れてしまうほどに、私は普通の妹が板につき始めていた。


 ずっと上手くいっていると思っていた。何の変化もなく日々を過ごし、このまま私はフェードアウトするように忘れることができると思っていた。


 心の中の気持ちがどんどん育っていることから、目を逸らして。


 お兄ちゃんは高校生になってから、綾ちゃん以外の人とも関わるようになった。その影響か休日や放課後には遊びに行くことも増えた。話を聞けば遊んでいる友達の中には女の子もいるのだという。


 胸の辺りがチクッとしたような気がした。


 でもそんなはずはない。もう私はあの頃の、おかしな妹ではない。


 私は普通の妹なんだから、「どの子が狙いなの?」とか「思い切って告白しちゃいなよ」とか言って、お兄ちゃんをけしかけて、困らせるの。


 それで図に乗ったお兄ちゃんが本当に告白しちゃって、撃沈したら笑いながら慰めてあげて、成功したら「今度紹介してよ」って言いながらお祝いする。


 お兄ちゃんと遊びに行ったときの思い出話をする度に、そうやって頭の中でシミュレーションした。繰り返す度に胸の違和感は大きくなっているような気がしたがそんなわけない。


 だって私は普通の妹だから。実の兄を好きになるような、気持ちの悪い妹ではないから。


 そうやって自分の気持ちから目を逸らし続けた結果、自分では抱えきれないほど気持ちは大きくなってしまっていた。


 あの日。私が呑気にソファーに寝転びながら夕飯前なのにお菓子を貪っていたあの日。


 徐にリビングへと入ってきたお兄ちゃんが言った。


 ――ごめん。今年の花火大会、一緒に行けないわ。


 ――皆で一緒に行かないかって連絡が来て……。


 その二言を聞いた瞬間に、私の中で壊れる音がした。気持ちを抑えつけていた蓋が壊れる音が。


 今まで抑え続けていた分をはね返すかのように、私が目を逸らしていた気持ちは心から一気に溢れ出した。


 毎年欠かさず一緒に行っていた花火大会。今年は友達と行くから一緒に行けない。別に何も変な話じゃない。むしろ今まで誘われていなかったのが心配なくらい。


 ただこの話を聞いた私は、お兄ちゃんの存在が一気に手の届かないところまで遠ざかるような感覚がした。花火大会を境にお兄ちゃんが奪われるような気がした。


 あれだけシミュレーションしていたはずなのに、いざ状況を前にした私は、お兄ちゃんの背中を押したり、けしかけたりなんてすることはなく、ただ手を力いっぱい握り込みながら押し黙ることしかできなかった。


 由希は良いのかと聞かれたときも、お兄ちゃんの方を向くことさえできず、友達と行くという嘘をついて手を挙げるだけで精一杯だった。


 一度溢れ出した気持ちは際限なく膨れ上がっていく。お兄ちゃんが満足そうな顔でリビングを出て行った後、気持ちを止めることができなくて、我を忘れた私は、手遅れになる前にどうにかしようと思った。


 その結果、思いついたのは電話で思いを伝えるということ。拒絶されるのが怖かった私は、自分であることを隠すためにアプリではなく電話番号で電話をかけて、番号でも私だとバレないように非通知にする方法を調べた。更に袖で口元を軽く覆いながら声を変える。


 そうして私はお兄ちゃんに告白した。気付いたときには私の体は止まらなくなっていて、躊躇いなく行動に出ていた。


 そんなことを言いつつも今思えば、非通知にしたり声を変えたり、そこら辺に気が回るあたり、案外冷静だったのかもしれない。


 結局私は昔から何も変わっていなかったんだ。手遅れなのは私の方で、ずっと異常な自分を胸の中で抱え続けていた。


 私は普通の妹なんかにはなれていなかった。


 お兄ちゃんのことが諦めきれない、気持ち悪い妹のままだった。


 これがずっとお兄ちゃんを困らせていた事件の真相。全部私が悪くて、全部私のせいだったっていうわけ。


 おかしな妹でごめんなさい。心の中で謝りながら、私は上手く笑えているかも分からないけど、微笑みながらお兄ちゃんの方を見た。


「嘘を吐きました。私はあなたのことが好きです」


 私の控えめな二度目の告白は、私とお兄ちゃんしかいない廊下には嫌でもよく響いた。


 お兄ちゃんは家の壁に肩を預けながら、瞬きもせず神妙な面持ちで私の告白を聞いていた。多分どう反応して良いか分からずに戸惑っているんだと思う。


 それも当然だろう。実の妹から告白されたときのリアクションの仕方なんて、世界中のどこを探しても知っている人なんていないと思う。強いて言うなら適当に受け流すか、「キモい」と言って一蹴するくらい。


 その二つのどちらにも当てはまらず、ただ黙って聞いてくれているだけでも、私としてはホッとするというか安心できた。


「私っていうのは由希のことか?」

「うん」

「あなたっていうのは俺のことか?」

「うん」


 電話でもした記憶のあるやりとりを、お兄ちゃんは事実を受け入れる準備を整えるようにもう一度行った。


「一応聞いておくけど、好きっていうのはファミリー的な意味で?」

「ううん。男の子と女の子的な意味で」

「ふむ……」


 お兄ちゃんは少し難しい顔をして、顎の辺りを触りながら俯いた。未だにどう反応するのが正解なのかを探っている。


 正解なんて一つしかないし、すぐに思いつくはず。それなのに頭を悩ませているお兄ちゃんを見ると、少し笑えてきてしまった。


 お兄ちゃんらしいと思う。こんな状況でも私のことを考えてくれている。これは私が好きになったお兄ちゃんの姿だったけど、この先の結末を知っている私としては、寂しいというか胸が締め付けられるような思いだった。


「まあ、取りあえず」


 結局何の結論も出すことなく、お兄ちゃんは話を変えようとした。私は制止することなく、その様子を安堵半分、後悔半分で見ていた。


「もう何回目になるか分からんけどもう一度聞く。どこまで本気だったんだ?」


 その低くて重みのある声は私を掴んで放さない。もう逃がすつもりはないと真っ直ぐな瞳が物語っている。


 かく言う私も逃げるつもりなんてなかった。お兄ちゃんからの視線を真っ正面から受け止める。私も覚悟ならとっくにできている。


 あとはお兄ちゃん次第。ちゃんと言ってくれることを願うだけ。


 私は後悔のないように、後ろを振り返らないことを心に決めて、ゆっくりと口を開いた。


「まあ、大体本気だったよ?」


 いつも通りの声が出たことに安心する。


「大体とか曖昧な言葉は使うな。一個一個丁寧に説明しろ」


 どうやら本気で真剣に話がしたいらしく、お兄ちゃんは厳しい声と表情を崩すことなくそう言った。


 珍しく怒っている。こんな怒られ方をしたのはいつ以来だろう。お兄ちゃんが私をこんな風に叱るのは、大けがに繋がるようなことをしたときや他人に迷惑をかけるようなことをしたときだけ。それ以外のことは大抵笑って受け流してくれた。


 小学校高学年になったくらいから、ほぼ見なくなっていたお兄ちゃんの怒り顔。私は自分の立場を理解しながらも、心の中では反省ではなく、小さい頃を懐かしんでいた。


「一個一個丁寧にって、どこから言えばいいの? いつからお兄ちゃんのことが好きだったかとか? いつからこんなこと考えてたのかとか?」

「良いから全部話せ」

「もう。欲張りだなあ」


 お兄ちゃんはイライラしているのか、眉間にしわを寄せる。私が勿体ぶっているのが気に入らないのだろう。


 別に私はお兄ちゃんを怒らせたいわけではないので、仕方なく電話をかけるに至るまでの流れをかい摘まんで説明した。お兄ちゃんは相槌さえ挟むことなく私の話を淡々と聞いていた。


「それで?」


 私が話し終えると、お兄ちゃんは何のリアクションをとることなく、間髪入れずに話の続きを促した。


「それでって、もうちょっと何か言うことないの?」

「ない」

「……ないって、お兄ちゃんが聞いてきたんでしょ……」


 きっぱりと言い切ってしまうお兄ちゃんを前に不満の視線を送る。自分から聞いておいて、その態度はないと思う。


 それに言うことは無いなんてことは絶対におかしい。私はずっとその言葉を待っている。覚悟を決めてしまった私のためにも、早く楽にしてほしかった。


「俺が聞きたかったのはその先の話だよ」


 声のトーンも表情も変えずに話を進めようとする。私としてはこのままズルズル行くつもりはなかったので、話を戻したかったのだが、私が口を挟むよりも先に、お兄ちゃんが言葉を続けた。


「俺が見つけられなかったら自殺するって話……、どういうつもりで言ったんだ?」


 今までで一番圧のある声だった。視線を戻すとお兄ちゃんの鋭い視線が突き刺さる。


 ただ私はひるむことなくその視線を見返していた。じわじわとお腹の底の方で熱いものがこみ上げてくるのを感じる。そうして私は自分が腹を立てていることを理解した。


 自分が怒っている理由は分かっている。ただこの怒りを今ぶつけても意味がないと思った私は、先に目の前にある話題を片付けることにした。


「どういうつもりも何も、そういうつもりで言った」

「本気で自殺するつもりで言ったのか?」

「電話したときはそうだった。私がお兄ちゃんの妹である以上、私はお兄ちゃんに好きだって伝えられない。こんな世界生きててもしょうがない。そんな感じのことを思ってた気がする」

「そうだったってことは、今は違うってことか?」

「どうだろ。する気はあったとしても、結局できなかったと思う。私に首吊ったり、高いところから飛び降りたりする勇気なんてない」


 実の兄が好きだという気持ちを抱える勇気さえ、私は持っていなかったのだから。


 思わず自虐的な笑みがこぼれる。よくこんな恥ずかしいことを言えたものだと自分でも思う。


 普通なら「何言ってるんだ、お前」と馬鹿にした笑いと言葉が飛んできてもおかしくなかったが、お兄ちゃんは相変わらずの無表情で、私の話を聞いていた。


 この人は今何を考えているのだろう。さっさと踏ん切りをつけてほしい。そんなことを考えていると、お兄ちゃんが唐突に私の方に向かって歩き始めた。


「なあ、由希」

「……何?」


 聞き返すも返事は返ってこない。ただ私の目だけを見つめて遠慮なく私の方に踏み込んでくる。


 あっという間に私とお兄ちゃんの距離は近くなる。気付けば私はお兄ちゃんに肩を掴まれていて、私は身動きが取れなくなっていた。


 突然のことに頭が追いつかない。なされるがままに私は家の壁へと体を押し付けられる。


 反射的に見上げたお兄ちゃんの顔は、今まで見たことがない、何かを怖がっているような、それでいて何かを拒んでいるような、そんな表情をしていた。


 気迫のこもった雰囲気に私は気圧されてしまう。力加減ができていないのか、私の肩を掴むお兄ちゃんの手には結構力が入っており、じわじわと痛みはじめていた。


「言葉を濁すな。はっきりとさせろ」

「急に何? 何の話?」

「自殺の話に決まってるだろ」

「それはもう言ったじゃん。私に自殺する勇気なんてないって……」

「だからはっきりさせろって言ってるだろ。ちゃんと自殺しないって言え」

「分かった! 分かったから放してよ。痛いって!」

「言うまで放さない」

「自殺しない! もうそんなこと言わない! これで良い?」


 痛みが感覚を支配していくことで焦った私は投げやりっぽくそう言った。肩の拘束は若干緩まり、痛みは徐々に和らいでいく。それでも動けない程度に私は壁に押さえつけられていた。


 今までお兄ちゃんが私に暴力を振るったことは一度もなかった。だからそれほどに今のお兄ちゃんは冷静じゃなかった、もしくは激怒していたということだと思う。


 その証拠にお兄ちゃんの顔を見ると、未だに厳しい表情をしたまま私のことを見ていた。


 初めてお兄ちゃんのことを怖いと思ってしまった。


「言ったぞ。言質取ったからな」

「……それでいいから、取りあえず放してよ」


 やっとお兄ちゃんは私の拘束を解いて離れてくれる。それと同時に鬼気迫る感じは鳴りを潜めて、いつもの素朴な表情へと戻った。


 そして次の瞬間、お兄ちゃんは床へと足から崩れ落ちてへたり込み、「はあ」と結構なボリュームで情けない声を上げた。


「良かったあ。マジで良かったあ」


 安堵したような力の抜けた声が、静かな廊下に反響して私の耳へと届く。私の目は頼りなさげに弛緩したお兄ちゃんの表情を視界に捉えていた。


 テンションとか態度とかいろいろ落差がありすぎて、私は戸惑いを隠せない。本当に数秒前に私の腕を掴んでいた人と同じ人なのか疑いたくなる。


 ただ、この兄としての威厳など全くない、気概に欠ける姿は、紛れもなくいつものお兄ちゃんだった。


「ちょっと、どういうこと?」


 私は二転三転した態度について説明を求める。なぜあそこまで怒っていたのかも、何が「良かった」のかも私には見当がつかなかった。


 お兄ちゃんは両手を後ろについて、体重を背中に預ける。目だけで私の方を一瞥すると、すぐに目を閉じて、そのままの体勢で深く溜息を吐いた。


「言ってただろ。電話で聞いたときからずっと、自殺っていう単語が頭から離れなかったんだ。自分と関わりがある人が自分から死のうとしてるだなんて、考えただけでも気分が悪くなる。電話の相手を絶対見つけ出してやるというよりは、絶対死なせちゃいけないって思ってたんだよ」


 そこまでを独り言のように淡々と語ると、お兄ちゃんは私の方を見て、表情筋を緩めた。


「だからホッとした。誰も死なないって分かってホッとした」


 安堵を噛みしめるようにそう言ったあと、薄く笑いながら優しく目を細めた。その表情にお兄ちゃんらしさがぎゅっと詰まっていると思った。


 電話のことを私に相談しているときも、お兄ちゃんは自殺というワードをずっと気にかけていた。私の前では心配をかけないようにするためか、あくまで自分のことを好きなのは誰かっていう部分を気にかけているように見せていたけど、きっと頭の中ではずっと自殺のことばかり考えていたんだと思う。


 この人はそういう人だ。基本的に他人優先で自分の事は後回し。この一週間ずっと、顔も名前も分からない人のことを本気で心配し続けていたのだろう。


 そういう風に善人ぶるのなんて誰だってできる。でもこの人は素でそういう風に振る舞ってしまう人なのだ。上辺だけでなく、芯から優しさを他人へと向けてしまえる人なのだ。


 生まれてからずっと向けられてきた私だけが分かること。


「ましてや電話の相手がまさかのお前だったわけだから、ホッとしすぎて腰が抜けた。とにかくお前の口から自殺しないってことが聞けただけで良かった」


 この台詞も本気でそう思ってそう言っている。


「あんまり自殺するとか軽々しく言うなよ。軽々しくなくても言うな。俺の心が持たん」


 私が正体を明かしてからずっと本気で心配してくれていたのだ。


 あれだけ怒っていたのは優しさとか心配の裏返し。


 本気で私が死なないことを「良かった」と思っている。


 私があんなことを言った後であるにも関わらず、本気でそう思っているのだ。


 それが分かるから、分かってしまうから私の胸は苦しくなった。


「……ごめんね。死ねなくて」


 その言葉は自然と口からぽろっとこぼれ落ちた。口に出そうと意識していたわけではなかったので、声は耳をすましていないと聞き取れないほどに小さかったと思う。


 しかしここには二人しかおらず、今となっては花火大会へ向かう家族の声も聞こえてこない。聞こうとしていなくてもお兄ちゃんの耳は私の声を拾った。


「おい。まだ怒られ足りないのか?」


 眉間にしわを寄せたお兄ちゃんがキッと私の方を睨みつける。ただ今回はすぐにその鋭い視線は和らげられ、元の表情に戻った。


「お前が死んで泣く人がこの世に何人いると思ってるんだ。冗談でもそういうこと言うな」


 叱るというよりは窘めるような口調でお兄ちゃんはそう言った。純粋な瞳は私へと真っ直ぐに向けられていて、迷いや躊躇いなどは一切ない。


 それに対して私の口角はぎこちなく上がり、鼻で笑いながらお兄ちゃんの足先付近に視線を彷徨わせた。


「まあ、目の前でこんなこと言われたら、そう答えるしかないよね……」


 情けない震えそうな声で独り言を呟いた。お兄ちゃんからの反応はなく、静かな時間が流れる。ただ、私が言ったことの真意を推し量ろうとしていることは、なんとなく雰囲気で伝わってきた。


 その間も私は自然に笑おうとしていたが、表情筋は言うことを聞かず、気持ち悪い笑顔のまま視線を足下に転がしていた。


「本当はお兄ちゃん、私にいなくなってほしかったんでしょ?」

「……どういう意味だ?」


 二拍ほど置いてから、お兄ちゃんから疑問が返ってきた。チラッと目線だけでお兄ちゃんの表情を確認した。


 視界に入ってきたのは片眉だけが上がった、間抜けにも見える顔。本当に何のことだか分かっていないかのような表情。


「別にもう気遣ってくれなくて大丈夫だよ。私が電話の犯人だって打ち明けたときから既に覚悟はできてるから」

「……」


 お兄ちゃんが口を開こうとする様子はない。待っていても埒が明かないので、私は話を進めた。


 私が望む話の結末へと薦めた。


「本当は私に自殺してほしかったんでしょ?」

「そんなこと思うわけ――」

「思うわけあるよ!」


 お兄ちゃんのしっとりした声に被せて、私のとげのある声が落ち着いた夕暮れの雰囲気を劈いていく。いつの間に笑顔を保とうとしていた私の表情は、完全に制御を失い、着ている浴衣にはとても似つかわしくない、険しく歪んだものに変わっていた。


「ちゃんと話聞いてた? 私が何て言ってたか覚えてる?」


 質問の形をとっておきながらも、答える隙もなく、まくし立てる。制御を失っていたのは表情だけでなく、ほぼ自分の全てだった。考えるよりも先に言葉は出てくるし、握る手には力が入る。


 かろうじて冷静に判断できていることと言えば、この場から逃げないということだけだった。本当は今にも走って逃げ出したい。でもここで私は決着をつけなければいけない。


 この胸の奥にある気持ちに決着を。


 そんな意思を込めて鋭利な視線を前に向ける。視線の先でお兄ちゃんは不安そうに瞳を揺らしていた。


「私、お兄ちゃんのこと好きだって言ったんだよ?」


 私がそう言っても戸惑いの表情に変わりはない。


 まるで本当に心当たりがないみたいだった。


 私が何て言ってほしいか本当に分かっていないみたいに、私の方を心配そうに見ていた。


 それを見て、私のお腹に改めて力が入る。次の瞬間、亀裂が入っていた気持ちの器は完全に決壊してしまった。


「気持ち悪いでしょ! 気持ち悪いからお前みたいな妹はいらないって、そう思ったでしょ!」


 私は近所迷惑とかは考えずに、気持ちに任せてそう叫んだ。


 お兄ちゃんは面食らったように目をパチクリさせる。さすがに驚いたようでしばらくそのまま固まってしまう。


 しかし程なくしてその表情をしまい込むと、何を思ったか薄く微笑みを湛えた。


 まるでまだ私の兄であるかのように振る舞っていた。


「そんなこと思うわけないだろ」


 私を慰めるときの、優しい声が私を包み込む。何度も聞いたことがある優しい声。いつも私が失敗したときとか、思い通りに行かなかったときに、温かく寄り添ってくれる、そんな声。


 私はその声に体を預けそうになる寸前に、なんとか思い直して声を荒げた。


「思うわけあるって! 妹に好きだって言われてるんだよ? 気持ち悪いって思うのが普通だよ!」

「別にそこまで思わねえよ」

「思うって!」

「そんなこと言われてもなあ」


 頭を搔きながら困ったように笑う。まるで本当にそう思っているかのように笑う。


 普通なら嫌悪感むき出しでドン引きしていてもおかしくはないのに。お兄ちゃんは今までの話を聞いていなかったかのように笑っている。


 それが無性に腹立たしくして、私は更に感情を爆発させた。

 

「私は気持ち悪いの! お兄ちゃんに優しくされたり、褒めてもらえたりするとドキドキする」


 私があっさり正体を明かした理由。


「お兄ちゃんが着替えてるところ見たり、体が触れそうになるくらい距離が近くなると心臓が飛び出そうになる」


 それはお兄ちゃんに今の私を拒んでもらうため。


「喜んだり笑ったりしてるところ見ると、こっちまで嬉しくなるし」


 お前はおかしいって、お前みたいな変な妹はいらないって、そう言ってもらえれば。


「落ち込んでるところ見たりしたら、元気づけてあげたくなる」


 この気持ちとお別れできる、そう思ってた。


「お兄ちゃんが他の女の子と仲良くしてるの見ると、胸が苦しくなるし」


 この気持ちとお別れできたら、諦めることができたら。


「練習手伝ってもらうのを口実に独り占めしたくなる」


 私はやっと気持ち悪い妹を卒業できる。


「修学旅行とかでちょっと顔を合わせないだけですぐに会いたくなるし」


 やっとお兄ちゃんの、普通の妹に戻れる。そう思ってた。


「家で帰り待ってるときも、早く帰ってこないかってそわそわする」


 でも私は知ってる。知ってるし、知ってた。


「ケータイでメッセージのやりとりするだけで一喜一憂するし」


 さっきのお兄ちゃんの何も分かっていない顔、困った苦笑い、どちらも本当だということを知ってる。


「顔を合わせてしゃべりたいからって、用もないのに部屋に行ったりする」


 これだけ具体例を挙げても、傷つけないためにこんな私を受け入れてしまうことを私は知ってた。


「ね? 挙げだしたらきりがない」


 それでもお兄ちゃんには言ってもらわないといけない。


「私ってこんなに気持ち悪いんだよ? 変でしょ?」


 お兄ちゃんには拒んでもらわなきゃいけない。


「お兄ちゃんもそう思うでしょ?」


 そうじゃないと普通の妹に戻れないから。


「気持ちを伝えられないから自殺しようとする妹、狂ってるって思うでしょ?」


 胸の中にあるこの気持ちを手放すことができないから。


「別に今は気遣わなくていいよ。さっきも言ったけど覚悟はできてるから」


 これでやっと全てが終わる。


「黙ってないで何とか言ってよ」


 胸を締め付けられることもなくなる。


「お前みたいな気持ち悪い妹は消えろって言って」


 自分を否定する必要がなくなる。


「気持ち悪いって言って」


 願いが叶う。


「お願いだから言ってよ!」


 これ以上ないほど嬉しいことのはずなのに、私の表情には力が入ったままだった。


「早く言って!」


 そんなに大きな声で言わなくても聞こえると分かっていながら、私は声を荒げてお兄ちゃんを睨みつけた。


 お兄ちゃんは私の視線を黙ったまま受け止める。表情は変えず、しばらくそのまま私のことを見つめ返している。


 久しぶりに私が黙ったことで、その場が余計に静かになったように感じた。


 そのせいで私は自分の肩が震えていることに気付いてしまった。覚悟はできてるとか偉そうなことを言っておきながらこのざま。自分の情けなさに腹が立つ。


 でももうすぐそれも許せるようになる。その言葉を聞くことさえできれば震えは止まる。それまでの辛抱だと思えば、自分がかわいく思えてきてしまった。


「なあ、由希」


 お兄ちゃんが私の名前を呼ぶ。その瞬間に私は反射的にギュッと目を瞑ってしまった。


 心の中で自分に別れの挨拶をする。そして新しい自分に出会いの挨拶をする。


 長かったけどやっと私は自分の気持ちにけりをつけることができる、そう思っていた。


「はい、ちーず」


 しかし聞こえてきたのは、この場には絶対に相応しくないフレーズだった。


 びっくりした私は再び反射的に目を開ける。視界に映っていたのは、ケータイの裏面を私の方に向けて持ちながら、画面に指を添えているお兄ちゃんだった。


 その姿を認識した瞬間に、カシャッという音とともに、眩しい光が空間を支配する。それは一瞬のことで、すぐに元の薄暗い雰囲気に戻った。


 突然のこと過ぎて脳が目の前の状況に追いついていなかったが、さっきのかけ声とフラッシュが結びついて、お兄ちゃんが何をしたのかを私は理解した。


「何してるの?」

「何って、写真撮っただけだよ」

「それは分かってるよ。なんでそんなことしたのかを聞いてるの!」

「うーん。ちょっと不意打ち過ぎたけど、まあいいか」


 私の訴えには耳を貸さず、ケータイの画面を見ながら勝手に一人で納得している。


 何がどうなれば写真を撮るという発想に至るのか。私の頭の中はただでさえいっぱいいっぱいでこんがらがっていたというのに、お兄ちゃんの突飛な行動のせいで更にぐちゃぐちゃにかき乱されてしまった。


「ちょっと、私の話聞いてる?」

「いやーだってさ」


 今度は聞く耳を持ってくれたお兄ちゃんは鼻で笑いながら、私に近付き、持っていたケータイの画面を私に見せてきた。


 そこに映っていたのは先程撮影したであろう私の写真だった。唐突すぎる撮影だったので、何が何だか分かっていない私の呆けた顔がバッチリ撮られている。今すぐにでも消してほしい写真だった。


 そのことを伝えようとしたところ、先にお兄ちゃんが口を開いた。


「さっきからお前、自分の事気持ち悪いって言いまくってるけど、この見た目で気持ち悪いは無理があるだろ」

「……」


 この人は何を言っているのだろう。小説なら一行どころか、一ページ読み飛ばしてしまったような感覚。全くお兄ちゃんが言っていることが理解できなかった。


 戸惑った私を置いて、お兄ちゃんは独り言を続ける。


「家族っていう贔屓目なしでも、浴衣着てる由希はどう見ても可愛いぞ。可愛いというかきれいっていう表現の方が合ってるかもな。浴衣のおかげで普段より大人っぽさが増してる気がする。元々お前身長あるし、今なら高校生とか何なら大学生とかにも間違えられるんじゃないか?」


 ケータイの画面を見て頷きながら長々と語ると、最後に視線をこっちに向けて笑いかけてきた。


 その呑気な顔を見て、私の言語理解機能が再起動を果たす。


 そして次の瞬間に、羞恥心の濁流が私を飲み込み、心拍数が倍くらいに跳ね上がった。


「き、急に何言い出すの! 意味分からないんだけど!」


 咄嗟に腕で自分の顔を隠しながら私は叫んだ。顔が熱すぎて冷静な判断ができず、うまく言葉が出てこなかった。


 多分私の勘違い出なければ、可愛いとかきれいとか言われていた気がする。今までお兄ちゃんから見た目を褒めてもらったことはあまりない。だから余計に私の気は動転するし、この場でなぜよりによってそんなことを言い出したのかが分からなかった。


「いやだから、お前が自分を気持ち悪いって言うから、証拠を挙げて反論してるんだよ」


 面倒くさそうに顔をしかめたお兄ちゃんが怠そうに言う。あたかも自分が正しくて私がずれているみたいな態度。あまりにも堂々としているから一瞬私が悪いのかと錯覚してしまう。


「もっと自信持てよ。お前、結構美少女だから。あんまり自分を卑下するな」


 そう言ってお兄ちゃんは穏やかな笑みを浮かべながら、親指を立てた。


 自分の容姿の良し悪しなんて自分じゃ分からない。美少女なんて言われたことないし、そんなこと言われてもいまいちピンとこない。


 ただこんなときでも、やっぱりこの人から褒められたり、笑顔を向けられたりすると、心の温度が上がってしまう。相変わらずな自分に笑えてくる。どうしようもない自分に嫌気が差してくる。


 そんな呆れた感情が自分を冷静にさせてくれた。


 多分この人は、そういう意味で私が自分の事を気持ち悪いと言っていたわけではないことを理解している。理解した上でこうして惚けたふりをしながら、適当なことを言って話を逸らそうとしている。


 全ては私のため。私が傷つかないようにするため。


 どこまでもこの人は私のお兄ちゃんで、私の大好きな人だった。


 だからといって、いつまでもこの優しさに甘えているつもりはない。ちゃんと自分で始めたことは自分で終わらせないといけない。


 私は何度決めたか分からない覚悟を改めて決め込んで、真っ直ぐな視線を前に向けて口を開いた。


「私はそういう意味で言ったんじゃ――」

「こんな感じだったら、花火大会とか行ったら、いっぱい声かけられそうだな」


 お兄ちゃんは顎の辺りを触りながら、私の言葉に被せてそう言った。まだこの人の中でおふざけモードは抜けていないみたい。


 私は再び真面目な雰囲気に戻すために、表情を引き締めた。


「私が話したいのはそんな――」

「大学生とかもナンパしてきそうだな。お前が中学生だって知ったらどんな反応するんだろうな」


 また私の話が遮られてしまう。私がしゃべろうとしているのは絶対に聞こえているはずなのに、お兄ちゃんはよく分からない妄想を膨らませている。


 なんとなく嫌な予感がしたので、私は少し語気を強めて、話のペースを自分の方に持ってこようとした。


「ちょっと! 私の話聞い――」

「面白そうだな。試しに花火大会行ってみようぜ」

「はあ? 何言ってるの?」


 思わず素のテンションで返してしまった。圧のある声が響き渡る。私は眉間に力を込めながら口を開けたままお兄ちゃんを見ていた。


 でもこんな態度になるのも仕方ないと思う。それほどお兄ちゃんが言い出したことは理解に苦しむものだった。


 よくこの状況で花火大会に行こうなんて誘うことができると思う。やっぱり私の話を聞いてなかったんじゃないかと思ってしまう。聞いていたら冗談でもこんな風に誘えないはずだから。


 しかしお兄ちゃんは相変わらず自分の正当性を疑っていない様子で、私のことを呆れた感じで見返してきていた。


「はあって、こっちの台詞だよ。そんな格好しといて花火大会行かないつもりなのか?」

「い、行かないよ!」

「じゃあ何のために浴衣着てるんだよ」

「これはただ……」


 一応最後くらいは着てみようと思っただけ。今まで着たことなかったから、一回くらいは着てみようと思っただけ。いろいろ理由は頭の中に浮かんできたけど、お兄ちゃんの鋭い眼差しを見ると、口には出せなかった。


「あ、そういえば友達はどうしたんだよ。一緒に行くって言ってただろ」

「……あれは嘘。誘われたのは本当だけど、行くつもりはなかったから断っちゃった」

「じゃあ大丈夫だな。ほら、さっさと行かないと花火始まるぞ」


 そう言うとお兄ちゃんは私に背を向けて階段を下りて行ってしまう。この人は本気で私と一緒に花火大会に行こうとしている。あんなことを打ち明けた後だというのに。


 本当にどういうつもりなのか分からない。私は必死で一緒に行けない理由を探す。


「お兄ちゃんだって、友達と行くって言ってたじゃん」

「俺は遅れるって連絡してるから大丈夫だ」

「だからってこれ以上遅れて良いわけじゃないでしょ!」

「別にちょっとくらい大丈夫だって。ごちゃごちゃ文句言ってないでさっさと行くぞ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」


 私の制止はお兄ちゃんの耳には届かず、階段を下りていったお兄ちゃんの姿は見えなくなってしまう。


 やがて階段を下りる足音も途切れて、玄関の方で靴を履いている音が聞こえ始める。


 私はどうすれば良いか分からず、私しかいない廊下で視線を右往左往させていた。


「何してるんだ? 早く降りてこーい」


 下の方から呑気な間延びした声が聞こえてくる。


 頭では分かっている。今取るべき選択肢はただ一つ。この場から動かなければ良いだけ。


 あの人の意味不明なペースに巻き込まれたままでいる必要はない。もしついて行ってしまえば、あれだけ固めていたはずの決意が揺らいでしまい、今までのことが有耶無耶にされてしまう。


 それだけは避けなければいけない。何のためにあんな電話までしたのか。今日けりをつけなければ、私は変われない気がする。


 頭では分かっている。


 私は何かから逃げるように、ギュッと目を瞑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ