煙の器(10 years ago)
「じゃあ、早速現場検証を頼もうか。犯人の動きが追えていない今、君たちの証言は大きな鍵となるようだからな」
やや久しぶりに顔を合わせた巌刑事は、最初にそんなことを言った。
決してプレッシャーをかけたい訳ではなく、本心らしい。
それを察した紫苑は、まず質問をした。
「ニュースでも逮捕なんて一言も言ってなかったので察してましたけど、やっぱり犯人、まだ捕まっていないんですね……山狩り、成果は出ませんでしたか?」
「お恥ずかしながら、その通りだな。昨日からこっち、警察も必死に捜索しているが……姿は愚か、足跡の一つも見つからん」
屋敷の焼け跡の方へと進む途中、巌刑事はそう愚痴を零す。
一度その言葉に頷いてから、すぐに紫苑はあれ、となった。
「そんなに、犯人の痕跡って無かったんですか?私、犯人と戦った時にその人が歩いた道を探して追いついたんですけど……」
今でも、はっきりと覚えている。
周囲の山林が丁寧に管理されていなかったことが幸いして、犯人が通った道はまるで獣道のようにくっきりと浮かび上がっていた。
あの様子なら、山中に逃げ去ったらしい犯人の足取りもすぐに分かる気がするのだが、それでも足取りがつかめないのか。
「いや、勿論幸三氏が亡くなった場所付近には痕跡が残っていたよ。だが、その後が問題だったんだ……この屋敷の火事、山火事一歩手前まで行ったことは言ったか?」
「はい、聞きました」
「当然、飛び火によって山の木の一部も焼けてしまったんだが……犯人の足跡は、その焼け地に向かっていたんだよ。そして当然、その場所は消火活動によって多くの人間が踏み入っている」
「ああ、なるほど……それで、ぐちゃぐちゃになっちゃったんですね?犯人の足跡が、他の人の足跡で上書きされてしまった」
捜査については素人である紫苑ですら、山道の踏み跡ははっきりと見て分かるレベルだった。
だがそれは、犯人以外にそこを歩いた人物が居なかったからである。
消火活動で人が多数出入りし、なおかつ火事のせいで地面に蔓延る草たちも燃えてしまったとあっては、とても追跡出来なかったのであろう。
「そうなると……紫苑の目の前から消えた犯人は、逃げる過程でわざわざ火事の真っ最中である森の方に向かった、ということですか?」
「だろうな。恐らく狙いは、今言ったように自分の痕跡を消すためだろう。犯人はレインコートのような燃えにくい服装だったというし、上手くやれば通り抜けることも不可能では無い……もしかしたら自分の服などは、そこで脱いで燃やしたのかもしれないな」
「一度燃やしてしまえば、多少燃え残っても元から東館に置いてあった物と見分けがつかないっスから」
補足するようにして、茶木刑事がそんなことを言う。
それと同時に、彼らの足音が止まった。
屋敷の焼け跡に辿り着いたからである。
「それじゃあ、辛いかもしれないが少し現場検証に付き合って欲しい……昨日言った、当時のやりとりも含めて、動きを追わせて欲しいんだ」
「分かりました、じゃあ、私は西館の様子から……」
「私は、実際に戦った東館の様子ですね……と言っても、殆ど燃えちゃっていますけど」
そう言って、紫苑と夏美は一旦別れる。
そして以前の事情聴取よろしく、めいめいで警察に協力することとなった。
「……そう言えば、一つ聞きたかったんですけど」
夏美がそんなことを言ったのは、粗方の現場検証が終わった時のこと。
特に新発見もなく、本当にただただ振り返りをするだけだった時間を終え、一旦夏美と紫苑、そして巌刑事と茶木刑事が煤だらけのメインホールに戻った時の発言だった。
捜査員が忙しく周囲をバタバタと動き回る中、彼女は刑事たちに問いかけたのである。
「何だい?」
「いえ、さっき聞いた話……焼け跡で足跡が途切れているから、犯人をそれ以上追えなかったという話につてでです。よく考えたら、それはおかしいんじゃないか、と思って」
真剣な顔で考え込みながら、夏美は何故か首の後ろをバリボリと掻く。
彼女なりのルーティンなのだろうか。
「普通に考えれば、ですけど……消防や捜査員というのは、その焼け跡には一方向から立ち入りますよね?」
「まあ、そうだな。そもそも屋敷に至る道が一つしかないのだから、その方向……屋敷側か駆け付けたはずだ」
「そして逆に、犯人はどこに逃げたにせよ、屋敷とは反対側に逃げたはずですよね?屋敷側に逃げたって、待ち構えた人間に捕まるだけですし……」
そこまで言われて、横で話を聞いていた紫苑もそうなりますね、と思う。
何となく、夏美の言いたいことが分かってきた。
詰まるところ、消火のために駆け付けた人間は屋敷側からしか踏み入らず、逆に犯人は屋敷とは反対方向に逃げたはずなのである。
つまり、焼け跡で足跡や痕跡が途切れたにせよ、そこから屋敷とは反対側に伸びる足跡のような物があれば、それはすなわち犯人の足跡なのだ。
まさか、消防士が山奥から歩み寄るはずも無いのだから。
「だから、犯人の足取りが一時途切れることはあっても、追うこと自体本来可能なんじゃないか、と思うんですが……その辺り、どうなんです?」
「ああ、そこか……」
その質問を予想していた、という風に巌刑事が渋い顔をする。
顔の雰囲気からするに、答えを持たないというよりは、答えを知っているがその解釈を巌刑事本人も掴めていない、というような状況らしい。
だからなのか、彼は捜査情報だろうにその謎も紫苑たちに教えてくれた。
「松原君の言いたいことは分かる。だが、これは捜査上における大きな謎なんだが……そういう足跡は、無かったんだ」
「無かった?」
「ああ。焼け跡の近くで確認された人の踏み入った痕跡というのは、幸三氏が死んだ場所から繋がる一本道と、雲雀大吾が逃げ回って作った道、そして屋敷側から繋がるぐちゃぐちゃになった道──消防の人間が歩いた場所──だけだった。要は、焼け跡から山奥へと延びる足跡などは一切存在しなかったんだ」
──……え?
一度では意味を理解出来ず、紫苑は固まってしまう。
だって、それでは意味が通じない。
幸三氏殺害現場から繋がっている道があるのは良い。
犯人はそこを通って火事の現場にまで来たのだろうから、寧ろ無いとおかしい。
また、大吾が走り回った道があるのも当たり前のことだ。
彼は適当に屋敷近くを逃げていたのだろうから、いくらでもそんな道はあるだろう。
もっと言えば、彼は最終的にそこで消防や警察に保護されたのだから、彼に限っては逃げ道は無くても問題が無い。
しかし、犯人の逃げ道は違う。
犯人が一度はその火災現場に来ていただろうに、そこから出た痕跡が無いというのなら、それは────。
「え……もしかして犯人、そこで焼け死んだんですか!?それで出て行った足跡が無いとか?」
「いや、それなら犯人の焼死体が焼け跡から見つかったはずっスよ。流石にそんなものは見つかっていないっス」
思わずそんなことを叫んだ紫苑を前に、茶木刑事が冷静なツッコミを入れる。
そう言えばそうですね、と紫苑は頭を落ち着かせる。
混乱のあまり、有り得ない予測をしてしまった。
「勿論、これだけでは謎とは言えないがな。もしかすると普通に山奥へと逃げたのに、草が少ないようなところを走ったから痕跡が見つかっていないだけかもしれないし、或いは単に屋敷側から逃げる手段でもあったのかもしれない。だが……」
「どちらも難しい行為で、ちょっと現実味が無いですね」
巌刑事が口にした妥協案を、夏美がバッサリと否定する。
口には出さなかったが、紫苑も同じ気持ちだった。
散々言っているように、あの山林は碌に手入れされておらず、ちょっと歩けば確実に獣道風の痕跡が残る。
体が植物を押しのけてしまうので、自動的にそうなるのだ。
必死に逃げたはずの犯人が丁寧に痕跡を潰していったとも考えにくいので、偶々逃げ道が見つかっていないというのは想像しづらかった。
また、屋敷側から逃げたというのは論外である。
何せその時屋敷そのものはごうごうと燃えている上、屋敷を出た先にある庭には白雪たちが居たのだ。
警察だって、そろそろ駆け付けようとしていた頃だろう。
あの状況で、山奥に立ち入らずに屋敷側から逃げたというのは、正直不可能に思える。
仮にそれが可能だったというのなら、どれだけ白雪や夏美の目は節穴だったのか、という話だ。
明かりが全く無かったならともかく、火事によって周囲は明るかったのだから。
「そう考えると、ますます不思議な話ですね、これ。逃げ道が一切無いなんて……本当に、煙のように現場から消えてしまったのでしょうか、犯人」
「……以前言ったように、雲雀大吾が犯人ならその辺りの謎は氷解するがな」
紫苑が首を捻ったところで、夏美はボソリとそう呟く。
捜査現場でするにしては随分と過激な発言ではあったが、以前の捜査会議の様子をここに居る全員が知っていたこともあってか、すぐに茶木刑事が同意を示した。
「確かに彼がレインコートの男の正体だったなら、足跡がないことには何の不思議もないっスね。普通に焼け跡まで行って服とかを全部炎の中に放り込んで、その上で消防士に保護してもらえば良いんですから」
屋敷側から犯人が逃げられないというのは、あくまで犯人が部外者だった時の話。
彼が犯人だった場合は、普通に屋敷側から逃げて消防や警察に保護してもらう、という抜け道がある。
命からがら逃げた風を装い、警察に「今、殺人犯が山の中にいます!必死に逃げてきたんです!」とでも言えば、誰も疑わないだろう。
話によれば、彼は火災現場近くに佇んでいたところを保護されたのだから。
「でも、そうなるとやっぱり私の見た光景と矛盾しちゃいますよね。幸三さんが亡くなった時、私の背後に彼は居て……彼が犯人だと、分身でも出来ない限りはあの光景にはなりえません」
「そうっスね……詰まるところ、これはどう考えても矛盾するんスよ。雲雀大吾が犯人だと考えると、幸三氏殺害が不可能。でも雲雀大吾が犯人じゃないとすれば、別人であるレインコートの男は焼け跡から煙のように消えたことになる」
「あちらが立てばこちらが立たず、ですか……」
「ええ。本当に、空でも飛んで逃げたんじゃないかって気がしちゃいますよ、俺たちも……何なら、幽霊やお化けみたいにドロンと消えた、とか言う方が納得いくかもしれないっス」
分かりやすく事件をまとめ直し、その上でぼやく茶木刑事の前に、紫苑はまた頭を捻る。
実際に犯人と剣戟すら繰り広げた紫苑としては、実に不思議な感覚を抱く状況だった。
あんなにも、はっきりと戦った感覚を覚えているのに。
ナイフを避けた感覚も、摸造刀で相手の体を吹き飛ばした記憶も、はっきりと残っているのに。
二人の人間を殺し、紫苑にも魔の手を伸ばそうとした犯人像をしっかりと確かめているというのに。
その犯人の足取りが、警察ですら分かっていない。
煙のように消えてしまって、何ら確かな証拠を掴めていない。
──何だか、私の記憶の方が怪しくなってきますね、ここまで来ると……私、幽霊と戦ったんでしょうか?
終いには、紫苑はそんなことを考える。
無論、ただの煮詰まった思考を解きほぐすための冗談だが、中々否定しきれない重みもあった。
煙の如く空を飛んで逃げるなど、幽霊くらいしか出来ないのだから────。
「……馬鹿馬鹿しい。紫苑がはっきりと戦ったと記憶している相手が、この世から忽然と消え去るはずも無い。ならば考えなくてはならないことは、少なくとも幽霊探索ではない」
しかし、そこで茶木刑事のぼやきすら夏美はバッサリと切った。
その語調の強さに、三人が思わずのけ反ると、そのまま夏美は目を閉じて言葉を続ける。
「仮に犯人が姿を消したとしても、相手が人である以上、その煙は何らかの場所に絶対に落ち着いたはずだ。煙と化した犯人を収容する、器がな……ならば私たちは、その『煙の器』を探さなければならない」
「……その器の正体が分かれば、事件解決となるんですか?」
「多分な」
そう言いながら、彼女はフウッ、と強く息を吐く。
よく分からないが、彼女なりにスイッチが入ったらしい。
犯人の足取りが消えているという謎を前にして────探偵として燃えてきた、ということか。
──こう言うところ、夏美さんって根っからの探偵ですよね……昔から思いますけど。
それでもこれだけ意欲を燃やしているのは久しぶりに見ますね、と紫苑は何となく夏美を見つめてしまう。
仮にその切っ掛けの一つが、自分が事件解決を頼んだからだとしたら……ちょっと嬉しいかもしれない、と思いつつ。
「……ところで、犯人の逃走経路以外にもう一つ聞きたいことがあるんですが、良いですか、巌刑事?」
「ああ、構わない。言ってごらん」
やる気を燃やした夏美は、不意にそこで新たな問いを発する。
これまた予想していたのか、巌刑事は鷹揚に頷いた。
この刑事も、松原夏美という存在に慣れてきているらしい。
「紫苑の話を聞く限り、幸三氏は殺される直前まで意識がほぼ無かったとのことでしたよね?少なくとも、犯人に連れまわされても意識が戻らない程度には」
「ああ、そうだろうな。恐らく、犯人に薬か何かを嗅がされていたんだろうと踏んでいるんだが」
「間違いなくそうでしょうね。その上で聞きたいのですが……」
少し貯めて、夏美はこう問いかけた。
「既に司法解剖が終わっているなら、教えてください……もしかすると幸三氏の体からは、花木甚弥の死体から検出されたそれと、全く同じ睡眠薬が見つかっているんじゃないですか?」