弟の証言
玲が電話で話していた内容は、基本的には「小さい子の田舎の夏休み」というイメージそのままの光景だった。
曰く、数日前に従姉妹や伯父と一緒に、山奥の渓流へ釣りに連れて行ってもらったこと。
曰く、釣果としては大した物では無かったが、その場で魚を焼いて食べるのは楽しかったこと。
曰く、向かうのは車だったから簡単だったけれど、帰りにはへとへとになっていたこと。
曰く、当日に魚を捕まえるタモを忘れたけれど、近くで代用品を探して何とかしたこと。
そして────。
『おさかなさんつっていたらね……』
「はい。何が起きたんですか?」
「あのね、ヤキザカナがつれたの』
「うんうん…………ん?」
『んー?』
「えっと……ヤキザカナが、釣れたのですか?」
『うん、そう!』
一瞬、紫苑は思考をフリーズさせる。
そして本気で、「ヤキザカナって何の魚なんでしょう?」と考えた。
なまじ魚について大して詳しくないがために、そういう名前の魚が居るのではないかと思ってしまい、脳内で漢字表記を探してしまったのである。
だが幸いにして、数秒後に「あっ、『ヤキザカナ』って、『焼き魚』ですね?」と分かったため、その沈黙はすぐに終わった。
そちらなら、いくら魚の種類に詳しくない紫苑でも十分に知っている、というか食べている。
意味を理解すると同時に、紫苑は確認も兼ねて、やんわりと玲の言葉を訂正した。
「玲君。『焼き魚を釣った』では無いですね、それ?お魚を釣って、それを後で焼き魚にして食べたのでしょう?」
こういう幼児の言い間違いというのは、大人では思いつけないセンスに満ちていて、中々楽しい。
紫苑も「焼き魚を釣る」という言葉から、反射的に魚の切り身が川を泳いでいる姿を連想してしまい、その場でフフッとなった。
それは中々、シュールな光景だ。
しかしまあ、現実にはそんなことは有り得ない。
十中八九、時系列を無視した玲の言い間違いだろう。
そう考えて、紫苑は答えを待った。
しかし、紫苑の予想に反して。
戻ってきた言葉は、否定だった。
『ちがうよ、しおんお姉ちゃん。ホントに、ヤキザカナをつったの!つりざおを上げたらね、コゲコゲのおさかなさんがいたんだ』
「……ええっ?」
『……しおんお姉ちゃん、しんじてくれないの?』
ぶう、とそこでむくれたように玲が拗ねた声を出す。
自然、慌てて紫苑は「ごめんねっ、嫌だった?ごめんね?」と言って引き留める形になった。
いくら何でも、十歳年下の相手を拗ねさせて電話を切らせたくはない。
──でも、「コゲコゲのおさかな」って、焦げた魚のことですよね……釣り竿の先に、焦げた状態の魚がくっついていた、ということでしょうか?
再確認がてら、自分で漢字を適当に当て嵌めながらも、紫苑はその光景の不思議さに首を捻った。
先程の脳内の妄想を、紫苑は自分でシュールな妄想の一言で片づけた。
しかし、今の話を聞く限りでは、玲はそのシュールな光景を実際に見た、と言う。
だとすれば、それは最早シュール云々ではなく、純粋に謎だ。
自然、紫苑は聞き返すことにした。
「その……玲君」
『なにー?』
「ええっと、ですね。お姉ちゃん、決して信じていない訳じゃないんです。ただ、ちょっと良く分からなくて」
『そうなの?』
「はい。だからその、『コゲコゲのおさかな』のこと、もうちょっと詳しく話してくれますか?」
キッチンの様子を伺う限り、コーヒーはまだ出来そうにない。
時間はまだある、ということだ。
ならば、幼児のあやふやな話と言えど、紫苑としてもこの不思議さを解消しておきたかった。
『えー、でもー……そのままだよ?つりざお入れてー、はりになにかくっついて、おじさんがさおを上げてくれてー。おじさん、つりとくいなの』
「普通に、魚を釣ったんですね?」
『うん。いっぱいあばれたから、あみでつかまえるのたいへんだったって、おじさんがいってた』
──一杯暴れた……死んでたって訳じゃないんですね。
つまり焦げた魚と言っても、本当に焼き魚の切り身が川の中を転がっていた訳ではない。
普通に生きている魚の表面、鱗などが何故か焦げていた、ということなのか。
少なくとも、自ら針の先の餌に食いつき、引っ掛かった後も抵抗する程度には生き生きとした魚だったということになるだろう。
「そして、引き揚げたら焦げていた?」
『うん。おなかのまんなかがね、まっくろですなみたいだった。それで、だれかがヤキザカナにしたのかなって』
「真っ黒で砂みたい……そんな、焦げ炭になるような状態の魚が、泳いでいた?」
そんなことを有り得るのだろうか、と感じた紫苑は、思わず顎に手を添える。
先程信じていない訳じゃないと言ったばかりだが、こうして詳細を聞くと、尚の事信じにくくなってしまった。
何がどうすれば、そんな状態の魚が川の中を泳いでいるというのか。
今一つしっくりくる答えが思い浮かばず、紫苑はうーん、とその場で首を傾げる。
話をそのまま受け取れば、何者かがその魚を焼いた後、川の中に戻した、ということになってしまうのだが────それでは流石に意味不明というか、話が繋がらない。
普通、魚は焦げる程燃やせば死ぬものだし、死んだ魚というのは捨てるなり食べるなりするものだ。
どういう理由があれば、一度焼いた魚を川に戻すのか。
キャッチ&リリースにしても、常識的にはそのままの状態のまま放流するはずだろう。
──そうなると……実は何か、魚の病気にそう見えるような物があるのでしょうか……もしくは、元々そういう柄の魚が居る、とか?
最終的に、紫苑はそう考える。
人為的にそんなことを行った人物が居ると考えるよりも、全て人の関わっていないことだと考える方が、余程納得がいったのだ。
尤も、それだって確証は無いのだが。
「……因みにその魚、どうしたんですか、玲君?食べたのですか?」
『ううん。ふしぎだからずっとみていたら……また、さかながピョンってはねちゃって』
「もしかして、逃げちゃったんですか?」
『そう……だからおばさんには、なにかのミマチガイだろうって』
「見間違い、ですか」
『うん……』
そう言ってから、玲は何か不満を感じるようにしてぶう、と音を立てた。
もしかすると、今の彼は受話器を抱えながら、両方の頬を膨らませているのかもしれない。
自分の見た光景が、親戚にすら信じられなかったことに、幼いながらに悔しい思いをしているのか。
『それで、お姉ちゃんにでんわしようっておもって。だってお姉ちゃん、アタマイイ、でしょ?』
「それで、その焦げた魚の正体がどんなものか、教えてもらいたかったんですね?」
『うん、そう。お姉ちゃん、なんでもしってるもん』
──いや、流石に夏美さんでも、実物を見てもいないのにそれを解くのは無理では……。
内心、紫苑はそんなことを思う。
玲には悪いが、その魚の写真でもあるのならともかく、魚が川に逃げてしまった現在、真相を確かめるということはまず出来ない。
夏美にこの話を聞かせても、「そういう話があったら面白いな」とでも返されるのが関の山だろう。
だがそれでも、玲がそんな期待を夏美にするのも分かる気はした。
彼くらいに小さな子から見れば、十歳年上の姉というのはきっと、酷く大人に見えているのだろう。
特に夏美は何かと事件に関わり、解決してきた実績があるので──そして紫苑が巻き込まれて酷い目にあってきたので──玲の視点では、何でも解決してくれるヒーローのように見えているのかもしれない。
──そのヒーローさんは、今丁度、コーヒーを上手い具合に抽出していますけどね……。
チラリ、と横目で紫苑はキッチンで相も変わらずコーヒーと格闘している夏美の姿を認める。
雰囲気からすると、そろそろ完成に近いようだ。
何にせよ完成が近いのなら、玲との会話もそろそろ終わりにしなければならない。
そう考えた瞬間、まるでこちらの状況を読んだように玲が口を開く。
『ヤキザカナの件は、そんなかんじー……えっともし、もしね、シンソウ?がわかったら、またでんわしてね、しおんお姉ちゃん!』
「あ、はい。そうしますね」
『じゃ、またねー』
ある程度言いたいことは話せたのか、意外とスッキリした様子で玲は電話を切る。
次の会話に期待しているようなその口ぶりからすると、これ以上会話をしていても特に進展はないだろうということを、幼児ながら察したのだろうか。
もしくは単純に、こちらが電話を終わらせようとしていたことに勘づいたのかもしれない。
こう言うところ、前々から彼は年に似合わず聡明だった。
──でも、こう言うところで小さな子に気を遣わせたら駄目ですよね……反省です、私。
電話が切れてから、一応年上として紫苑はそんな反省をする。
同時に、次に話す機会があったら思う存分に話を聞いてあげよう、と思った。
お話し好きな子の相手くらいは、年上の仕事の一つだろう。
そんなことを考えている内に、隣で夏美は、「よし、完成だ!」と告げたのだった。
……そこから起きたことは、ごく普通の日常となる。
彼女たちは入学式帰りの学生らしく、普通に部屋で駄弁り、漫画を読み、適当に噂話をした。
同じ中学校の出身者がどのクラスに居るだとか、最初の定期テストが早すぎるだとか、三組の先生はアタリだけど五組の先生はハズレだとか。
そんな、如何にもな会話をダラダラと続ける。
こういう会話を普通にするあたりは、如何に突飛な行動が多い夏美と言えども一般人と変わらなかった。
元々、不思議な謎さえ絡まなければ、彼女はそこまで非常識な人物でも無い。
紫苑もまたごく日常的な会話に興じて────特に電話の内容に触れることも無く、その日は終わった。
故に、ここで時間は少々飛んで。
話の舞台は、あくる日の放課後。
オリエンテーションばかりの授業をこなした彼女たちが、再びバッタリ出会ったところにまで移る。
「あ」
「おう」
最初が紫苑、二言目が夏美だ。
全ての授業終了を知らせるチャイムの残響が消えぬ中、教室からするりと飛び出た二人は、廊下で真正面からかち合った。
互いに特にクラスメイトとは約束が無かったので、すぐに教室を去ったのだが、それが思わぬ効果を生んでいる。
それを認識して、まず紫苑は僅かに表情を引きつらせた。
昨日、普通に家に遊びに行ったことから分かるように、紫苑と夏美は平時では普通に仲が良い。
しかし、じゃあ夏美がしばしばやる危険なことに巻き込まれたいか、と言われればそうでも無いのが本音なので、こういう反応にならざるを得ないのだ。
一方、夏美は紫苑のことを認識した瞬間から、はっきりとした笑みを浮かべる。
そして蛇を思わせる動きでしなやかに体をくねらせると、気配も無く紫苑と肩を組んできた。
何かしら、話したいことがあるらしい、と紫苑は瞬時に察する。
夏美の動き自体は手慣れたナンパ男のそれだが、女子高生が女子高生相手にこれをやっているのだから、凄いというか何というか。
ぼんやりとそう考えながら、脱出は不可能と察した紫苑は、仕方なく会話をした。
「紫苑、良いところにいた……この後、予定あるか?」
「……あるって言ったら、諦めるんですか?」
「冠婚葬祭のいずれかならな」
実質的に「余程の重大事項でなければ強制的に連れて行く」と告げた夏美を前に、紫苑はため息を吐く。
即座に「幸せ逃げるぞ」とツッコミを入れた元凶を白い目で睨みながら、紫苑は「……それで」と続きを促した。
「何の用事なんですか?」
「いや、大したことじゃない。昨日の今日だから、ミス研の部室に行ってみないか、という話だ」
「部室に?」
「ああ。入部届はもう出したんだから、本当に入るにせよ入らないにせよ、早いこと部活の様子を確認しておいた方が得だろう?」
経験上、また何を無茶振りされるのかと身構えていた紫苑は、朗々と述べられた意外と現実的かつ有用な提案を前に、目をパチクリと開閉させる。
同時に、確かにその通りですね、と思った。
仮入部期間は一ヶ月あるため、白雪の言葉もあって行くのはいつでも良いと思っていたが、夏美の言う通りさっさと済ませた方が互いのためではある。
「でも、部室の場所ってどこでしたっけ?」
「それは昨日、私が部長から聞いている。新校舎の二階奥だとさ。紫苑は聞いてなかったかもしれないが……」
行くときに困るんじゃないかと思って、お前を探していたんだ、と夏美は珍しく気の利くことを述べる。
これは普通に感謝すべきことでもあったので、紫苑は「ありがとうございます」とその場で頭を下げた。
「じゃあ、えっと、一緒に行きますか?」
「ああ、私も入部届は出しているしな……まあ、様子を見るくらいはしよう」
最後まで言い終わらない内に、夏美はするりと紫苑の肩に回していた腕を解き、やおら先導するように前進する。
どうやら、案内がてら連れて行ってくれるらしい。
それを察した紫苑は、慌てて彼女の背を追うように早足で廊下を進んだ。
尤も、煌陵高校自体はそう大して広い学校でも無い。
素早く彼女たち二人は指定されていた新校舎の二階奥に辿り着き、揃って部室の看板を見るべく顔を上げることになる。
それ自体は、入部先の部屋を探す一年生としては、当然の振る舞いだろう。
だが、ここからはやや異なってくる。
その原因を前にして、紫苑と夏美は同時に不思議そうな声を出した。
「「……茶道室?」」
意図せずハモッてしまい、二人して顔を見合わせる。
その上で、再び視線を上に戻した。
間違いない。
ミス研の部室として教えられた教室には、堂々と「茶道室」という表記がある。
どこからどう見たって、眼前にあるのは茶道を営むための空間だった。
自分たちは、ミス研の部室の位置を教えてもらったはずなのだが。
それがどうして、茶道室に繋がるのか。
まさか、指示が間違っていたのか。
紫苑がそんな疑念すら抱いた瞬間に、如何にも和風な襖の向こうから、ガタリと音が鳴る。
続けて、どなたですか、という白雪の声が響いてきた。