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攻防

「っ、地震……!?」


 後から思えば間抜けな話だが、紫苑は反射的にそう叫んでしまった。

 本当に、今この瞬間に地震が発生したかと思ったのである。

 そう錯覚してしまう程度には、強い揺れだった。


 だが勿論、そんな偶然は起こっていない。

 この時の紫苑を襲ったのは、もっと必然的な事象。

 彼女が犯人と戦っている間も燃え続けていた、東館一階が引き起こした物だった。


 元々、この屋敷は古風に作られていて、強度という観点で言えばやや心もとない構造をしている。

 また葵が指摘していた通り、安全上配置されていたはずのスプリンクラーなどもどういう訳か機能していない。

 そんな状況では、火が瞬く間に燃え広がるのは当然であり────東館一階の天井、東館二階からすれば床にあたる部位が延焼して()()することもまた、当然だった。


 ゴウン、という何かが外れ落ちたような音。

 それと同時に、生身ではどうしようもない振動が紫苑と犯人、そして床に横たわっている幸三氏の体を襲った。


 手始めにその場に居る全員が、煤の臭いがきつくなったのを自覚する。

 今までは火事の影響は二階では殆ど無かったのだが、それを取り返すようにして一気に空間が焦げ臭くなった。

 本当に、炎の中に取り残されたかのように。


 次に、紫苑の足の裏の感触がフッと消滅した。

 一応絨毯には接しているのだが、床を踏みしめている時に感じる確かな触感が無くなってしまう。


 代わりに発生するのは、自分の体がどこかに放り出されるような感覚。

 さらに、彼女の視界自体がズン、と上にスライド移動した。


 エレベーターに乗って下に向かった時のように、二階の光景がじりじりと紫苑を置いていく。

 東館二階が上昇しているのではなく、紫苑の方が一階に墜落しようとしているのだと理解するのには、少しかかった。


「え……うわあ!」


 先程までは犯人に居場所を知らせないこともあって声を控えていたのだが、この時ばかりは大声を出す。

 絨毯を踏みしめながら自由落下するという奇妙な体験を前にしては、そうせざるを得なかった。


 だが、そうやって意識が呆然としている間も、幸いなことに無意識は働いてくれる。

 反射的に、腕が動いた。


 訳も分からぬまま、紫苑はある種の勘で上へと飛び立とうとする二階の床に摸造刀を突き刺す。

 刀を芯棒にして、そこに垂れ下がることで墜落を阻止したのだ。


 反動でビーン、と刀がしなり、紫苑の体そのものにも少なくない衝撃が走ったが、そこは気合で我慢する。

 程なくして、崩落の衝撃で引きちぎれた絨毯が、紫苑の後方から一階へと落下していったのが分かった。


 ──な、何で突然床が……?いえ、もしかして、私がここに来た時には、もう……?


 ロッククライミングでもしているかのような姿勢になりつつ、一気に増えた煙に喉をやられながらも、紫苑は思わずそんなことを考える。

 もしかすると、この辺りの床は火災が始まった時からボロボロだったのでしょうか、と。


 火事のせいで最初から罅が入るなり、落とし穴が出来るなりしていたのだが、絨毯がみっちり床を覆っていたために見えていなかった、ということか。

 しかし、火災が続いたのと今しがたの戦闘の余波で、紫苑の立っていた場所から遂に崩落してしまったのだろう。


「でも、それなら下の様子は……」


 ふと気になって、紫苑は見ないようにしていた下の様子を見る。

 そして────ぞっとした。

 比喩でもなんでもなく、全身の毛が逆立つ。


 絨毯に空いた穴越しに見える東館一階の様子は、まさしく火の海だった。

 ついさっき、禄郎の部屋を見に行った時も相当な様子だったが、今では明らかにその域を超えている。


 壁も絵画も彫刻も扉も、ありとあらゆるものが燃えていた。

 先に墜落したはずの絨毯の破片など、最早どこに落ちたのかすら分からない。

 仮に見つかっても、一瞬で消し炭になっていることだろう。


「もう、こんなレベルに……不味い、うかうかしていると逃げられなくなる……!」


 無意識に、そんなことを呆然と呟く。

 だがその瞬間、紫苑は自分が致命的な過ちを犯してしまったことに気が付いた。


 ──そうだ、犯人!……どこに!?


 自分が床の崩落に巻き込まれた結果、痛みのあまり動けなくなっていたはずの犯人のことは放りっぱなしになってしまっている。

 流石にこれは不味い、と思って紫苑は二階に視線を戻した。

 そして同時に、「あっ……」と声を漏らす。


 なまじ、落とし穴のせいで燃え盛る一階と空間が繋がったのが幸いしていた。

 猛る炎が、どんな光源よりも明るくこの場を照らしてくれる。


 だからこそ、紫苑はすぐに見つけることが出来た。

 うずくまっていたはずの犯人が立ち上がり────床に投げ出されたままの幸三氏を、再び抱きかかえる様子を。


「な、まっ……待ちなさい!」


 必死になってそう叫ぶが、勿論犯人がそんな要求を聞くはずも無い。

 あっという間に最初に状態と同じく、ナイフと幸三氏の両方を握り締めた犯人は、そのままいずこかへと立ち去ろうとする。

 紫苑から離れるように、もしくは逃げるように。


「くっ……早く!」


 追わなければ、という意識はすぐに脳を支配した。

 焦った紫苑は、すぐさま行動を起こす。


 まず自分の腕力の全てを使って、何とか片方の手で落とし穴の縁、まだ崩落していない床の端っこを掴んだ。

 このことで、とりあえず刀だけを支えにぶら下がっている、という状況は脱する。


 一度こうなってしまえば、後は楽だ。

 片手が刀、もう片方の手は床を掴み、そのまま紫苑は自分の足を振り子のように振り回してブン、と跳ね上げた。


 万が一失敗して滑り落ちれば、そのまま火災現場にダイブしてしまうかもしれない危険な賭け。

 だが幸運なことに、一度の挑戦でつま先が床に引っ掛かった。


 ──よし、これで……!


 三点もの支えがあれば、いくら紫苑の筋力がそこまででは無かったとしても何とかなる。

 数秒して、紫苑はゴロゴロと転がるようにして二階に復帰し、床の崩落で出来た大穴から這い上がった。

 突き刺さったままの刀も一瞬で引き抜き、辛うじて復帰する。


「犯人は……確か、あっちの方!」


 立ち上がった瞬間に、紫苑は犯人が立ち去った方向を口に出して確認する。

 刀にぶら下がりながら見た記憶によれば、犯人はメインホールに繋がる階段に向かったと見て間違いない。

 尤も、逆方向に逃げれば火災現場にしか向かえないので、当然ではあるのだが。


「私を無視したことからして、目的はやっぱり幸三さんだけ……急がないと!」


 刀を鞘にも納めず、ただ握り締める。

 それから、煤だらけの頬も気にせずに紫苑は走り出した。


 再び床の崩落に巻き込まれてはかなわないので、出来るだけ床に負担を与えないようにして軽い足取りで。

 しかししっかりと、前進だけは出来るようにして跳ねまわる。

 そうやって二階を駆け抜けると、すぐにメインホール一階へと繋がる階段まで辿り着いた。


 ──犯人としても、幸三さんを抱えたまま二階の窓から飛び降りるのは難しいはず……つまり、この階段で下に降りたのは間違いない、ですよね?


 自分で自分に問いかけながら、一瞬の判断で足を踏み込む。

 二段飛ばしどころか三段飛ばしくらいの勢いで降りていき、やがて紫苑はメインホールに戻ってきた。

 幸い、東館一階の惨状に比して、この空間は大して変わっていない。


 ──やっぱり、ここは燃えてない……犯人の目的は、やはり東館だけを燃やすことだった、ということでしょうか?


 何故そんなことを、と少しだけ疑問に思いながら、紫苑は犯人の姿を探索。

 ここも火災の炎のお陰で煌々と照らされているので、人探しは簡単だった。


 すぐに、メインホールに佇む人影を紫苑の目が捉える。

 どことなく、見覚えのあるシルエットだった。


 ──……犯人!?


 一瞬、犯人のそれかと思った紫苑は摸造刀を相手に向ける。

 だが、すぐに違うことに気が付いた。


 よくよく見てみれば、見覚えがあると言っても、犯人のそれとが違うシルエットである。

 この人物は、確か────。


「雲雀、大吾さん……?」

「あ、ああ、君は……さっきの……」


 驚きながら呼びかけると、向こうもこちらに気が付いたように目を見張る。

 どうやら、雲雀禄郎の部屋からこちらに移動していたらしい。

 しかし、どうしてこの場に留まっているのか。


「無事でしたか?……いやその前に、雲雀禄郎さんは……」

「ああ、アイツは……駄目だった。もう、冷たくなっていて……遺体を運ぼうかと思ったんだが、火が迫ってきて断念したんだ」


 そう言いながら、大吾は辛そうに首を振る。

 言われて見てみれば、彼の服は禄郎のそれと思しき血がいくらか付着していた。

 抱きかかえて運ぼうとしたものの、諦めた痕跡ということか。


 そうやって軽く事情を説明してから、大吾は自分が紫苑に何を頼んだのか思い出したのか、急に慌てたような顔をする。

 そして、慌てて問いかけてきた。


「そ、それより聞いてくれ!さっき、父が変な人物に抱きかかえられているのを見たんだ……君、何か知らないか!?」

「変な人に……!その人、どこに行きましたか!?」

「え、あ、あっちの方に……」


 言いながら、大吾はメインホールの奥、庭や正門玄関とは反対方向に繋がる方向を指さした。

 丁度、先程のパーティーが開かれた場所から、さらに奥に向かった場所である。

 どうやらあちらに犯人は逃げたらしい、と紫苑は行くべき方向を見据えた。


「すいません、あの方向って、何がありますか!?」

「え、何って……屋敷の裏手なら、普通に森があるだけだ。この辺りの民家はここだけだからな。庭にすらなっていないから、山そのものだよ」


 ──つまり、犯人は幸三さんを抱えて山に逃げ込んだ……夜闇に紛れて、逃げるつもりでしょうか?


 夏美や葵、白雪が避難しているはずの庭の方向に犯人が行かなかったことに安堵しながら、紫苑はそう確認する。

 同時に、まだ犯人を追跡しなければならない、と確信した。

 相手の目的は未だ不透明だが、それでも連れ去られた幸三氏の身が危険なのは間違いない。


「雲雀大吾さん!私、犯人のことを追ってきます。恐らくですけど、あの人が貴方の弟さんを襲った張本人ですから!」

「え!?そ、そうなのかい?」

「はい!ですので、貴方は避難を!」


 それだけ言って、紫苑はまた駆け出した。

 後先のことは考えない。

 後ろの方で、大吾が「いや、ちょっと、私も……」と叫んだことも、この時は聞こえていなかった。


 ──急がないと、また人が死ぬ……防がないと!


 胸を走る言葉と言えば、それだけだった。

 一息でメインホールの奥を走り抜け、恐らくは犯人が通ったと思しき開放されたままの窓を発見。

 枠に掠ることも無く飛び越えると、すぐに野生そのものである森が視界に入った。


 ──殆ど手入れされていない、そのままの森……厄介ですね。


 反射的に、舌打ちをしていない。

 手入れされていないこともあって道が無く、随分と歩きにくい。

 枝やら柴やらが行く手を遮り、普通に歩くだけでも大変そうだった。


 要するに、人探しには全く向いていない道のりである。

 前回の仇川での源流探しのように、鎌の一つでも持っていれば歩きやすいのだが、流石に摸造刀にそれを求めるのは酷だろう。


 唯一の助けと言えば、火災のお陰でぼんやりと夜の山全体が照らされており、意外と見通しが良いことだった。

 それだけを頼りに、紫苑は何とか犯人の姿を探そうとして────不意に、手掛かりとなることを気が付いた。


「いやでも、犯人がこんなに手入れされていない森を通ったなら、そこだけ獣道みたいになっているんじゃ……」


 これだけ鬱蒼と茂った森を、幸三氏を抱えたレインコートの男が逃げ去ったのなら、痕跡が残らないはずが無い。

 枝や草などは、踏み荒らされるなり押しのけられるなりしているはずだった。

 そのことに気が付いた紫苑は、即座に目を皿のようにして森の様子を観察した。


 そして、見つける。

 紫苑から見て十時の方向、明らかに枝が並ぶように折れている場所があった。


「あっち……!」


 呟くと同時に駆けだしていた。

 犯人の足音を追うようにして、山を駆ける。

 すると、一分も走らない内に、何かが前方に佇んでいるのを見つけることとなった。


「あれは……」


 適中した予感を胸に、急ブレーキ。

 同時に夜闇に慣れてきた目が、はっきりとその人影が犯人と幸三氏のそれであることを確認した。


 懐中電灯こそ消されていたが、間違いない。

 先程と同様にして、幸三氏を抱えたまま立っている────!


「見つけた……!」


 不意を突かれて見逃した相手を、再び捉えられたという僥倖。

 それを前にして、紫苑の口元が微かに緩む。

 やった、間に合った、と思ったのだ。


 ……しかし、結果論だが。

 その一瞬の喜びは、彼女が犯したミステイクだった。


 いや或いは、紫苑としても誤解していたのかもしれない。

 何故か幸三氏をすぐには殺さず、抱えたまま逃げ回っている犯人の姿を見続けて。

 こんなに必死になって捕えている人間をすぐに殺しはしないだろう、と。


 だが、その予想は外れる。

 紫苑が犯人に追いついた瞬間、犯人はこれ見よがしに右手のナイフを輝かせた。

 而して────そのナイフは、幸三氏の喉を一秒もかからずに切り裂いたのだった。

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