レインコート・キラー
「死体……?」
「あ、ああ。ベッドの上で、血塗れに……」
あわあわと、小刻みに両手を震わせながら大吾は説明をする。
反応が早かったのは、やはりと言うべきか夏美だった。
間髪入れずに立ち上がると、大吾の背中越しに──部屋の入口を彼が塞ぐようにして立っていたので、必然的にそうなったのだ──室内の様子を観察する。
引きずられるように、紫苑も摸造刀を杖代わりに立ち上がった。
而して、二人同時に息を呑む。
──本当だ、あれ、全部血……?
紫苑たちの目に映った部屋の様子は、端的に言えば惨劇の場と化していた。
部屋の中にある物品────葵の私室と同様に配置されている、大きなベッドやテレビ、机に化粧台。
そう言った全ての物に、生々しい血飛沫が飛んでいる。
無論、その源はベッドだ。
部屋の奥に置かれたベッドに雲雀禄郎がうつ伏せに倒れ伏し、白いシーツを赤く染めている。
血を吸った毛布の上に寝そべる彼の肌は白っぽく、血の気が無かった。
パーティー会場で見た通りの鍛えられた体も、心なしか萎んで見える。
背中に傷が無いところを見ると、出血源は胸部か腹部だろうか。
彼の体は生気がなく、ついでに言えばピクリとも動かない。
部屋に入った瞬間、大吾が死体だと判断したのも無理はなかった。
「……いや、だがまだ本当に死んだかは……!」
一方、夏美はそう認識しなかったらしい。
不意にそう口走った彼女は、大吾を押しのけて室内に入ろうとした。
恐らく、生存確認をしようとしたのだろう。
だが、彼女の動きはすぐに止められた。
理由は単純で、部屋の入口に陣取った大吾が制止したからである。
「い、いや、駄目だ……君たちは入るな、子どもが見るような物じゃない……!」
「……でも!」
「良いから!君たちは……ええっと、その、ち、父を助けに行ってくれ!二階はもしかすると、まだ火の手が回っていないかもしれない……!た、頼むから急ぐんだ、もし禄郎をこんなことにした奴が、まだこの屋敷に居るのなら……」
そう喚きながら、大吾は通せんぼでもするようにしてその場を動かなかった。
大人としての責任感か、或いは単純に弟の死体に混乱していたのか。
とにかく、夏美と紫苑に弟を触らせる気は無さそうだった。
チッ、と夏美が小さく舌打ちをする。
恐らく内訳としては、中途半端な道徳心で現場の状況を確認出来ないことへの苛立ちが半分。
もう半分は、大吾の言う理屈に少しだけ納得したが故の衝動だろう。
何せ現状、火事の真っ最中である。
ここに留まって蘇生活動なり死体の観察なりをしていれば、間違いなく焼け死んでしまう。
普段なら、ずかずかとどこへでも入り込む夏美も、流石にそれは承服しかねるようだった。
加えて、現状では────。
──確かに、ここで揉めている場合じゃないです……あの人が本当に死んでいるのなら、もしかすると幸三さんや葵さんだって……。
禄郎がこんな状態になっている以上、何者かに襲われたのはまず間違いない。
いくら何でも、自殺や事故ではこのような状況にはならないだろう。
つまり現在、この屋敷には何者かが侵入して人を襲っている、ということだ。
恐らく、放火もその犯人の仕業だろう。
ならば、庭に出た白雪と葵は勿論、二階で寝たままになっている可能性が高い幸三氏の現状は、極めて危険だった。
もしかすると今、この瞬間にでも犯人に襲われているかもしれない。
そこまで意図しての物ではないだろうが、この場で最も戦闘力が高いであろう紫苑を二階に向かわせるのは、確かに合理的な選択だった。
「……私、幸三さんの方に行きます!どの部屋ですか!?」
揉めていても仕方が無いので、紫苑はその場で高らかに宣言する。
すると夏美も、紫苑の意図を察したようにして「なら、私は部長たちの方に回って警戒を促してくる」と踵を返した。
雲雀禄郎のことは、同じ家族に任せるのが筋だと踏んだのか。
「そ、そうか、助かる……ち、父は東館二階の最奥、一番端の部屋だ!た、頼んだ!」
そんなことを言いながら、大吾はベッド上の弟の元に駆け寄る。
だが彼の言葉を聞き終わる前に、紫苑たちは既に行動を起こしていた。
──普通なら、東館二階に行くなら東館に設置されてある階段を使えば良いんですけど……今はそんなことは出来ません。メインホールから二階に上がるしか……!
目的地をずらした瞬間、紫苑は内心そうぼやいた。
何せ使いたかった階段は、現状炎のど真ん中でメラメラと燃えている。
東館の階段が、メインホール寄りではなく東館の端の方に設置されていたが故に起きた悲劇だった。
つまり、やや遠回りにはなってしまうが、東館二階に向かうには、一度メインホールに戻るしか手が無いのだ。
メインホールの二階からでも、各館の二階に直接向かえるというのは、既に大吾から聞いていた。
結果として、紫苑はまず夏美と行動を共にして、二人でメインホールにまで戻る。
いよいよ火の勢いが強くなったこともあって、どうしてもジリジリとした動きになってしまったが、これについては仕方ない。
何とか本館に設置されている螺旋階段を前にしてから、早口で夏美と現状を確認した。
「まだ、ここは燃えてはいませんね……」
「そうだな……頼んだぞ、紫苑。もし火の手が回っていたら躊躇なく逃げろ。それと、もしかしかたら居るかもしれない犯人にも気を付けることだ」
「分かってます。夏美さんこそ、気を付けてください」
「ああ、勿論」
最後にそう告げると、夏美は躊躇い無くメインホールの玄関から庭の方向へと脱出した。
すぐにでも、雲雀禄郎の身に起きたことや殺人犯に対する警戒をしなくてはならないことを、白雪と葵に伝えるために。
──夏美さん、結構喧嘩が強いし……部長や葵さんのボディーガードという面でも、これで良いでしょう。何とか、逃げるくらいは。
内心そんなことを思いながら、紫苑は低姿勢のままグッと上を見やる。
無論、そこにはまだ火の手が届いていない階段があった。
先程の東館の様子からすると、ここに火が到達するのは当分先だろう。
──つまり、帰り道の心配はそこまでしなくていい……二階くらいなら、最悪飛び降りれば良いんですし。
そう考えてから、紫苑は足先を階段に向ける。
大理石で作られていることもあってか、床の温度は火事の最中にも関わらず、そこまで上がっていなかった。
そのことに感謝しながら、紫苑は殆ど四足歩行のような形で二階にまで駆け上り、東館のエリアにまで足を進める。
「……幸三さーん!火事です、居ませんかー!」
二階に到達した瞬間、紫苑は立ち上がってまずこう叫ぶ。
大吾が言っていた通り、二階にはまだ火は到達していなかった。
無論、下の様子からすると時間経過で東館自体が崩落する危険性もあるので、安全とはとても言えない状況ではあるのだが。
──……返事はない。ならまずは、言われた通りに奥の部屋を……!
しばらく返事を待って、紫苑は瞬時にそう判断を下す。
そして、すぐさまその場から全力疾走を始めようとした。
火事の勢いを考えれば、今は一分一秒が惜しい。
現状では特に息苦しくは無いが、このまま火事が続けばこの空間における酸素が欠乏することも有り得るのだ。
あらゆる角度から考えて、急ぐ必要があった。
故に、紫苑は駆け抜けてきた勢いを殺さず、第一歩を踏みしめる。
だが、まさにその瞬間。
東館二階廊下の奥から、何者かによって懐中電灯で照らされた。
「……っ、誰!?」
反射的に、怒声が喉から飛び出る。
同時に、下を向きがちだった顔を上げることとなった。
仮にこれが幸三氏の振る舞いだったのであれば、すぐに助けに向かわなくてはならない。
だが逆に、それ以外の人物による行動であったのなら……。
そう考えて、紫苑は自分も懐中電灯で廊下の奥を照らしてみる。
その結果、即座に彼女は絶句することになった。
──何ですか、アレ……人?
声を漏らさなかったのは、驚愕故か。
口をパクパクと動かしながら、紫苑は自分の目を疑う。
パッと見る限り、こちらに懐中電灯を向ける「それ」は、人影ではあった。
手も足も二本ずつあって、ちゃんと廊下に立っている。
互いに懐中電灯を照らされているという状況の都合上、光のせいで詳細が良く見えないが、それでも人であることは間違いない。
しかし、それ以上の特徴となると、これが良く分からなかった。
というのもその人影は、黒いレインコートを頭から被っていたのである。
ご丁寧にフードも深く被り、口元もネックウォーマーのようなもので包んでいるので、顔も目元も、体型すら良く分からない。
両手も手袋で覆われていて、地肌が殆ど見えなかった。
そんな人物が火災現場に佇み、なおかつ懐中電灯をこちらに向けているものだから、紫苑は正直に言って思考をフリーズさせてしまう。
現状を敢えて言葉にするならば、幸三氏を助けに来たら不審者に出くわした、という形だった。
こんな時に一体誰なんだ、と一瞬考えて────すぐに、正体は一つしかないことに気が付く。
「……まさか、貴方。雲雀禄郎さんをあんな風にした……」
殺人犯、と言おうとした直後だった。
廊下の奥でポツン、と光っていた懐中電灯の光が唐突に動く。
正確に言えば、紫苑の見つめている人影が腕を振ったのだ。
──光が、一緒に……もしかして、懐中電灯を前腕に括りつけている?
見た限り、さながらトンファーでも握っているかのように、その人物の前腕と懐中電灯が融合していた。
そのせいで、腕を動かす度に光源が動いてしまっているのである。
見た物を反射的に分析をしていると、やがてその人物は奇妙な行動を取った。
簡単に言えば、その人物の背後に置いてあったらしい何かを、突然抱きかかえるようにしてこちらに提示したのである。
その何かの正体を見ようと、紫苑は自分の持っている懐中電灯をそちらに向けた。
そして瞬時に、叫ぶこととなる。
「え……幸三さん!?」
見間違えようがない。
服装こそ寝巻になっていたが、流石に助けに来た対象ということで、暗い中でも顔だけで判別できた。
つい数時間ばかり前にパーティー会場で挨拶をしたあの老紳士が、謎の人影に抱えられているということは。
「何で……いえ、逃げてください、幸三さん!」
混乱しながらも、紫苑はまずそう呼び掛けてみる。
だが、向こうからの反応は一切存在しなかった。
まるで人形のように、ピクリとも動かない。
──眠っている?いえ、もしかすると既に……。
一瞬、先程の部屋の様子が脳裏に浮かんだ。
相手の目的によっては、その可能性はある。
──もしそうだとしたら、この相手はかなりの危険人物……正体は分からないですけど、人殺しに躊躇いが無い人なのは間違いありません。
全身の筋肉に力を入れて、紫苑はいかなる事態にも対応出来るように身構える。
スッと、自然に思考回路が戦闘用のそれに切り替わっていくのを自覚した。
相手が誰かとか、何故ここに居るのかとかいう細々した疑問は棚上げされ、今何が必要かを紫苑の蓄積した経験が推察していく。
──この人は、多分放火犯にして殺人犯。なら、人手があった方が……いや、下手に仲間を呼ぶのは不味いでしょうね。そもそも、私と夏美さん以外はこういうのに慣れていないでしょうし。
加速する思考の元、紫苑は助けを呼ぶという選択肢を除外。
正直なところ、白雪や葵にここに来られても、足手まといだ。
向こうの目的が何であれ、こうも出くわしてしまったなら、唯一戦闘慣れしている紫苑が相手をした方が良い。
そこまで考えてから、紫苑は犯人に──性別も分からないので、こう呼んでおく──声を発した。
下手に刺激するのもどうかとは思ったのだが、一応確認してみたかったのだ。
「……何者ですか?名乗ってください」
摸造刀をしっかりと握り締めながら、最初に一言。
この場で口にするにしては随分と時代がかった言葉だったが、致し方ない。
ピクリ、と犯人の肩が上がる。
そして、返答代わりにか。
コツン、と足が進められる。
──……来る!
犯人は一言も喋らなかったが、それでも動物的な勘で紫苑は相手の次の行動を察知した。
後数歩、もしくは数秒で。
確実に何か、こちらに仕掛けてきそうだ、と。
ならば────。
「…………ッ!」
敢えて、言葉は発さなかった。
無言で、紫苑は自分の持っていた懐中電灯を廊下に放り捨てる。
そして、両手の意識をただ摸造刀にだけ集中させた。
やや近づいてきていた犯人の足音が、ピタリと止まる。
向こうもこちらを照らしているので、今の動きは見えていたのだろう。
不思議そうに、或いは警戒するように、動きを静止させていた。
そしてその静止こそ、紫苑としては絶好の的だった。
いくら幸三氏を抱きかかえられていようが、動かない標的を取り逃がすほど氷川紫苑の腕は悪くない。
彼女は一瞬だけ火災も、呼吸のことも忘れて、ただただ摸造刀の柄だけに意識を向けた。
その上で────抜刀。
バンッ、と殆ど破裂音に近い勢いで紫苑の右足が踏み込まれた。
一瞬にして彼女の体は左前方、斜め前に広がる空間に到達し、犯人の懐中電灯が照らしていた領域から離れる。
要は壁際に駆け寄っただけではあるのだが、向こうからすれば、突然紫苑の姿が闇に消えたように見えたことだろう。
そう思わせるために、自分の位置を知らせかねない光源を捨てたのだ。
──ここでっ……二歩!
斜め前に飛び出た都合上、あっという間に迫ってくる壁を前に、彼女は左足を踏み込む。
今度の破裂音は、壁から鳴った。
殆ど、壁を蹴り上げることで方向転換をした形となる。
数秒間滞空しながら、彼女は筋肉のバネと本能だけで無理矢理姿勢を維持した。
その勢いで、標的を見据える。
自然、紫苑の目には再び幸三氏と犯人の姿が映った。
ここまで近寄って分かった────幸三氏は少なくとも、外傷はない。
理由は分からないが、どうやら薬か何かで眠らされているようだった。
犯人は彼を静かにした上で、こうして抱きかかえているらしい。
尤もそのことは今の紫苑には重要ではなく、寧ろ大切なのは、現在の犯人が幸三氏を運ぶことしかしていない、という情報の方だった。
──見た感じ、武器は持っていない……勝てる!
壁を蹴った反動で、瞬く間に距離が詰められる。
形としては、中空から犯人相手に襲い掛かるようなものだった。
流石に相手も面食らったのか──というより、そもそもにして見えていないのか──対応は無かった。
好機なのは間違いない。
ならば、行動あるのみ。
それだけを励みに、紫苑は摸造刀を振り下ろした。