霞む美食
「でもその人たちが、何でああいう感じなんですか?」
「ああいう感じって?」
「何というか、こう……イライラしている、というか」
何となく気になって、紫苑はそんなことも聞いてみる。
話を聞く限り、理由が分からなかったのだ。
マナーを学んでいないのはともかく、彼らの過去を考えれば、このパーティー会場に呼んでもらえただけでも御の字、というのが実情だろう。
だというのに、どうしてあんなにも焦った顔をしているのか。
「まあ、そこは……シンプルに、葵さんのお見合いが進みそうなのが嫌なのでしょうね。彼らとしては、遺産の取り具合に関わるから」
「遺産、ですか」
「ええ。幸三さんはまだまだお元気だと思うけれど……やっぱりそう言うのは、何かと気になってくる年齢でもあるから。絶縁状態なのにここにわざわざ来たのは、そこが理由でもあると思う」
流石にパーティー会場で遺産の話をするのもどうかと思ったのか、白雪はさらにボリュームを下げる。
今までの話も十分ぶっちゃけていたというか、おめでたい席でする話では無いはずではあったが、ここから先は今まで以上に不謹慎な話、ということらしい。
──あ、だったら流石にここで話を止めた方が……。
自分から聞いておいてなんだが、そこで紫苑は口をつぐもうとする。
もうこれ以上は、と自制が働いたのだ。
だが────。
「いえ、多分幸三氏の体調はそこまで良くはないはずですよ。多少はその遺産相続とやらも、生々しい問題になっているんじゃないですかね?」
瞬間、聞き慣れた声が話の中に立ち入ってきた。
反射的に振り返ると、そこには皿の上に料理を山盛りにした夏美の姿がある。
気に入った料理を取り終えて、テーブルに戻ってきたらしい。
そのついでに紫苑たちの話も立ち聞きした、というところか。
「……どうしてそう思うの、夏美ちゃん?」
一瞬驚いた顔をした白雪は、夏美相手に静かにそう問いかける。
声のボリュームは極限まで絞られており、暗に「大きな声ではこの内容は話さないように」と注意しているようでもあった。
それを察したのか、夏美は音もなく紫苑の隣に座り、細い声で根拠を繋げていく。
「……いえ、実はこの料理を取りに行くために、この会場をぐるっと一周したんですけどね。観光も兼ねて」
「そんなことしてたんですか、夏美さん……」
「良いだろ、バイキング形式なんだから。こう言うのは、まずメニューを知っておくのが常道なんだし」
「まあまあ……それで、夏美ちゃんは何を見たの?」
「平たく言えば、主役である雲雀家の人たちの座席ですね。そこだけ、料理が既に置かれていたので」
──え、置いてあったんですか?バイキング形式なのに?
やや驚いて、紫苑は目を瞬かせる。
だが、すぐにそこまでおかしな話でもないことに気が付いた。
元々、主催者側は挨拶やらセッティングやらで、パーティー中には碌に料理を取りに行けない可能性も高い。
なら、最初から最低限の量を取り分けておく、くらいの配慮はされていても変では無いだろう。
特に幸三氏などは、高齢故に足が悪い可能性だってある。
そのことは、無論夏美も承知しているようだった。
「まあ、それだけなら変でもないんですけどね。妙なのは、幸三氏だけ料理が置いてあったことです。近くに給仕役まで用意してね」
「……葵さんの分は無くて、幸三さんの分だけ、なのね?」
「はい。最初は、主催者側には特別メニューでも置いてあるのか、とも思ったんですが……それなら普通は、孫娘にも食べさせるでしょう?元々、彼女の誕生パーティーなんですし」
つまり、いくら何でも幸三氏だけが豪華なメニューを食べているとは考えにくいということだ。
しかしそれでも、特別メニューは確かに用意されていた。
その矛盾を解消する考えと言うのは、そう多くはない。
「単純に考えれば、答えは一つ。あれは恐らく、減塩食か、低タンパク食……腎臓や心臓が悪い人のための食事なんでしょう。それなら、幸三氏だけ特別に別メニューが用意されていることにも納得がいきます」
「つまり……雲雀幸三さんは糖尿病とか高血圧に悩まされていて、食事制限が掛かっている、ということですか?」
「そゆことそゆこと」
実際、あんまり美味しくなさそうなメニューだったしな、と夏美は不躾な発言をする。
人の食事にケチをつけているような発言だが、逆に言えば夏美がチラっと見るだけでもそう判断で出来るようなメニューだったらしい。
この辺りは、高級なケータリングを用いながら健康的な食事を用意するという行為の限界だろうか。
「因みに、この推理にはもう一つ根拠がある。実を言うとついさっき、早めに食事を終えた人のためにかデザートの用意もされ始めたんだが……」
「デザート……ケーキとか、フルーツとかですか?」
「その通り。後で取りに行こうと思って見に行ったんだが……その時、給仕役のスタッフが、フルーツの山からわざわざグレープフルーツだけを除いて、幸三氏に渡していたんだ」
「……雲雀幸三さん、グレープフルーツが嫌いなんですか?」
本気でそう考えて、紫苑はきょとんとした顔になる。
だがこれに関しては、白雪の方が迅速に解を出した。
「グレープフルーツ……そうか、夏美ちゃんが言いたいのは、お薬のことね?お薬の一部はグレープフルーツと一緒に飲むと、効果が強くなったり副作用が大きく出たりするから……」
「その通りです、白雪部長。恐らく飲んでいるのは血圧を下げるための降圧薬や、高脂血症の治療剤などでしょう。要するにそう言う薬を常用する程度には、幸三氏は生活習慣病に悩まされている、ということです」
朗々と説明する夏美の前で、白雪はしっかりと頷き、紫苑はへえ、と思う。
グレープフルーツにそう言った性質があることなど、今日初めて知った。
何分、紫苑は風邪を引くことすら滅多にないという健康体である。
医学を志している訳でも無いので、この手に知識に関しては疎い物があった。
結果、夏美の考えをフンフンと聞くことになる。
夏美さんみたいな人の視点だと、食事風景だけでも色々考察出来るんですね、と思いつつ。
「まあそういう訳で、幸三氏も年相応には病気をしているとは思うんですが……合ってますかね、白雪部長?」
「そうね……私も流石に持病までは聞いたことが無いけれど、夏美ちゃんの今の話を聞く限り、それが正しいと思う」
何度か頭の中で夏美の推理を反芻するようにしながら、白雪は頷く。
そして、今までの付き合いを思い出しながら証言を絞り出した。
「元々、社長職や会長職を歴任していた現役時代は、多忙で不規則な生活をしていたそうだし……葵さんのご両親、つまり息子夫婦を亡くした時には、ショックでしばらく荒れた生活をしていたとも聞いたことがあるわ。正直、肝臓や腎臓の一つや二つ、壊してもおかしくはないと思う」
「なら、その辺りが切っ掛けかもしれませんね……幸三氏の体調を考えれば、遺産問題は決して遠い未来の話では無い。だからこそ、こんなお見合いパーティー染みた催しまで開かれ、さらに次男三男もやきもきしている、ということでしょうか」
最後の方は流石に夏美も空気を呼んだのか、それまでよりも更に小声で話していた。
夏美さんにそれくらいの常識があって助かりました、と言いだしっぺの紫苑は密かに考えて────しかし、次の瞬間。
その配慮が遅すぎたことを、三人は思い知ることになった。
「いやはや、自分の名前が出ているからちょっと立ち聞きしてみれば……若者の知恵も恐るべし、だな」
場を強制的に落ち着かせるような、低い安定感のある声。
紫苑たちではどうしても出せないような、人生経験に富んだ深みのある声。
そんな声が、夏美たちの背後から響いてくる。
最初に反応したのは、白雪だった。
やはり慣れと言うのが大きいのか、彼女は真っ先に「あらあら」と口に出すと、そのまま流れるような動きで音もなく立ち上がる。
その上で、すらりとお辞儀をした。
「お久しぶりです、幸三さん……本日はこのような場に友人ともどもお招きいただき、恐悦至極に存じます。事情あってこの場には来れませんでしたが、父も大変喜んでいました」
「あー、良い、良い。こんな場とは言え、君んとことの付き合いも長いんだから。そんなにかしこまらなくても良いよ、亜優君」
白雪がお辞儀をした先に、自然な様子で佇む老紳士────主催者である雲雀幸三氏は、そこでヒラヒラと手を振った。
その動きは気さくで、圧と言うのを感じさせない。
これに関しては、白雪の背後に控える形になった紫苑たちのことを配慮した動きとも取れた。
「今日はまだ、葵とは話せていなかったかい?」
「ええ、少々タイミングを逃しまして……それに本日の葵さんは、名実ともにパーティー会場の中心に咲く花ですから。お邪魔しては悪いでしょう?」
「ハッハッハ、それを言うなら、あそこでうろうろと蠢いている参加者たちは、花に寄ってきた悪い虫ということになるなあ」
「あらあら、お口が悪い」
「ふん、自分で呼んでおいてなんだが、妙に格好つけた若僧に孫娘を目の前で口説かれるというのは、中々難儀な体験でね。それでこうして逃げてきたくらいなんだ、口も悪くなるさ」
紫苑があたふたとしている内に、白雪と幸三氏は親し気にそんな会話をする。
場の雰囲気も相まってか、両者とも妙な話し方をしていた。
片や高級そうなスーツに身を包んだ老紳士、片や時代にそぐわない程の和装に身を包んだ美少女と、アンバランスな装いをした二人だったが、不思議と二人が並ぶ様子には不自然さが無い。
二人の前々からの関係と、両者が内包する品の良さがそうさせるのか。
──何だか、凄く凄みのある人ですね、このおじいさん……夏美さんのさっきの話だと、持病が何かしらあるはずですけど、全然そう見えない。
後方から彼らの会話を流し聞きしつつ、紫苑は相手の様子を伺ってそんなことを思う。
事実、そんな感想しか出てこないくらいには、幸三氏は威厳のある老人だった。
口調こそ白雪相手と言うこともあってか軽いものだったが、それでもどことなく言葉の端々に格の高さが滲み出ている。
気が付けば、周囲でボッチ飯状態だった参加者たちも、全員が立ち上がってチラチラとこちらの様子を伺っていた。
それらの視線に気が付いているだろうに、しかし気にせずに幸三氏は会話を楽しむ気配を崩さない。
その胆力は、なるほど確かにこの豪華な屋敷の主人らしい、という納得を紫苑たちに与えた。
「ええと、それで彼女たちが、亜優君のお友達だね?」
「はい、そうです。私のやっている部活に入ってくれた新入部員でして……どちらも、素敵な女の子たちなんですよ?」
「ほう、それは大したものだ。亜優君の人徳がなせる業かな」
ボーっと見ているうちに、不意に会話の矛先は変化していた。
期せずして紹介されるような形になった紫苑は、はた、と固まってしまう。
何をすればいいのか、一瞬分からなくなったのだ。
しかし、それはあくまで紫苑のみの話。
生来、無限の自信が湧き出る泉を持つ彼女の相方は、すぐにハキハキと挨拶をしていた。
「はい、煌陵高校ミステリー研究会、新入部員の松原夏美です。初めまして、そしてお見知りおきを」
「ほう、これはまた元気が良いお嬢さんだ……こちらこそ初めまして。私はこの屋敷で隠居生活を送っている、雲雀幸三と言います。もう聞いているかもしれんが、どうぞよろしく」
夏美たちは間接的に幸三氏のことを聞いていたが、向こうからすれば初対面なので、互いに丁寧に自己紹介をする形となる。
慌てて、紫苑も夏の後ろから「ひ、氷川紫苑と言います……」と挨拶をして、追従するように頭を下げた。
果たして聞こえたかどうかは分からないが、しないよりはマシだろう。
「今日はよく来てくれたね、二人とも。肩ひじを張る必要は無いから、タダでイタリアンにありつけると踏んで、腹いっぱい食べていなさい。何分こういうパーティーはお偉いさんばかり呼ぶから、年寄りが多くてね。君たちのように若い人たちに食べてもらわないと、料理が余るんだ」
ガチガチの姿勢でお辞儀をする紫苑を微笑ましいものを見つけたような目で見た後、幸三氏は冗談めかしてそう語った。
紫苑たちの目論見はお見通しということだろう。
ハッハッハ、と再び景気よく笑った彼は、そこでふと思い出したように夏美の方を見た。
「因みに先程、料理のメニューについて推理をしていたのは……そこにいるお嬢さんだね?」
「はい、そうですね……ご不快でしたか?」
「いや、まさか。寧ろ的中しすぎていて、横から聞いていて驚いたくらいだよ」
フフ、と彼の口角が上がる。
そして、答え合わせだ、と軽く口にした。
「私は確かに、医者に食事制限を喰らっている。腎機能の方だって、後ちょっとで透析というところまで追いつめられているからね。あの不味いメニューも確かにそのせいで用意してもらったものだ……いやまったく、若いのに大したものだよ」
気前よくそんなことを言ってから、幸三氏は何故か、唐突に遠い目をする。
そして、かなり切実な声で、こんなことを言った。
「うちの馬鹿息子どもの頭蓋骨に、君のように頭脳明晰なお嬢さんと同じくらい賢明な脳味噌が少しでも宿っていれば……私も安心して死ねるんだがなあ。いやはや、これは無いものねだり、か」
──おおう……これは。
いよいよ、どう返して良いか分からない言葉が投げかけられる。
そのせいで、再び紫苑はその場で硬直してしまった。